第三十二錠 こんな形で会いたくなかった
石井に見送られながら、葵は東京駅を後にする。昨夜は石井と共に過ごしたがあまり寝られなかったため、心配して駅まで同行してくれた。石井は授業もあるため共に行くことはできなかったが、一晩中そばにいてくれた。一夜明けても、父一也が亡くなったとは思えない。嘘であってほしい、そう思いながら着の身きのままの鳥山を目指した。
新幹線から在来線に乗り換えてまもなく、葵は鳥山にたどり着いた。あまり眠れていなかったせいか、揺られる車両でうつらうつらとしていたが、やはり寝た気はしない。重い頭を抱えながら改札を抜けると、幾度となく目にしてきた光景が眼前に広がる。だが、それらはどれも色褪せて見え、楽しい、懐かしいといった気配はまるで感じられない。行けば、現実を見ることになる。行かなければ、この現実を受け入れることなく、嘘だと思い続けることができるかもしれない。それでも、葵は重い足取りで一歩ずつ通い慣れた道を歩く。この日はやけに、家が遠くに感じられた。心も体も、この事実を受け入れたくはないがために。
「愛…来てくれたのね」
「ママ、どうしたのこんな所で」
家の近くまで来ると、庭先で好子が立っていた。辺りを仕切りに見て、何かを待っているかのようだった。
「今、警察から連絡があってね。これから帰ってくるって」
「そうなの?じゃあ、何か原因がわかったの?」
「ええ、くも膜下出血…らしいわ」
「くも膜下、出血…」
くも膜下出血とは、脳と脳表面の膜の間にある血管が切れて出血するものだ。一度目は助かっても再発することもあり、死亡率も高い病気だ。
「検死した人が言うには、もし家に誰かいたとして、すぐに救急車を呼んでも助からなかっただろうって。即死、みたい…」
「そんな…」
「家の中も警察が調べて行ったんだけど、外傷もないし、もがいたり苦しんだ様子がないって。携帯電話も近くにあったし…。だから、苦しまずに逝けたのがまだ救いだったのかなって…。一人でこんな最期を迎えるなんて、悲しすぎるよ…」
溜まっていたものを吐き出すように、葵に一也の最後を伝える。涙は流れず、ただただ疲れた様子だった。彼女もまた、一睡もできていないのだろう。語り口は淡々としており、取り乱す様子はない。まだ、一也の死という現実をを受け止めきれていなかった。
「…私には、信じられない。パパが死んだなんて」
「私も、まだ信じられないわ。その辺で草取りしてたり、ひょっこり出てきそうで」
確かに…と葵は思う。夏場は朝や夕方の涼しい時間帯に庭の草取りをしたり花に水をやったりしていた。駐車場に停められた車から今にも降りてきそうな感覚もある。そうこうする内、一台のワゴン車が近づいてくる。2人とも、直感であれだな、と察する。家の駐車場に入ると、ドライバーと初老の男性が降りてくる。車体には「六三四」の文字があった。
「水原一也さんのご家族の方ですか?」
「はい。妻です」
「私、株式会社 六三四の渡辺と申します。この度はお悔やみ申し上げます」
渡辺と名乗る男性は深々と頭を下げる。丁寧な印象で悪い気はしない。
「受け入れ難いとは思いますが、お家の方へお運びしても?」
「はい、お願いします」
渡辺は軽く会釈し、ワゴンの後部ハッチを開ける。見慣れた父が、浴衣を着せられて横たわっていた。
「パパ…!」
変わり果てた姿を目の当たりにし、葵はその場に崩れ落ちる。聞いていただけの死が現実のものとなってしまった。
「あの、失礼ですが娘さんで…?」
「あ、いえ…親戚の子なんですけど、父親のように慕っていたもので…」
思わず口にした葵の一言に母親が助け舟を出す。
「そうでしたか。たしか、娘さんも以前うちで…」
「はい、その節はお世話になりました」
