第63話 サトリの悪夢
「そんなの知らないよ! みんなに何をした! 元に戻せ!!」
アモンは震える手で、近くにあった杓子を構えながら叫んだ。恐怖に足はすくみ、喉も震えていたが、それでも彼は一歩も退かなかった。
絶対的な優位に立ったクレアは、一瞬浮かんだ疑念を押し殺し、「ふふふ」と不敵に笑った。
すると、黒く禍々しい霧がクレアの全身を包み込んだ。霧の中でその身体は崩れ、まるで脱皮するように、内側から別の存在が姿を現した。
・・・アモンには永遠にも感じられる沈黙が続いた。
やがて霧が晴れたとき、そこにクレアの姿はなかった。代わりに現れたのは、黒いレースの喪服に身を包んだ女。燃えるようなルビー色の瞳に、深紅の艶やかな唇。透き通るような白い肌は美しくも、どこか人ならぬ冷たさを漂わせていた。
「我が名はシレーヌ。闇の王グラトス様の忠実なる幹部。お前たちを消すため、エルフに姿を変えて近づいたのさ」
アモンが唖然としていると、シレーヌは嗤いながら一歩、また一歩と迫ってくる。
「さて小僧。答えてもらおう。お前、魔法と何か関わりがあるのか?」
「知らないよ……さっきも言ったじゃん」
全身を震わせながらも、アモンは必死に言葉を絞り出す。
「私の魔法は、詠唱を必要としない。まぶたの動きひとつで術を掛けられる。術を受けた者は、いつ陥ったかすら気づかない……まるで、夢でも見ているかのようにな」
「だが、お前……私の方を見たはず。術にかからないとは思えん。何か護符でも身につけているな……」
シレーヌの目が鋭くなり、アモンの胸元にぶら下がったペンダントに目を止めた。
「それだ……そのペンダント。見せな!」
アモンが抵抗するも、シレーヌは無理やりその顔を正面に向けさせ、ペンダントを覗き込む。
「……こっ、これは……! グラトス様の紋章……そんな馬鹿な……」
シレーヌの瞳が見開かれ、赤い瞳が恐怖に揺れる。
「まさか……お前は、アモン様……!?」
――
アモンがシレーヌに詰め寄られているその時、サトリは――悪夢の中に囚われていた。
深い森。冷たい風に揺れる木々のざわめきが、彼の心を嘲笑うかのようにささやき続ける。
サトリは弓を構え、的に向かって矢を放つ。だが矢は逸れ、かすりもしない。何度試しても、結果は変わらなかった。
背後には、村の仲間たちの姿があった。
牛飼いのロビーは、山の獣すら素手でねじ伏せる豪腕の持ち主。
ミキは、病床の祖母を看病しながら帳簿を預かるしっかり者。
モエは、祈りと歌で村人の心を癒やす、皆の希望そのものだった。
彼らは皆、誰かのために力を尽くしていた。だが、サトリだけは――
「君って、結局、何ができるの?」
振り返ると、そこにはもう一人の“自分”がいた。顔も声も同じ。でもその目だけは冷たく、氷のように鋭かった。
「人の心がわかるふりをして、ただうなずくだけ。誰の役にも立てないのに、そばにいたいなんて――自己満足だよ」
耳を塞いでも、その声は頭の奥に直接響いてくる。
「誰も君に頼ってない。君がいなくても、世界はまわる。君がいれば、かえって皆が気を遣う。だから君は――“誰にも必要とされない者”だ」
仲間たちの笑い声が、いつしか冷ややかな嗤いに変わっていく。
楽しそうな輪の中に、サトリの居場所だけがなかった。
サトリは震える手で弓を手放し、声にならない叫びを上げた。
森の影が彼を飲み込み、足元が崩れ落ちていく――
※杓子:汁や飯などをすくい取る、”おたま”や”しゃもじ”などの柄のついた道具の総称
※詠唱:魔法などの力を引き出すために 特定の言葉を口にする行為
※帳簿を預かる:家計の切り盛りを任されていること




