第三十一錠 いつかは来るとわかっていたけど
年が明けて。葵と石井は本格的な受験を迎える年になった。今回は進路の報告も含めて葵は実家に帰り、石井と初詣に訪れていた。地元の小さな神社。中学三年の時にも訪れていたあの神社だ。隣町にはテレビCMを打つほど有名な厄除大師があるため、新年早々ここを訪れる人はまばらだった。
「ねぇ、何お願いしたの?」
「んー、由香の志望校合格と自分も合格、かな」
「ふーん、それだけ?」
「あんまり欲張るとお願い事、叶わないからさ」
「あー、確かに。じゃあさ、絵馬書こうよ。前も書いたじゃん」
「いいね、書こう」
絵馬と学業成就のお守りを買い、絵馬に思いを綴る。
「志望校合格って、他にも書くことないの?それにまだ早くない?」
「いいじゃん、他の人に見られるのは恥ずかしいし。それに、推薦だったら年内に決まるでしょ?」
「まぁ、確かに。でもさ、人に見せられないようなお願いなんてあるの?」
「別にそんなんないし。由香こそなんて書いたの?」
「なーいしょ!ほらさっさと行くよ〜、お腹すいたし屋台で何か食べようよ」
「はいはい、今行きますよー」
(そっちこそ、人に見せられないお願いなんじゃ…?)
そう思うものの言葉には出さないでおいた。屋台で買い食いしながら色々と話したが、結局石井の絵馬には何と書かれたかはわからずじまいだった。それでも、葵は内容をそれほど気に留める必要もなかった。こうしてまた、あの頃と同じように過ごせている。それだけで十分だったのだから。
葵の両親への進路の報告は帰って早々に済ませていた。東京の大学で学んで家庭教師になりたい、と。学費も奨学金を借りるし、今回も寮生活をするつもりで極力負担はかけたくない、どうしても足りない分は借りたとしても将来返す旨も添えて話した。高校入学の時にもらった子供手当もあまり手をつけずに残してはあるが、大学四年分を賄い切れるものではない。父は費用の面は心配しなくていい、と一言だけ伝えた。その代わり、同じような仕事の学校の先生の方がいいんじゃないかと提案もあったが、目指すものが違うこと、一人一人に寄り添うことができないなど、自身の思いを伝えた。二人とも「葵が選んだ道ならば」と特に口出しはせず了承してくれたが、外見については少々言われてしまった。女の子みたいだよ、と。服装はメンズでメイクをしていなくても女性らしい雰囲気と髪型はどうしようもなかった。トップの髪を伸ばし続けて、顎先に掛かるくらいにはなっていた。体型の方はゆったりとした服で誤魔化しているつもりだが、僅かに胸も出ている。背も百六十程度、肩幅もあまりないため後ろ姿は少し背の高い女の子に見える。以前母の浴衣を着たこともあってか、母はそこまで追求してはこなかったが。
「ヘアドネーション、したくて」
髪についてはそう答えていた。
ヘアドネーションとは、事故や病気によって髪が抜け落ちてしまった子供のために、寄付された髪で無償のウィッグを作る活動を指す。愛も治療の過程で髪が抜け落ちていく様に落胆し、頭を丸めてしまっていた。鏡を見るたびに気持ちが滅入る上、髪がない分寒く、今までにない寂しさを感じていた。
するりとした指通りの良さ、風が吹くたびに髪が頬を撫ぜる感覚、誰かに呼ばれて振り返った時に髪が翻る感覚。洗っていても長さを感じ、なかなか乾かず暑くて少しだけ面倒だったドライヤー。だが鏡に映る長い髪、だんだんと乾いていって変化する指通りと温度。お気に入りのヘアオイルをつけた瞬間に広がる香り。もう二度と、この感覚を味わうことはできないのかと思うとそれだけで悲しくなった。
その様子を見かねた好子がヘアドネーションに申し込み、ウィッグを用意してくれていた。やはり、女の子としては髪がほしい、その願いを叶えてくれた。だから、病気が治ったらやりたいと思っていたし、寄付は男性の髪でも受け付けているから、葵の体で髪を伸ばす理由づけにもなっている。
葵の両親には「テレビやネットで見て知った、貢献したい」と伝えた所、「そういうことなら」とそれ以上深くは聞いてこなかった。