「そうですよね、社長からお話は聞いておりました。娘さんも旦那さんも亡くされて辛いとは思いますが…奥さんがしっかりしてください。これからお二人を守っていくのは奥さんしかいないんですから」
「そう、ですよね…」
「ええ。それでは、お運びさせていただきますね」
愛が亡くなった時と同じ葬儀社を好子は頼んでいた。今、娘は目の前にいるけれど、せめて同じ所で送ってあげたいと思ってのことだ。渡辺は一度家の中に入り、一也を運び入れる場所を確認した。リビングの仏壇前に一也の布団が敷かれている。その状況を確認した後は同乗してきた男性社員と共に運び入れた。葵も好子も、ただ見守ることしかできなかった。
「それでは、私たちはこれで…。好子さんもアオイさんも、おつらいとは思いますが、どうか最後のひと時を一緒に過ごしてあげてください。故人といられるのも今だけ、ですから」
「はい。お世話になりますが、よろしくお願いします」
「では、明日の朝、状態の確認に伺います。必要ならドライアイスも交換しますので。あまり気を落としすぎず、休める時は休んでくださいね。これからが大変なんですから」
「はい…」
「では、失礼します」
一也を運び入れた後、諸々の打ち合わせをした。お悔やみ掲載の有無や飾るお花に御供物、香典返し、遺影に使う写真…ありとあらゆる「葬儀」に関する事を話した。
今日からほんの数日後には全てが灰になって無くなってしまう。それでも、最後は温かく送り出してあげたかった。
翌日。横たわる父の姿はあれど葵は顔にかけられた布を取ることも触れることもできなかった。取れば、触れてしまえば父の死に向き合うことになるため、ためらいがあった。好子は朝から各所に電話をしたり、葬儀社から用意するように頼まれたものの準備にと忙しそうだった。葵もまた来客に備えて部屋の片付けをしたり買い出しに出たりとできる限り協力していた。
昼過ぎ。葬儀社の渡辺と打ち合わせをしている時に、チャイムがなる。打ち合わせ中の好子に代わり葵が出ると三十代くらいの女性がいた。
「え、あ…愛…?」
「えと…?」
なんとなく見覚えのある顔をした女性は葵を見るなり愛と呼んだ。
「…そんなわけないですよね。私、佐藤 希と言います。愛さんのお友達だったんですけど、お父様が亡くなられたと聞いたので…上がってもよろしいでしょうか」
「あ、はい、どうぞ」
(希…?あの頃とはちょっと変わったな…)
愛の記憶にある希は佐藤姓ではなく田中だった。愛が亡くなった後に結婚して姓が変わり、左の薬指には指輪が光る。愛は時間の存在を肌で感じつつ、かつての友達を父の元へと案内した。
「失礼します」
手を合わせて一声かけ、そっと布を取る。
「パパさん…」
その一言を発しただけで希は静かに泣いていた。葵は父の顔も、希の顔も見ることはできなかった。少しして、対面が済み再び布がかけられた。
「あの、ご親戚の方ですか?」
「はい、アオイです。お手伝いでちょっと」
「そうなんですね。はじめまして。その、親戚というだけあって、愛さんに似てますね」
「あはは、好子さんにも一也さんにもよく言われます」
当の本人です、と言いたいが言えないことはこれが初めてではない。苦笑いしながら返すしかなかった。
「私、愛と子供の頃から友達で、ピアノの発表会にも行ったり、よく遊んだりしてたんです」
「そうだったんですね」
それも知っている。希とは小学校の頃から死ぬ前日までずっと一緒だった。葵が石井に告白した花火大会の穴場も、彼女から教えてもらったものだった。
「今でも愛の命日やお盆には来てて…なんで、こんな優しいパパさんまで死ななきゃいけないの…」
一瞬落ち着いた希の目には再び涙が溢れていた。
「あの、これ…」
「ありがとうございます」
差し出されたティッシュで涙を拭う。すでにマスカラもアイラインも崩れていた。
「それでは、私はこれで。何かあれば連絡ください」
「はい、ありがとうございました」
