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第三十三錠 最期の別れ

 翌朝、渡辺が来た時に葵は棺の蓋を開けてもらった。生前、一也が愛用していた服が着ているかのように置かれており、胸ポケットへそっと手紙を忍ばせる。気持ちを込めて、と言えば聞こえはいいが、自分の中にあったモヤモヤを書き出したような内容。誰も取って見ることはないが、奥の方へ差し入れる。

「枕元でもいいと思いますよ?」

 その様子を見ていた渡辺が声をかける。

「ここでいいです。他の人に見られるの、ちょっと恥ずかしいので。フタ、ありがとうございます」

 渡辺は丁寧に棺の蓋を閉じる。

「ポケットでも枕元でも、お気持ちは通じると思いますよ」

「だといいんですけどね」

「大丈夫です、きっと通じます」

 朝のうちに棺は葬儀場へと運ばれた。棺の奥には色とりどりの花に囲まれた遺影が飾られている。葵の卒業式で撮ったものだった。この時はこれが三人で撮る最後の写真になるとは思ってもいなかった。

 葬儀場に着いた後は段取りやお花の並び順などを話すうちに日が暮れてしまった。通夜には多くの人が参列していた。会社関係の人や交友のあった人々、学生時代の友人、近所の人…途切れることなく焼香は続いた。通夜の後は葬儀場に親子三人で泊まり、最後の夜を静かに過ごした。

「あなたも本当なら、こうして最後のお酒を飲めたのにね」

「んー、私はお酒はいいかな…」

 二つの紙コップに缶チューハイを注ぐ。生前、一也が愛飲していたものだ。

「それじゃ、私と一也さんだけで。献杯」

 注がれたお酒をわずかに口に含む。

「いやー、九パーはきっついわ」

「そうなの?」

「私も普段あんまり飲まないからね。ジリジリする」

「ふーん」

「あなたも成人したら飲んでみたら?一也さん、あなたと飲むの楽しみにしてたんだから」

「そうなの?」

「ええ。あなたと同じ年に作られたワインを買って、一緒に飲みたいって言ってたわ。男の人からしたら、一緒にお酒を飲むのって特別なことなのかもしれないわね」

「そうなんだ…」

 本来なら三十五歳。共にお酒を飲めている年だ。葵の体でもあと二年、間に合わなかった。お酒を酌み交わして、一也はどんな話をしたかったのだろうと思いを馳せる。

「なんか、明日でお別れなのかって思うと寂しいわね」

「うん…今も死んだなんて信じられないよ」

「私も。なんだか寝たくないし、眠れそうもない」

 そういうと好子はそっと立ち上がり、棺の窓を開ける。そこにはいつもと変わらない一也の顔があった。

「一也さん、私、一人になっちゃったよ。寂しいよ。お前は一人になると寂しがるから、お前より長生きするんだって、そう言ってたじゃない。いつもみたいに起きてよ」

 無論返事はなく、ただ安らかに眠る一也の顔がそこにあった。

「ママ…」

 葵も好子に寄り添い肩を抱く。葵の体となって十八年。記憶にあった父の顔からは歳をとっていたが、あの頃と穏やかさは変わらない。希が死化粧を丁寧にしてくれたから顔色も良く、生前と変わらない様子だった。

「ママ、私がいるから。今は東京にいるけど、時々帰ってくるから…」

「うん、ありがとう」

 好子は葵の手に自らの手を重ねる。二人はその後も一也の横で色々と話をした。葵として生きている頃の、愛が亡くなった後の一也の様子。お酒の量が増えた時期があり、県の中央病院へ時折検査に訪れたり、検査入院をすることもあったそうだ。石井が鳥山駅で泣いていたあの日は丁度、一也が中央病院へ入院した日で、好子はその帰りだった。好子は一也の車を運転できないため電車で向かったそうだ。

「そういえば愛は車の免許って持ってるんだっけ?」

「ううん、まだ。高校の時は受験で取れなかったし…今は教習所に通う時間もないからさ」

「そうよね、ましてや東京だものね。あのさ、免許取る時、マニュアルで取らない?」

「え、なんで?どうせオートマしか乗らないし、そもそも都会じゃ車いらないし」

「そうなんだけど…一也さんの車、マニュアル免許なら乗れるから」

「あ…そういうこと」

「うん。手放すのも惜しいから、もし、乗ってくれるなら…愛が乗ってくれた方が一也さんも車も喜ぶと思うの」

「わかった、免許取る時はそうするね」

「ありがとう。大変だけど、お願いね」

 愛も乗っていたFGの頃は後部座席でも助手席でも、乗り心地は良くなかった。だが運転してる父の横顔はいつも楽しそうだった。今の車にも乗せてもらったことはあるが、乗り心地はだいぶマイルドになった。ツーシーターだから狭いものの、楽しそうな表情に変わりはなかった。

(あの車に乗ったら、私も同じ顔になるのかな)

 そんなことを思いながら話をするうちに夜も更け、告別式となった。朝早くから多くの人が葬儀場に詰めかけている。葵の体では正式な親族ではないが、水原家には親戚らしい親戚もいないため、身内として参列している。入口で好子と並んで挨拶をしていると、礼服に身を包んだ見覚えのある顔に目が止まる。

「由香?」

「アオイ、おはよう」

「なんで…こんな朝早く、遠いのに」

「だって、アオイのパパさんでしょ?一度は会ってるし、やっぱりちゃんとお別れはしたいから」

「…ありがとう」

「何メソメソしてんのよ。あなた、しっかりしなさい。そんなんじゃパパさん心配しちゃうでしょ」

「うん、そうだよね…」

「でも…今だけは許す。たくさん泣いて、あとは前向いていこう?」

「うん」

「よしよし、それじゃ、またね」

「うん、ありがとう」

 石井は軽く葵を抱き寄せて頭を撫で、受付の列へと消えていった。

(由香、来てくれたんだ…)

