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第三十五錠 終わりからの始まり

 遠藤家の両親にこれまでのことを全て告げてから既に半年以上経つ。葵の改名手続きは進んでいないが、両親との関係は改善しつつあった。父親も女の子であることを認め、厳しくしすぎたことを詫びた。後継にならなくても良いこと、好きに生きてほしいことをあの日の病室で聞いた。それ以来、ずっと胸につかえていたものがとれたような気がすると共に、お互いが少しずつ歩み寄ることができていた。

「葵の心には水原愛さんがいる。だから、私たちのことを本当の親と思えなくても構わない。だけど、私たちからしたら葵は唯一の子供なんだ。愛としてでも、葵としてでも、アオイとしても…。どんな姿や名前であってもそれだけは変わらない。たとえ、父さんたちのことが嫌いだとしても、葵はかけがえのない存在なんだ。いい親ではなかったと思うが許して欲しい」

 この言葉は時が経っても忘れることはなかった。葵自身も、愛の心があるが故に本当の親と思えなかった事、厳しい環境によって心を閉ざしてしまっていたことを伝えた。敵意や悪意はなく、ただ、自分という存在を認めてもらえなかった事、そして心の中は女性であることを認めてもらえないだろうという思いが強く、素直に接する事ができなかったと伝えた。

 ずっと一人で、寂しかった事も。

 雪解けには時間はかかるが、これからは少しずつ距離を縮めて接していけるだろう。お互いが隠す事も、遠慮する事も無くなったのだから。


 月日は巡り、あっという間に八月になっていた。水原家は二度目のお盆を迎える年で、葵はもちろんだが今回は石井も同行していた。石井が来ることは葵たっての願いを聞き入れたことで実現した。葵はロータリーに停めた赤い軽自動車から降り、駅から出てきた石井を出迎える。

「由香、来てくれてありがとう」

「仕事もお盆期間中は休みだし、別に予定もないから…」

 アオイのお願いだから来た、とは弱みを握られるようで口が裂けても言えなかった。

「でも、お姉さんのお墓参りとか…」

「そっちはこの後行くよ。ちょっと遠いけどね。でも、カメラ持って水原家に来いなんて何?まさか、カメラマンにするつもり?」

「んー、半分正解で半分ハズレかな?」

「なにそれ?」

「まあまあ、続きは車に乗ってからで」

 助手席のドアを開け、石井に乗るよう促す。ため息を一つついて石井は乗り込み、葵に目配せをする。

「ありがと」

「どういたしまして」

 ドアをそっと閉め、自らも運転席へと乗り込む。

「これって、一也さんの車だよね?借りてるの?」

「ううん、正式に譲り受けたよ」

「そうなんだ。たぶん、アオイが乗ってくれた方が一也さんも喜ぶと思う」

「だといいな。ぶつけたら呪われそうだけど」

 他愛もない話をしながら水原家を目指す。マニュアル車の操作も難なくこなせている。わずかな沈黙の後、葵から先ほどの話の続きを切り出した。

「さっきの話の続きなんだけどさ、前に由香は写真を通して人を幸せにする仕事がしたいって言ってたじゃない?それができると思うから今日呼んだんだ」

「どういこと?」

「うちは…というか水原家は敷地内にお墓があってね、お盆の時はそこまでご先祖を迎えに行くんだ。お墓にお線香上げて、自宅近くまで戻って来たら迎え火で自分の背中を温めるの」

「何それ?」

「三途の川を渡って濡れたご先祖様の体を温めてあげるんだって。お墓から私たちがおぶってくるんだけど…そういう風習、知ってる?」

「いや、聞いたことないわね。うちはお寺まで行ってお線香上げてくるだけだし…」

「じゃあ、珍しい写真が撮れると思うよ」

「…それ、ただのカメラマンじゃない?」

「いや、そこは由香先生の腕の見せ所で」

「こいつ、調子に乗って!そのために東京から呼んだのか!」

 ビシッと葵の脇腹を小突く。

「危ないからやめてって!」

「ふん、そっちが悪いんでしょ」

「…はいはい、ごめんなさい」

「で、もう半分は?」

「んー、ナイショ」

「アオイ…?」

「…あとでわかるから、大丈夫」

 もう脇腹を小突かれるのはごめんだと左手を離して防御体制を取る。とはいえ前を見なければならないのでほぼ意味はなかったが、流石に運転中は危ないので赤信号の度に突きの応酬が繰り返された。