打ち合わせが終わり、渡辺は退出する。玄関先で見送った好子は葵の隣に腰を下ろす。
「希ちゃん、来てくれてありがとう。連絡してなかったのに…」
「ちょっと人づてに聞いて…こうして会ってるのに、信じられません」
「私もよ…お顔見た?寝てるみたいでしょ?」
「はい、本当に…。亡くなった方の中には苦しそうな顔をした方もいらっしゃるんですけど、一也さんは本当に寝てるようで…」
「あ、そうか、希ちゃんは今おくりびとの仕事してるのよね?」
「はい、そうなんです。それで好子さん、ご相談があるんですけど…納棺の儀、私にやらせてもらえませんか?」
「え…」
葵も好子も思わず声を出してしまった。希がおくりびと…納棺師の仕事をしているとは思わなかった。
「やっぱり、葬儀社の方がやるから無理、ですかね?」
「いや、そんなことはないと思うけど…お願いしてもいいの、希ちゃん?」
「はい…。やらせてもらえるなら、やりたいです。パパさんの最後の旅支度のお手伝いをしたいです」
「ありがとう。明日、相談してみるわね」
「はい、お願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。一也さん、ちょっと太ったから重いかもしれないけど」
「大丈夫ですよ、もっとご立派な方もやってますんで」
そういうと長袖を腕まくりして見せた。記憶に残る希の腕とは違う逞しさがあった。その後も会話は続いたが、途中で固定電話が鳴り響いた。好子はパタパタの駆け寄り、応答する。会話の内容から、一也についてのことと察しがつく。希と二人きりになった時、葵は聞きたかったことを切り出した。
「あの、希さん。一ついいですか?」
「ええ、どうぞ」
「あの…なんでおくりびとになろうと思ったんですか?言いづらかったらいいんですけど」
「それはね、愛が亡くなったから、かな」
「え…?そうなんですか?」
「私と愛は小学校の頃から仲良しでね。高校までずっと一緒だったの。それこそ、亡くなる前日まで。でも、突然いなくなって寂しかった。棺に収められた姿を見て、すごく悲しかった。ずっと友達だよって言ってたのに…」
希の表情が曇る。愛との最後を思い出していた。
「送り人ってね、家族が故人のためにしてあげられる、最後のことなの。アオイちゃんにはまだわからないと思うけど、これから長い旅路に出る故人様の旅支度をするんだ。大切な人とのお別れの場を、温かく見守りたくて仕事にしたの。愛のことも、私の手で送ってあげたかったな…」
「そうだったんですね…。たぶん、愛さんはその想いを聞いて喜んでくれると思いますよ」
「そうかな?そう思ってくれてたら嬉しいな。あいつ、一回も夢に出てこないんだもん。ちゃんと成仏できてないのかな」
「あはは、案外近くで見てるかもしれませんね」
「アオイちゃんもそう思う?でも年齢的にアオイちゃんって愛のこと知らないよね?なのに、どこか愛に雰囲気が似てるし、愛と話してるみたいだし、不思議な感じがするなぁ」
「ええ、会ったことはないけど…お話では、まあ」
実は私が愛なんだよ。あの頃付き合ってた彼氏の名前はトモヒコなんでしょ?と言ってみたい気もしたし、あの頃の話とあれからの話をたくさんしたかった。こんな形で再会したくはなかった。
「アオイ、これから一也さんの会社の人が来るっていうから、お茶用意してくれる?」
「はーい」
「あら、じゃあ私はそろそろお暇しようかしら」
「希ちゃん、何にもできなくてごめんね」
「いえいえ、私は大丈夫です。好子さん、つらいですけど、しっかりと見送ってあげましょう」
「うん、ありがとう…」
「それじゃ、アオイちゃんも」
「はい、ありがとうございました」
「葬儀社さんと話して決まったら連絡するわね」
「はい、お願いします。それじゃ、お邪魔しました」
