第87話 逃亡
――丘を下ると、小さな寒村が見えてきた。
長い冬に閉ざされていたせいか、家々は肩を寄せ合うようにひっそりと並び、その屋根の端にはまだ雪が残っている。
街道の脇では、山から流れ下る雪解け水がきらきらと光を反射しながら、せせらぎとなって村へと続いていた。
足元には、湿った土の裂け目から雪割草が顔をのぞかせている。紫がかった花弁は、旅の疲れをほどくようにやわらかで、それでいて凛とした気配を放っていた。
焚き火の煙の匂いが風に乗り、遠くでは羊の鈴がかすかに鳴っている。
そんな早春の景色の中、西――ノーマンズランドの方角から、荷馬車と騎馬の一行がゆったりと村へ向かっていた。サトリ、リーナ、ローレン、ミセル、そしてアモン――五人の仲間たちだ。
先頭を行くミセルが馬上から声を上げた。
「”最後の村”が見えてきたぞ!」
荷馬車から身を乗り出したサトリ、リーナ、アモンは口々に喜びをあらわにした。
「やっとここまで帰ってこれた!」
「やれやれ、今夜こそ寝台で眠れるわ!」
「おいらは屋根のあるところなら何でもいいや!」
子供のようにはしゃぐ三人を横目に、ローレンだけが浮かない顔をしていた。
「どうしたの、ローレン? 人里に戻れたのよ?」リーナが心配そうに尋ねる。
「ああ、ありがとう。心配はいらない。ただ、少し考え事をしていてね。」
闇の王を倒し帰路についてからというもの、ローレンはずっとこんな調子だった。
「そう…」リーナは寂しげにうつむいた。
――
村に入ると、村人たちは幽霊でも見たかのような目で一行を迎えた。やがて村長が家から飛び出してくる。
「まさかお帰りになるとは! では闇の王を討ち果たされたのですね。これは一大事――まずは”勇者様御一行”に、ゆるりとお休みいただかねば。」
――
夜になると、心づくしの祝宴が催された。冬を越したばかりのわずかな蓄えから用意された料理は、討伐の旅の途中で口にしたものと大差なかったが、村人たちの誠意が胸にしみた。
やがて宴もたけなわとなった頃、村長が切り出した。
「勇者様方のおかげで闇の王は滅び、この村の使命も、残すは一つとなりました。」
「残る使命って?」サトリが尋ねる。
「皆様の伝記を作ることです!」村長は誇らしげだった。
――
深夜。村が眠りにつく頃、一行は静かに寝所を抜け出し、音を立てぬように出発した。
「ねぇ、村長に黙って出てきて、本当に良かったの?」リーナが不満げに言う。
「伝記を作るとなれば、長逗留は避けられない。あの村に俺たち五人を養わせるのは酷だ。」ローレンが低く答えた。
「それに、もし伝記を作ってしまったら――あの村はどうなるか分からない。」
「どういうこと?」
「やるべきことがあるから、人は生きられる。やるべきことを失えば、人は荒むんだ。」ローレンの声には寂しさが滲んでいた。
リーナは納得しきれないまま、黙り込んだ。
――
追っ手はかからないだろうと分かっていたが、”最後の村”への後ろめたさから、一行は夜通し街道を東へ進んだ。
やがて地平線から朝日が昇り、仲間たちと世界を等しく黄金色に染めていった。




