第79話 ニンフの語り
「かつて、神々と人間は、地上で共に在った。人間は無垢で、悪を知らず……神々は、それこそが人の幸せだと信じていたの。」
柔らかな声が、ほの暗い大広間に響く。
仲間たちは言葉を忘れたように、静かに耳を傾けている。アモンでさえ、涙を止めていた。
「けれど、一柱だけ異を唱えた神がいたの。」
「『動物には無垢もよい。だが人間は、我ら神々の似姿。進歩こそが人の本質だ』と。」
「その神は、人間の心に“欲望”を植えつけた。」
「怒った神々は、その神から力を奪い、天より追放したわ。――その名が、グラトス。」
語りの間、グラトスは目を閉じたまま、まるで懺悔を受けるように静かに座していた。
「力を奪われたグラトスは、それでも諦めなかった。」
「神の力に代わる力――“魔力”を、長い年月をかけて自らの手で鍛え上げたの。」
「そしてその間にも、人間は変わっていった。」
「欲望はやがて貪欲へと姿を変え、人々は善悪の境を曖昧にしていった。」
「やがて、グラトスが魔力によって神に匹敵する力を得ると、彼は人間界に干渉を始めたの。」
「悪徳を広めるために。――あなたたちが“鉄の時代”と呼ぶものの始まりよ。」
仲間たちは言葉も出ないまま、ニンフを見つめていた。
「私は、長く傍観していた。」
「グラトスの言い分に、一理あるのかもしれないと思ったから。」
「確かに人間は、時間とともに進歩していったわ。」
「農業、商業、工業、芸術、学問、そして魔術――数えきれない分野で。」
「けれど、その進歩と引き換えに、人間は……幸福を失っていったように思えた。」
ニンフの目が、ゆっくりとサトリへと向けられる。
「――サトリ。あなたの皇家が滅びたのも、その頃のことよ。」
その名を呼ばれたサトリは、少しうつむきながら、恐る恐る尋ねた。
「ニンフ……あなたは、何者なのですか?」
微笑を浮かべて、彼女は答えた。
「私? 私はもともと人間よ。」
「神々に愛され、祝福された魔法使い。……けれどもう、人とは呼べないかもしれないわね。」
その笑みも束の間、ニンフは真剣な眼差しで語りを続ける。
「私は思ったの。このままでは、人間はいずれ滅んでしまう――と。」
「だから、私はグラトスと戦った。何度も、何度も。けれど決着はつかなかったわ。」
「私と彼の魔力は、拮抗していたの。戦い続ければ、いずれ共倒れになると感じた私は……彼に申し入れたの。」
「互いの魔力を制限するために、私が彼に嫁ぐことを。」
ざわり、と仲間たちの間に動揺が走る。
「グラトスに囚われている? 違うわ。私は、自らの意思で彼の元へ来たの。」
「彼の影響力を抑えるために、私は彼の隣に立つ道を選んだの。」
アモンが息を呑み、リーナが目を伏せる。誰もがニンフの言葉を信じかねていた。だが、彼女の眼差しに、嘘はなかった。
「でも……それでも、人間の欲望は止まらなかった。」
「悪徳は、むしろ以前よりも勢いを増して広がっていった。」
「そして私は……取り返しのつかない過ちを犯してしまった。」
その言葉の重みに、空気が凍りついたようだった。
ニンフは目を閉じ、静かにその場に佇んでいた。