 程なくして、水原家へ到着する。葵にとっては通い慣れた我が家だが、石井にとっては初めての訪問となる。

「いやー、水原家って大きいのね」

「ただ土地が広いだけで、何もないよ。パパもいなくなっちゃったから、畑も縮小しちゃったし」

「そっか…」

 石井はそれ以上は何も言わなかった。あまり触れてはいけない部分と思ってのことだった。

「ママが待ってるから、行こうか」

「うん、お邪魔します」

 合鍵で玄関を開け、石井を招き入れる。

「ただいま〜」

「お邪魔しまーす」

 女性二人の高い声に引かれるように、好子がリビングから顔を覗かせる。

「お帰り、愛。由香ちゃんも久しぶりね」

「ご無沙汰してます。今回は呼んでいただいてしまってすみません」

「いいのよ、私たち二人より三人の方が一也さんも喜ぶから。さぁ、上がってちょうだい」

「そういっていただけるとありがたいです。お邪魔します」

 玄関での挨拶もそこそこに、石井と二人並んでリビングへと入る。

 あの時からリビングはそう変わっていない。唯一変わったのは仏壇に一也の位牌と写真が飾られたことだけだった。

「アオイ、黒雫(くろしずく)買ってあるから、由香ちゃんに出してあげて」

「はーい。由香、黒雫食べよう。地元のすっごく美味しいお菓子なんだ」

「マジ?食べる!…じゃない、いただきます」

「いいのよ、気を使わなくて。楽にしてて」

 すみません、と少し罰が悪そうにする由香が可愛らしく面白かったが、それを言うと後で何倍にもなって返ってくるので黙っていた。好子と石井、葵の三人での談笑は時間が過ぎるのが早く、時計の針はまもなく午後五時に差し掛かろうとしていた。

「あら、もうこんな時間?そろそろ行かないと…」

「アオイ、行くって例のやつ?」

「そう、いつも夕方に行くんだ」

「じゃあ、私カメラ用意するね」

 石井は鞄に手をかけ、持ってきたカメラの準備を始める。

「ママ、ごめん、ちょっと待ってて。部屋行ってくる」

 そう告げると返事を聞かずに葵はリビングを後にする。部屋に入ると扉に背を預け、シンと静まり返った部屋を眺める。葵になってからも何度か訪れた部屋。それも、今日で訪れるのが最後になるかもしれないと思うと少々違って見える。

 子供の頃に家族で買いに行ったカーテン。

 ベッドに佇むお気に入りのぬいぐるみたち。

 クローゼットにかかった、あの時のままの制服。

 どれもが懐かしい。

 扉を離れ、小学生の頃から使い続けてきた勉強机に手を触れる。椅子に腰掛け、引き出しを覗く。二十年前から何も変わっていない、時が止まったままの部屋。

 机の上に置かれた日記を手に取り、最後のページを開く。何も書かれていない、真っ白なページ。葵はボールペンを手に想いを綴り始めた。


 水原愛様。


 この日記を書くのはこれで最後になります。

 私、水原愛は二十年も前に亡くなっていました。でも、どんな魔法を使ったのか、神様のイタズラなのかはわからないけど、奇跡が起きた。

 パパとママにも会えて、やりたかったこと、話したかったこと、心残りだったこと…全部とは言えないけど、ある程度精算できたのかなって思ってる。

 この体の持ち主、遠藤葵とその家族にはちょっと申し訳なかったけど…。


 葵、ごめんね。私が水原愛にこだわりすぎてた。

 これからは二人で一人…ううん、やっと、遠藤葵として生きていく決心ができたよ。


 今までありがとう、水原愛。

 そしてごめんなさい。あなたの心はここにあるのに、あなたとして生きられなくて。


 この奇跡に感謝して。


 さようなら。



 書き終えてボールペンをしまい、ノートを閉じると同時に、溜まっていた息を吐き出す。

(これで、いいんだよね)

 ノートを手に階段を降り、リビングへと戻る。

「お待たせ。ママ、この日記、もらってもいい?」

「いいも何も、あなたのものでしょ?好きにしなさい」

「ありがとう」

「さあ、行きましょう。日が暮れちゃうわ」

「はーい」

 日記を鞄にしまうと、肩にかけて玄関へと向かう。

 敷地の片隅にあるお墓は徒歩五分程度ですぐにたどり着いた。お花を変えて、墓石に水をかけて、お線香をあげて…とお寺でやっていることとそう大差はない。

「なんか、普通だね」

「うん、ここまではね」

 そう言うと、葵も好子も手を後ろで組み、自宅目指してお墓を後にする。

「…見ないでしょ?こういうの」

「うん、初めて見た。ていうか本当にやるんだ」

「うん、やるよ。ほら、シャッターチャンス」

 言われるがまま、夕焼けに照らされたお墓と葵達をファインダーの中に収める。辺りで聞こえるのはひぐらしの鳴き声とカエルの大合唱、そしてシャッターを切るカメラの音だけだった。

