第二十九錠 母と娘
「なるほど、ね…」
狭い寮の部屋に置かれた小さなテーブル。そこに収まりきらない資料は床に広げられていた。
目指すべき道が見えた葵はいくつかの大学の資料を取り寄せていた。まだ志望校は決まっていないがやりたいこと、学びたいことが見えてきていた。
ここの大学だとこれは学べるけどこちらはダメ。学ぶことはできるけど資格は取得できないなど、あれこれ調べた上でのことだった。元々ホルモン剤を入手する際も様々なサイトを見て調べ上げ、最適と思うホルモン剤を入手していた。そのため大学の特色を調べて比較することは苦ではなく、むしろ楽しみにさえ感じていた。希望に最適なのはどこかを探りあてるゲームのような感覚だった。少し前までウジウジしていたことが信じられないほど心は前を向いている。
ある程度の調べはついているが、細かな情報や資料から透けて見える学校の特色などを知りたくて請求した資料。付箋を貼ったり、気づいた点をノートに書き出していく。その時、スマホのバイブ音が鳴る。見れば愛の母好子からのメッセージだった。
「おはよう、愛。明日はクリスマスだけど、由香ちゃんと過ごすのかな?もし予定なければうちに来て三人で過ごさない?」
画面の文字に一瞬心が揺らぐ。先月水族館に行ったのが最後、もう一ヶ月近く会っていない。
(クリスマスだし、少し顔を出すだけならいいよね…?)
前よりも頻度は落ちたものの、メッセージのやりとりは続いていた。
「期末試験やってきたけどボロボロかも…」
のような他愛のない内容が多いが。それでもこれまでは隔週くらいで顔を出していたのにパッタリと来なくなったことに好子も気を揉んでいるのだろうと思っていた。
「今年は特に予定ないから、顔を出しに行くよ」
そこまで入力して手が止まる。送信ボタンが押せないでいること数秒。入力した文字を全て消し、好子に電話をかける。
「もしもし、ママ?私だけど」
一コール鳴りきる前に電話が繋がる。すぐに既読がついたから、返事を待っていたのだろう。
「愛、最近どうしたの?大丈夫?全然顔見せにも来ないで」
「うん、ごめんね。急に行かなくなっちゃって」
「何かあったの?体調崩してない?」
電話口の好子の声は心配そうである。
「大丈夫だよ、元気にしてる。あのね、ちょっと話したいことあって」
「うん」
少々間を置き、呼吸を整える。
「私ね、大学に行きたい。東大ではないんだけど、やりたいことが見つかったの。だから…ママのこともパパのことも大好きだし、できるなら会いたいしそばにいたい。だけどね、今はそうする時期じゃないの。ちゃんと…遠藤葵の人生を歩まなきゃいけないって思ってて。そのために、進路をちゃんと考えたいの」
言えた。言ってしまった。幸せな、甘美な誘いを蹴ってまで、自分の思いを優先してしまった。この手の我儘を言うのは何度目かもわからない。もしかしたら、早くに亡くなった私を不憫に思った神様が再会させてくれたのかもしれないこの人生を変えてしまう道を選んでしまったと、愛は思っていた。
「そうよね。愛も…葵くんももう十七歳、だもんね。来年は受験だし。やりたいこと、見つかったの?」
電話口から聞こえる声からは少々戸惑いが感じられた。若くして亡くなった娘と奇跡的な再会を果たしてから過ごしてきた約二年間。その幻想とも言える幸せな日々が終わりに近づいていることを好子もまた感じていた。
「うん。私ね、家庭教師になりたいと思ってるの」
「家庭教師?なんでまた」
「前、花火大会の時に由香に会ったでしょ?あの子に中学の頃勉強を教えてたんだ。その時にさ、教えたことを理解して勉強ができるようになってさ。成長していく姿を見てたらこっちまで嬉しくて」
「うん」
「それにね、信頼しあえる関係がいいなって思って。勉強を教えるだけなら塾講師でもいいけど、やっぱり一対多数になるじゃない?一人一人のことをよくは見てあげられないなって。その子のことをよく見て、その子にあった勉強の仕方を一緒に考えてみたいなって思うの」