玄関先で見送り終えると、部屋の中が急に静まり返る。そうなると、悲しさがふつふつと込み上げてくる。誰かがいれば、話していれば。何かをしていれば、死を忘れることができた。葵は気を紛らわすかのように希との会話を思い出していた。
(お盆もずっと来てくれてたんだ…)
葵は高校生の頃、お盆の時期に水原家へ来ることを避けていた。この地域独特の風習があるためだ。故人をお墓まで迎えに行って、三途の川で濡れた体を焚き火で温めてあげる。そのお墓に入っているのが自分で、当の本人が目の前にいる。自分で自分を迎えに行く…というよりも迎えに行く必要がないのに、それをすることが嫌だった。やってしまえば、自分の死を認めることになる。だからお盆の時期は食料を買い込んで寮から出ないでいた。さすがに遠藤家に帰らず石井家に入り浸ることもできないためそうするしかなかった。だが、そうしなければ希とは違った出会いがあったかもしれない。今と昔では違うが、もっと、楽しく昔の話ができたかもしれない。心のどこかでそう思っていた。
その後も葬儀社との打ち合わせや弔問客の対応、希と葬儀社を交えた打ち合わせや僧侶との打ち合わせ等目まぐるしく過ぎていった。時間も限られている中、そうして「何か」に没頭している時は一也の死を悲しむ余裕がなく、涙を流すことはなかった。
そして、納棺の儀を迎えた。打ち合わせにより、道具は葬儀社より提供されたが、希がメインで執り行うこととなった。色々と話しながら、説明を受けながら最後の旅支度をする。時折、希の啜り泣く音が聞こえて来る。ふと顔を見れば涙を流しながら支度を整えてくれていた。同席した好子も葵も、頬は涙に濡れていた。
「やっぱりダメだね、縁の深い人をやっちゃ。涙が止まらないもん」
泣きながら苦し紛れに見せた笑顔を葵は忘れることができなかった。
彼女も自分が…愛が死んだ時は泣いていたはず。たくさん泣かせてしまったのか…と思うと胸が痛んだ。
通夜の前夜、葵は眠れない体を起こしてデスクへと向かう。引き出しを開け、使いかけの便箋と封筒を取り出した。ペン立てに置かれたボールペンを手に取りサラサラと想いを綴り始める。
パパへ
突然の出来事に、正直驚いてる。
なんで、パパが死ななきゃいけないのって。
やっと再会できたし、私は自分の将来を決めた。これから頑張っていく姿を見てもらいたかったのに、なんで先に死んじゃうの?
…でも、本当はパパも同じようなことを十八年も前に思ってたんだよね。
再会した後も、私の最期については語らなかったし、どうだったか知るのも怖いから聞かなかったけど、こういうつらい思いをしてたんだよね。
私が先に死んだから、私のせいでパパもママも、二人の人生狂わせちゃったのかな…。
たぶん、高血圧も私が死んで食生活が乱れたから…なのかなって思ったりもしちゃう。
だから、ごめんね。親不孝なことしてばっかりで。親孝行の一つもできないで。
だけど、パパのことは大好きだよ。
本当はずっとずっと、そばにいたい。
十八年前にできなかったこと、その続きをこれから一緒にして、見ててほしかった。
だけど、運命も、時間も残酷だよね。
こうして、手紙に書いたって、伝わらないのに。
今更、遅いのに。
でも、なんでだろう。
こうして手紙を書くことしかできないし、パパを想うことしかできない。
時間は巻き戻らないし、もう遅いんだけど…ちゃんと、言えてなかったからここで言うね。
パパ、今までありがとう。
大好きだよ。
迷惑かけて、つらい思いさせてごめん。
だけど、私はパパの娘に生まれて良かった。最高のパパだったよ。
これからは天国で見守っててね。
長い間、お疲れ様。
大好きだよ。
水原愛・遠藤葵
所々字が乱れているところもあったが、ありのままの想いを込めて書き上げた手紙を封筒へとしまう。最後の署名には、インクだまりも乱れもなかった。