 そうこうするうち、三人は自宅付近まで辿り着く。そこで好子が丸めた新聞紙に火をつけて背中を温め出した。葵も同じく背を向ける。

「…なんか、ヤバいもの見てる感じ?」

「いや、なんか独特だなって」

「この地域だけなのかしら?インターネットで調べても出てこないのよね」

「かもしれないね」

 時間にして二〜三分だろうか。だいぶ背中も温まった所で迎え火の方へと向き直る。

「これでお盆のお迎えは終わりよ。由香ちゃん、変なのに付き合わせちゃってごめんね」

「いえ、大丈夫です。こんな風習もあるんだなって勉強になりました」

「そう言ってくれるならいいんだけど…って愛、その日記と落書き帳は?」

 迎え火に向き直った葵の手には先ほどの日記帳と愛の記憶を書き溜めた落書き帳が握られていた。視線は揺らめく炎に向けられている。迎え火の火力はまだ十分にある。

「え、アオイちょっと!」

「何するの⁉︎」

 手にしていた日記と落書き帳を迎え火の中に放り投げた。何も語ることもなく、静かに。

「もう、必要ないから」

「必要ないって、これは愛さんの…」

「もう、水原愛はいない。それに、私は水原愛だけど水原愛じゃない。遠藤葵なの」

 葵の視線の先には炎に炙られて少しずつ焼け焦げていく日記と落書き帳が映っていた。好子は日記を拾い上げるでもなく、ただ黙ってその様子を見ていた。

「…燃えちゃったね」

「うん」

 日記と落書き帳が燃え尽きるのを待っていたかのように、迎え火もその勢いが衰えてきた。

「さあさあ、危ないからお水をかけて家に入りましょう。お線香、あげないとね」

 用意したペットボトルを開けて水をかけようとしたその時、葵が石井に声をかけた。

「あのさ、由香」

「何?」

「私ね、由香のこと、好きだよ」

「な、いきなり何言い出すのよこんな所で」

「冗談じゃないし、ふざけてもいない。私は由香とずっと一緒にいたいんだ」

「…やめてよ、恥ずかしい」

 怒ったり恥ずかしがったりと忙しい石井を真っ直ぐに見据えて、葵は続けた。

「正直ね、昔はホルモンやって手術して女の子になりたいって思ってた。でも、今は違う。この体で生きてきて、何が一番大切かって考えたら由香しかいなかった。もう、私の体はこんな状態だから男に戻ることはできないし、男になりたくはない。だけど…今の戸籍なら男のままだから。名前もアオイに変えてないから…」

 ここまで言うと葵は一瞬口籠る。だが、意を決して真っ直ぐに石井を見つめ直して思いを告げる。

「結婚してほしい。こんな中途半端なやつだし、子供も作れないと思うけど…ずっと由香のそばにいたいんだ」

 石井は俯いたままで返事はない。意表を突かれすぎて言葉も出ない様子だった。少しの間を置いて彼女も応えた。

「…私も、アオイのそばにいたい」

「じゃあ…?」

「よろしくお願いします」

 頬を赤らめながら石井は軽く会釈をする。葵の隣にいる好子も微笑ましく二人を見守っている。

「よかった、こちらこそ、よろしく」

 握手しようと差し出された葵の手を、石井はバシっと弾く。

「なんでよりにもよってこういうタイミングなの?私、プロポーズはシンデレラ城の前が良かった!」

「あ…ごめん」

「ごめんじゃないわよ!どうしてくれんのよ。マジメにプロポーズするから断れなかったじゃん」

「今度ディズニーランド行こう、そこでちゃんとするから」

「ほんとに?」

「うん、約束する」

「婚約指輪は?」

「用意します」

「ランドホテルは?」

「…予約します」

「バケパは?」

「…善処します」

「じゃあ、許す」

 恥ずかしそうにしたり怒ったり落ち着いたり、強気になったり、感情の起伏が激しいな…と思いつつ、そんな石井と過ごす時間が葵には何よりも大切だった。

 水原愛として生きていれば、進学して、恋愛をして、就職して、結婚して、子供が産まれて…と女性としての幸せが待っていただろう。

 だけどこの体では。

 男の、遠藤葵の体では。

 どんなにホルモンを入れても。

 手術をしても。

 女性にしか見えなくても…。

 水原愛としての人生はない。

「今」の水原愛は水原愛ではなく、遠藤葵の体に宿った意志でしかない。

「今」生きているのは、紛れもなく遠藤葵そのものだ。

 性別違和という生き方に、水原愛の心を宿した遠藤葵という青年の生き方に迷いはなくなっていた。だが、それと体の性をどこまでを理想として追い求めるかは別次元の問題と葵は感じていた。

 遠藤家にいる頃は迷わず男性器を取り去り、女性器を設けたいと思っていた。だが、それだけが幸せではない、全てではないということをこの二十年で出会った人々が教えてくれた。

 だから、愛は決心した。

 葵として、今を生きる大切な人と共に生きたいと。

 水原愛の人生のやり直しなど、二十年も前から望んではいなかった。

 遅い再スタートとなるが、皆暖かく受け入れてくれるだろう。

 それが家族であり、愛情なのだから。

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