「うん、いいんじゃない?今は鳥山行くくらい勉強もできるんだし、そっちの方の心配はないわね」
「何その言い方、まるで前は勉強できなかったみたいじゃない」
「え?そうでしょ?あなた、自分の成績忘れちゃったの?」
「…言わなくて結構です」
「ほら、みなさい。ちゃんと覚えてるんでしょ?」
「うん…」
小学校の頃はまあまあ、中学に入ってからは人並み…と言えば聞こえはいいが「勉強ができる」とはお世辞にも言えなかった。
「そんな愛が家庭教師にね〜。夢にも思わなかったわ」
「まあ、ね。自分でも最近気づいたんだけどさ、意外と合ってるのかなって。それに、今の私は勉強くらいしか取り柄がないし」
「そうかしら?そんなことないと思うけど」
「…それなんだけどさ。みんなには言えないけど、私ってほら、ちょっと特殊じゃない?映画とか小説の中にしかいないような存在だし」
「そうね。いい夢見させてもらってるわ」
「夢じゃないから!私はちゃんと生きてるでしょ?」
「ふふ、冗談よ。こんな子、うちの娘以外にありえないわ」
「まったく、茶化さないでよ」
「ごめんごめん、それで?」
電話口の声先ほどよりも明るい。実の娘との話を楽しんでいる、そんな印象さえ抱ける。
「うん。まあ、私みたいな生き方してる人はいないと思うけど、同じような悩みを持った子って必ずいると思うんだ。性別違和だったり、人と関わるのが苦手な子だったり」
「いるでしょうね、きっと」
「そういう子たちって、きっとリア充や普通の人からしたら絶対にわからない想いを抱えてる。だけど、私も通ってきた道だから…その子たちの心に寄り添えると思うの」
「うん」
「私には由香がいた。たくさん泣かせちゃったけど、由香が隣でずっと支えててくれたから、こうして生きてこられた。私はこれからを生きる子供たちの支えになりたい。勉強だけじゃなくて、心に寄り添った先生になりたい」
「愛…じゃないわね。遠藤葵にしかできないことね」
「ママ…」
「いいのよ。本当は私たちの関係は十七年前に一度途切れてはいたんだし。でも、心の中ではずっと繋がってるって思ってた。近くにいるような気がしてた。一度だけでもいいから愛に会いたい、話がしたいっていう想いを神様が叶えてくれたと思っててね。嬉しかったし楽しかったわ」
そこまで言うと、好子は一呼吸おく。
「でも、いつまでもこの日々は続かない。遠藤葵は遠藤葵であって、水原愛とは違う。いつか、どこかで交わった線が離れる時が来る。それは分かっていたことなの」
「ママ…」
「愛、ありがとう。短い間だけど、ママもパパも、幸せだったよ」
「ママ、違う、私は…」
「大丈夫よ、今生の別れだなんて言わないから。私たちはここに住んでるから。会いたくなったら、声を聞きたくなったらいつでも帰ってきなさい。待ってるから」
「ママ…」
葵はすでに涙ぐんでいた。愛の心を宿した体はいつか自分達の元を離れることを初めからわかっていた。その時が来たことを受け入れ、送り出してくれている。その想いに心打たれていた。
「泣くんじゃないの!進路、決めるんでしょ?頑張って!愛の選んだ道ならきっと大丈夫。私たちは応援してるからね」
「うん、ありがとう」
「もう、泣くんじゃないわよ。こっちまでつられて涙出ちゃうじゃないの」
「ごめん。てかママ、そんなキャラだったっけ?」
「もうね、この年になると涙腺弱いの」
「そっか…また、泣かせちゃった」
「…由香ちゃんから話は聞いてるわよ」
「え?なんで」
石井が好子と会ったのは花火大会の夜だけ。連絡先を交換している様子はなく、葵も石井には教えてはいなかった。
「今月の頭くらいだったかな?駅の待合室で泣いてる女の子がいて声かけたら由香ちゃんだったの」
なんてタイミング…と葵は思う。まるで三流小説のような展開じゃない、と。
「聞いたらアオイに別れを告げてきて後悔してるって。あんなこと言うつもりじゃなかったって。本当に別れちゃったらどうしようって泣いてた」
「由香…」
「ちゃんと連絡取ってるの?」