真実と隠された真実とが半分ずつ。自分のために小さな嘘を重ねる度に心が痛む。まだ心の内を伝えられていないため、両親に会うことは嘘をついているようなもの、という思いが拭えなかった。愛の記憶も、ホルモンのことも、葵の両親に対する葵の思いも。
寮に戻ってからは志望校合格に向けて本格的な勉強を始めた。遅れを取り戻すために学校が休みの日も夜遅くまで勉強に打ち込んだ。時折、気分転換も兼ねて水原家と買い物に出たり、石井に会うこともあった。夏には花火を、秋には恒例の水族館巡りを。遠藤葵として生きると決めたものの、石井や水原家との恒例行事は欠かさなかった。
そして十二月。石井はAO入試で志望校合格を手にした。葵に語るほどの熱意が面接官にも伝わったのだろう。これで由香の東京行きが決まった。残るは葵。AOではなく共通テストから受験するため合格を手にするのはまだ先だ。浮かれるには早いものの、クリスマスには葵も呼ばれて石井家で盛大なお祝いをした。もうすぐ、大切な娘が家を出る。両親にとっても、石井本人にしても、家族で過ごす最後のクリスマスとなるかもしれない。誰も口にはしなかったが、皆がそう思っていたのだろう。とても賑やかで、この瞬間を大切にしたいという思いが感じられ、皆で大いに楽しんだ。
一月。二日に渡って開催される共通テストに葵は一人臨んだ。この一年、やれるだけはやってきたつもりだ。あとは自分を信じて取り組むだけ。石井とお揃いで買ったお守りを手に二日間を乗り切った。
その後、志望校の願書提出と試験を迎える。理解不能な問題もあったが、手応えはあった。
試験後間も無く、合格発表を控えつつも、鳥山高校では卒業式を迎えた。
葵の両親は式に参列したが愛の両親も遠くから見に来てくれていた。
「ちょっと友達や先生と写真撮ったり話したいから、先に車戻ってて。そんなにはかからないから」そう言い残し、遠藤家両親の元を離れる。寮自体は卒業式や合格発表の数日後までは入っていられるので、卒業と同時に退寮する必要はない。今日はお祝いということで、卒業式後に遠藤家三人で食事に行くことになっていた。
校庭の隅の方に佇んでいた愛の両親の元へ葵は駆け寄る。
「パパもママも来てくれたんだね。ありがとう」
「卒業おめでとう、愛」
「おめでとう」
「うん…ありがとう」
言葉とは裏腹に、葵の表情は晴れない。理由は言わずとも皆分かっていた。
「…もうすぐ、会えなくなるのね」
「…なんだか、寂しくなるなぁ」
「私も…。せっかく、会えたのに。この体で生きていくって決めたけど、やっぱり私のパパとママに変わりないからさ」
「そうね…。アオイちゃんであり、葵くんなわけだけど、やっぱりね。会えなくなるのは寂しいわ」
「…東京に行くんだろ?愛は東京なんか行ったことないのに大丈夫なのか?」
「東京に行くって、まだ合格したわけじゃないよ」
「でも、手応えはあったんだろ?」
「まあ…やり切った感はあるかな」
「そう、か…。ここは合格を願いたいものだな」
「パパ、そう言うけど、本当は落ちて鳥山近くの大学に通ってほしいとか思ってるんでしょ?」
「い、いや…そんなことはないぞ、なんて事言うんだ」
「そっちこそ、何考えてるの。大丈夫、東京に行っても時々は帰ってくるから。私は卒業してもパパとママに会いたい」
「愛…」
十七年…いや、それ以上連れ添った父の考えはお見通しだった。それでも、この思いを曲げることはできなかった。自分の居場所はここではない、未来なんだとこの二人が、この地が、石井が気づかせてくれた。
「不思議な縁だったけど、幸せな三年間だったわ。これからはあんまり会えなくなるけど、いずれこの日が来るとはわかっていたから。愛、体に気をつけて頑張るのよ」
「そうだぞ、パパもママも応援してるからな。何かあったら連絡しろ。パパ、飛んで行くから」
「ふふ、ありがとう。ねえ、写真撮ってもいい?」
「ええ、撮りましょう。卒業証書もちゃんと、ね」
桜の木の下で、三人で写真を撮った。一也は隠してるつもりだったが、三脚とカメラはちゃっかり用意されていた。
卒業証書を広げ、笑顔の三人が写る。
十八年前に成し遂げられなかった想いに一つの区切りがつけられた。愛として迎えられなかった卒業式。だが時を経て遠藤葵として迎えた卒業式。