 たった一度しか会ったことがないのに、彼女の気持ちが嬉しかった。その後も挨拶をしていると、今度は希の姿が見える。旦那さんらしき男性との間に女の子が一人、手を繋いで歩いてくる。

「おはようございます」

「希ちゃん、おはよう。智彦さんも(ゆかり)ちゃんも来てくれたのね」

 好子も希の家族も互いに面識はあるようだった。愛が高校時代に付き合っていたトモヒコとはこの人なのかなと葵は思う。

「おはようございます。この度は突然のことで…本当に残念です」

「ありがとうございます。ほんとに、娘に続いてなんで死んじゃうんだか…」

「あれ、こちらの方は娘さんでは…?」

「この子はアオイちゃん、好子さんの親戚で色々手伝ってくれてるの」

「あ、そうなんですね。はじめまして、希の夫の智彦です。この子は縁。小学一年生です」

「アオイです。この度はありがとうございます。縁ちゃん、可愛いですね。お二人に似てる」

 百二十cmないくらいの小さな女の子を優しく見つめる。しゃがんで手を振ると父親の影に隠れてしまった。自分も、愛として生きていればこうして好きな人と結婚して、出産という女性としての人生を歩んでいたのかな…と思ってしまう。そして、今は愛する人の子が欲しいと思っても、長期間に渡ってホルモン剤を服用してきたこの体では子を成すことは難しい。石井との行為で絶頂を迎えても、男特有の白濁とした液体は出てこない。ただ、透明な液が痛みと共にわずかに出るばかりだった。

「ありがとう。ちょっと人見知りする子なの、ごめんね」

「大丈夫ですよ、こんなにたくさん知らない人いたら怖いもんね、やだよね」

 話しかけても縁はますます影に隠れてしまって出てきてはくれなかった。

「それじゃあ、受付してくるからまたあとで。縁、バイバイは?」

 無言のまま、縁は手を振ってくれた。葵時も好子もにこやかに振り返す。こんな状況でも、小さな子がいるだけで気持ちが軽くなるのは不思議だった。

「可愛いね、縁ちゃん」

「ほんとにね。小さい頃のあなたみたい」

「…ごめんね、孫の顔、見せてあげられなくて」

「何言ってんのよ、今更」

「だって…見たいでしょ?孫」

「孫はもう十八年前に諦めました。あなた、私のためにってホルモンやめるとか言わないでしょうね?」

「言わないよ、てか今更やめたって無理なんじゃない?」

「さあ、私には詳しいことはわからないけど…。愛、誰かのためじゃなくて、あなた自身の幸せをね…」

「わかってる。大丈夫だから。もう、迷わない。決めたから」

「ならいいけど…」

 子供は、嫌いではなかった。流石に小学校時代のように友達として過ごすのは苦手だが、自分の子供と過ごすなら別だろうな…と遠くに見える希一家を見ていて思う。好子には迷わないと言ったものの、今のままホルモンを続けるべきか、子を成せなくても女として生きるのか。それとも。遅すぎるかもしれないし、ホルモンをやめた所で機能回復が望めないとしても、愛する人との子をもうけた方が良いのか。これまで抱いていた価値観がわずかに揺らいでいた。

 やがて時間になり、葬儀は滞りなく進んでいった。葬儀の前に、メモリアル動画が流された。一也の好きだった音楽に合わせて、好子と二人で選んだ写真が紹介されていく。愛との入園式の写真、父の日イベントの様子、家族で出かけた遊園地やテーマパーク、好子と二人で出かけた水族館と葵を交えた三人での水族館。そして、最後は三人で撮った卒業式での一枚。葵と石井、水原家にしてみれば全く違和感のない写真だが、他の参列者からしたら少々不思議に思う人もいるかもしれない。娘との写真と卒業式の写真では共に写る人物が異なるし、卒業式での一也の姿には大きな時間の隔たりを感じさせる。何より、参列する多くの人は娘の愛が亡くなっていることは承知の上で、親族席に座る水原家と葵の関係性も見えない。が、そのことを問いただすような人はいない。それよりも皆一也の早すぎる死に胸を痛めていた。

 しめやかに営まれた葬儀は出棺、火葬へと移っていった。これが本当に最後の別れ…。涙が止まらず、棺の窓を閉めることができなかった。火葬場の時間も決まっており、係の者に促され渋々と窓を閉め、炉の中へと移される棺を見守る。

(パパ、ごめんね。ありがとう)

 好子と二人で抱き合い、涙ながらに見送った。二時間後には変わり果てた姿の一也と対面することになった。骨と灰だけになってしまってはもう、涙は出なかった。

「渡辺さん、ありがとうございました」

 全てを終え、火葬場を後にする前に好子と葵は渡辺に礼を告げる。

「いえ、私はお手伝いをしたまでで。奥さんもお一人で大変ですが、頑張ってくださいね。これからが大変ですから」

「ええ。この子も時々来てくれますし、がんばります」

「そうですね。アオイさんも、本当の娘さんのようでしたし」

 やはり、何か引っかかるものはあったのだろう。関係性や人物像から隠し子や養子とは違うと見えるものの、アオイの両親と思しき人物は葬儀に来ていない。それとなく含みを持たせて聞き出そうとした渡辺に、葵は追い討ちをかける。

「渡辺さん、心の中は今でも娘ですから」

 全てを終えて少し晴れやかな顔になった葵は胸に手を当ててそう告げる。だが、その本当の意味を知る者は好子と石井の他にはいない。渡辺には解けない大きな謎を残しながら、一同は解散となった。

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