「…いや」
「まったく、何やってるのよ。由香ちゃん、きっと連絡待ってると思うから。この後すぐ電話しなさい」
「でも、まだ志望校すら決まってないのに」
「いいじゃない、やりたい道が見つかったって話せば。あなた、ウジウジしてると今度こそ本当に大切なものをなくすわよ?」
あの頃の…入院していた日々を思い出す。もう二度と、大切なものを失う辛さは味わいたくなかった。
「…うん。ありがとう、ママ」
「そうと決まったら、すぐに連絡しなさいよ」
「うん」
しばし沈黙。お互いに受話器を切ることができない。切ってしまったら、それが最後になるような気がしていた。その沈黙を好子が破る。
「愛」
「何?」
「私たちの元に生まれてきてくれてありがとう」
「何よ、今更」
「それとアオイちゃんと葵くん」
「ん?」
「愛の心と一緒に生きてきてくれてありがとう。辛いことも嫌なことも苦しいことも色々あったと思う。でも、あなたのおかげで私も一也さんも救われた。ずっと、言いたかったことも、一緒にできなかったことも、この二年間でたくさんできた。本当にありがとう」
「やめてよ、私多重人格みたいじゃない」
「いいでしょ。どんな奇跡か偶然かわからないけど、こうして出会えたのは葵くんがいてくれたから。遠藤さんが産んでくれたからなのよ」
「そう、だね…」
「愛」
「何?」
「ちゃんと葵くんのご両親とも向き合って話をして。そして…病院行こう。今のまま薬を飲み続けるのは正直怖い」
「ママ…」
こんな話は聞いたことがない。経緯も含めて全て話していたが、受け入れてくれているものだと思っていた。
「今は若いから大丈夫かもしれないけど、歳を取れば体も弱る。その時にあなたの体が耐えられなくなってたらどうするの?また大切な人を泣かせることになるのよ」
「由香は泣かせたくないけど、あっちの両親は別に…」
「ダメよ。あなたが良くても、向こうからしたらそうじゃないんだから。前にも言ったでしょ?親は子供の幸せを願ってるって。それとも何?また親より先に死ぬつもり?二回目は勘弁して」
「ごめん、そういうつもりじゃない…」
「だったら…」
「決めてあるの。話すタイミングは」
「え…?」
「前にも話したけどさ、未成年は治療できない。だから、成人したら話すつもりでいるの」
「愛…」
「成人ってことは大人でしょ?私は私の歩く道をちゃんと伝える。だから、それまでは待ってて…」
「わかったわ。ちゃんと考えてるなら、もう何も言わないわ」
「ごめんね、心配かけて」
「本当にね。三十四歳とはとても思えないお子ちゃまね」
「な、ひどい!」
「だってそうよ?本当なら三十四歳。そんな甘ったれたこと言ってられないのよ?」
「うぅ…申し訳ないです」
「いいの。もう過ぎたことだし。あーでも、なんかスッキリした」
「え…?」
「やっぱりね、言いたいけど言えないことって親子でもあるのよ。大切だから、好きだから言えないこと。でも、今日はちゃんと言えた気がする」
「ママ…」
「私たちも待ってるからね。いつでも帰っていらっしゃい」
「…うん!」
「それじゃ、またね」
「うん、また…。やることが終わったら必ず会いに行くからね」
「ええ、待ってるわ。愛、アオイ、葵。みんな、私の大切な子供たちよ」
「うん。ありがとう!それじゃ、またね」
名残惜しくも通話を終える。
愛の…葵の意思は固まった。後は行動を起こすのみだった。
遠藤葵が誕生してから十七年。いろいろな出来事があった。実の両親との溝や最愛の人との出会い。何度も無理だと思いつつも奇跡を信じた愛の両親との再会。そして、最愛の人からの宣告。どれ一つ欠けても、この結論には至らなかった。水原愛。遠藤葵。この二人の存在があったからこそ、この奇跡は成り立ち、未来を描くことができた。
たとえその時は辛くても。
いつか、前を向いて。
あの頃の出来事を「そんなこともあったな」と思える日が来る。
遠藤葵は、その想いを胸に鞄を取った。最愛の人に会いに行くために。