この一枚は葵の鳥山高校卒業の写真ではない。
水原愛が…遠藤葵が水原家から、水原夫妻が水原愛を宿した遠藤葵から卒業することを意味していた。
それは悲しみの門出ではない。
決して届かない逃げ水に辿り着くという奇跡を迎えた三人が、それぞれの未来への一歩を踏み出す日。新たな人生の一ページを綴り始める、その初日を飾る奇跡の門出を表す一枚だった。
五ヶ月後、葵は東京にいた。
志望校の合格を勝ち取り、慌ただしい日々を過ごしていた。行き先は東大ではないが寮もあり、学びたいことを学べることに充実感を覚えていた。
石井とも住まいは近くないが前よりは会えるようになった。とはいえ専門学校であるが故にカリキュラムはみっちりと詰まっており、平日の夜や休みの日に会うことが多い。
愛の頃はディズニーランドに行く時ぐらいしか都会に出たことはないため、最初の頃は右も左も分からない上に人の多さに圧倒されていた。それでも、石井がいてくれたから人の多さにも、電車にも、都会の風景にも徐々に慣れることができていた。何より高校の頃と違って縛られることはほとんどない。当初の目的通り、実家を気にすることもなく髪を染めたり女の子の服を着て過ごしたりと、文字通り自由を手にしていた。
望んでいたキャンパスライフを楽しみつつ、将来への準備も怠ってはいない。アルバイトだった。大学卒業後は家庭教師として働くのだから、学生のうちから家庭教師のアルバイトをして経験を積むつもりでいた。高校までの勉強は熟知していたから、学力の方は問題ない。問題なのは外見と実際の性別だった。見た目も履歴書に貼った証明写真も、どこからどう見ても女の子だった。それでも名前には「えんどうまもる」のルビがあり、性別は「男」に丸がついている。一応、面接で呼ばれては「これ、書き間違い?」と問われるものの、事情を話すと反応は皆一様だった。ちょっと、配慮が必要な人。言葉には出さないものの、空気で伝わってきた。
「結果は後日ご連絡します」それが不採用を意味するところまでセットだった。これで何社落ちたかわからない。家庭教師に対する思いや学力ではない所で落とされることに、やるせなさと憤りを感じていた。現役当時は東大の問題も解けたのに、心と体…もとい見た目と心が戸籍と違うだけでなぜこんな思いをしなければならないのか。時折石井に吐き出すことはあっても、諦めはしなかった。自分が諦めたら、後に続く子たちがいなくなる。その子たちのためにも前例を作りたい。その思いから家庭教師の求人に申し込み続けた。
何社落ちたか数えるのをやめた頃、ついに採用通知を受け取った。面接の際、他の家庭教師では合わなかった子供がいると聞いていたため、葵なら応えられると踏んでの採用だったのだろう。嬉しさのあまり、石井と好子にこの事を報告した所、石井からはお祝いのメッセージと採用祝いの誘いが届いた。だが、好子からは返信どころか既読すらつかないでいた。
その夜、初仕事を迎えてもいないのに葵は石井のアパートでお祝いをしていた。小さなケーキを囲んでの、二人だけのお祝い。縁も竹縄となった頃、葵の電話が鳴る。発信元は愛の母好子。時刻は夜十時を回っており、普段ならこんな時間に電話をするような人ではない。嫌な予感がした。
「もしもし、ママ?どうした…」
「愛…パパが…パパが、死んじゃったの」
「え…」
思わず、表情が固まる。好子の声は石井に聞こえてはいないが、葵の様子から只事ではない事を石井も感じ取っていた。
「今日、買い物から帰ってきて…車はあるのに返事がないからおかしいなと思ったら倒れてて。救急車来たけど、もうダメだった…」
「嘘…でしょ?なんで…」
思考が回らない。言葉を、考える事を頭が拒否している。好子の言葉を受け入れたくなかった。葵はただ、全身から血の気が引いていくことだけが感じ取れていた。
「わかんないよ…でも、もしかしたら病気のせいかもしれない。パパ、まだ帰ってきてなくて、詳しいことわからないの。事故か事件か病気か、調べるって連れていかれちゃって」
「病気って何?私、そんなの聞いてない。だって、ずっと元気だったじゃん」
「あの人、心配かけたくないから黙っとけって。高血圧でずっと薬飲んでたのよ」
「嘘でしょ、薬飲んでる所なんて見たことない」
「心配かけないようにって、あなたが帰ってから飲んでたのよ」
「え…だって、水族館行った時だって飲んでなかったよ?」
「お昼食べて、水族館着いてから先に行けっていつも言ってたでしょ?あれは隠れて薬飲んでたのよ…」
「そんな…ひどいよ、そんなことしてまで黙ってるなんて」
知っていれば、もっと違う接し方ができた。昔通っていたからと、ラーメン屋に行くこともなかった。もっと、体に気を使った物を食べるように促せたはずだ。そこまで思った時、葵は母の言葉を思い出していた。「歳を取れば体も弱る。その時にあなたの体が耐えられなくなってたらどうするの」高血圧と高齢化により脆くなった血管が破れたのかも…。自分のせいで、父を死なせてしまったのかという自責の念が込み上げてくる。
「ごめんね。何度も話したらっては言ったけど、聞かなくて。俺はこんなことじゃ死なないとか言ってたのに…私、どうしたらいいの…。ひとりぼっちになっちゃったよ…」
「ママ、私今から行く、待ってて」
「今からって、十時過ぎてるのよ?鳥山に来る電車なんて…」
「私、バイクあるから。今から行けば…」
「ダメよ、こんな時に!あなたにまで何かあったらそれこそ生きていけない。やめて、明日にして」
高校在学中に普通自動二輪…いわゆる中型バイクの免許は取得し、高校卒業と同時に父のバイクを譲り受けた。川幸の忍という、二百五十ccのスポーツタイプだった。ETC付きで高速道路も走れる。
「東京を見て回るのにもちょっと出かけるのにも丁度いいだろう」との事で、都会へ行く葵への餞別として父より譲り受けていた。まだ石井との二人乗りはできないが、今日もアパートまではこのバイクで訪れていた。
「でも…」
「でもじゃない、あなた、普通の精神状態でいられる?私だっておかしくなりそうなのに」
返す言葉がなかった。正直、いつも通りの運転ができる自信はない。不安、心配、戸惑い…あらゆる負の感情に晒された今、信号の見落としや判断の誤りを引き起こしてしまう可能性は大いにあった。
「わかった、明日の朝始発で行くから。それまで待ってて」
「うん…ごめんね、忙しいのに」
「わたしは大丈夫。ママも落ち着かないと思うけど…休める時に休んで」
「うん…」
お互いに、沈黙する。言葉が出ない。それでも、電話を切ることに躊躇いがあった。
「…それじゃ、一旦切るね。警察から電話あるかもしれないから」
「あ、うん。わかった。それじゃ、また…」
「うん、また…」
長い沈黙は終わり、スマホを下ろす。憔悴した葵の表情に、石井はただ事ではないことを感じていた。
「何か…あったの?」
恐る恐る、言葉をかける。
「パパが、死んじゃったって…。警察で色々調べるって…」
「そんな、嘘でしょ?」
「嘘じゃないって…。信じられない。なんで、こうなるの。私が何かした?…したか。私があの時死ななければ。ラーメンなんか食べに行かなければ…」
「ちょっ、アオイ、大丈夫?ねぇ、落ち着いて」
父が死んだ。受け入れたくない事実を思考から切り離そうとするものの、自分のしてきたこと、生まれ変わってからの父との関わりを思い出すと自分を責めずにはいられなかった。
最後の会話は何だったのか。
なんで、もっと優しくしてあげられなかったのか。
私が…愛が死んだから、気持ちも乱れて、食生活も荒れて、体を壊してしまったのだろうか。
再会した後も、高血圧に良くない食べ物を一緒に食べたりしたから、死んでしまったのだろうか。
パパを死なせたのは、私…?
考えが、良くない方向へと進んでいった。
それでも、父の死を言葉としては理解しても頭は受け付けなかった。
そして、落ち着かせようとなだめる石井の言葉も、ぎゅっと抱きしめられた感覚も、葵には現実味が感じられなかった。
ただ、受け入れたくなかった。
いつかは来ると、わかっていたのに。
いざその日が来ると、何一つ、受け入れられないでいた。
これが、十八年前に両親が感じたのと同じ思いなのか、と。




