第二十八錠 大切なものは、すぐそばに
石井の言葉が胸につかえたまま過ごすこと数日。ずっと、あの日の会話と自分自身の内面を見つめて過ごしていた。どうしてこうなってしまったのか。どうして、もっと彼女の気持ちを考えてあげられなかったのか。自分は何をしたかったのかと。
(将来の夢、仕事、か…)
葵はもちろん、愛もアルバイトをしたことはない。鳥山高校はアルバイトが禁止されているし、そもそもアルバイトをしなくてはならない事情があるような人は受験をしない進学校だ。愛の高校はアルバイト禁止ではないので、学校にも慣れて時間のある夏休みくらいから始めようと思っていた。が、入学後に病気が見つかり、それどころではなくなってしまった。そのため社会との接点は消費者としての立場だけであり「働く」という目線で物事を見たことはなかった。逆に石井のように興味関心のある出来事を発展させて仕事にしたい、と思うほどの趣味も体験もない。そもそも、趣味らしい趣味もなく、ただひたすら勉強しかしてこなかった。自分自身の境遇から目を逸らし、家を出ること、体を女性化すること、愛の両親に再会することという目標を達成する、ただそのためだけに。そのおかげか東大赤本の問題を多少解けるほどの学力はあっても、肝心のやりたいことが見つかっていなかった。
(どうしたものかな…)
ただ悶々としていても事態が好転しないことは目に見えていた。何かのヒントになれば…との思いから、インターネットで検索をする。
「『行きたい大学 わからない』っと…」
入力していて滑稽だなと自嘲する。行きたくないなら行かなければいいのに、と。以前、同じことを思っていくつかの企業の新卒採用ページを見たことはあるが、どれも専門学校卒、大卒の要件が多く、高卒の募集をしている所は限られていた。あったとしても普通科ではなく工業高校卒、という注意書きもある。技術職での採用のようだ。
「…大学卒業後のやりたいことを想像して選びましょうって…」
検索結果を複数見るも、同じようなサイトが多い。大学は多くが四年制。順当に入学・卒業となれば22歳から少なくとも60歳までの38年間を働く計算になる。それならば、卒業後の仕事に繋げられるような学部・学科を専攻するのがてっとり早く現実味がある。
「今までの経験を振り返って興味のある分野を選ぶのが良い、か」
そこで学んでいく内にさらにやりたいこと、進みたい道が見えてくる、ともある。
「そんなこと言われてもな…」
あまり思い出したくもない過去を振り返る。葵の頃はひたすら勉強。それ以外でやったことといえば空手とスイミングだがどちらも興味はない。
愛の頃はピアノが好きで弾いていた。水原家に行った時は懐かしさもあり時折弾いているが、ピアノに関わることを一生の仕事にしたいかと言われるとそうでもない。演奏者の他にも調律師や販売員など一言で「ピアノ」と言っても関連する職業は多岐に渡る。そのどれを取ってみても自分がそこで働く姿を想像できないでいた。
「あとは…」
葵として生きてきて他にあった出来事を振り返る。自分のような転生者がゴロゴロいるとは考えられない。かつてテレビでも見て自分がそうしているように、心と体の性の不一致に悩む人が多いことも知ってはいる。その当事者だからこそ、トランスジェンダーのための医師や窮状を訴えつつ制度を変える国会議員になるという道もあるが、そこまでの強い志がないことは葵自身分かりきっている。しばらくの沈黙のあと、一つ心に刺さる思い出が蘇る。
「由香との勉強、楽しかったな…」
石井と出会ってから2人でよく勉強した日々が思い出される。ある時は自身の部屋で、またある時は石井の部屋だったり図書館だったりと多くの時間を過ごしてきた。
「これわかんないんだけどー」
不貞腐れた様子で質問を受けて問題を読む。
「ここはこの公式を使うんだよ」
「この年号は語呂合わせすると覚えやすいよ」
「この問題は比を使えば答えが出るよ」
「あー、うん。漢字は漢字練習しようか」
解き方や考え方を教えると、
「そっか、こうすればいいのか!」
「あー、なるほどねー。わかったよ。ありがと」
教えたことを素直に聞いて理解してくれる、その裏表のない反応が好きで可愛らしいと感じていた。自分が教えたことでプラスになり成長を感じられることも喜びの一つだった。付き合うようになってからは、
「教えてくれてありがとう。はい、お礼ー」
と言っては口づけを交わしていた。
「懐かしいな…」
幾度も交わした口づけの感触を確かめるように、そっと唇に触れる。カフェでの出来事から、もうあの日々は戻ってこないのだなと感傷的になってしまう。石井と同じ高校に行けば、その続きが待っていたというのに。それを壊したのは自分の我儘なのにと思い、胸を痛める。夢の続きを壊してしまった自分自身の愚かさと、石井への申し訳なさと。あの日、旅立ちの日に見た彼女の涙とキスの温もりを、抱き寄せた時の線の細さと温かさを思い出していた。
(由香に会いたい…)
会った所で、今の自分を受け入れてはもらえない。会えば、きっと謝ってしまう。だが、彼女はそんなことを望んではいない。
あの頃に…高校入学前に戻りたいかと聞かれればそうでもない。自分の意思を持った、今の石井と過ごしたい。二人でまた服を見たりご飯を食べたり、しょうもないことを言って笑い合ったり。時には石井のモデルを務めたり…そんな日々を過ごしたい。寂しさよりも、彼女と過ごす未来の姿が葵の胸に色濃く映し出されていた。
「私には、やっぱり由香しかいないんだな…」
失って初めて気づく大切さ。涙と共に石井との思い出が走馬灯のように蘇る。
出会ってすぐに校舎を案内して。
楽しさのあまり口を滑らせたことがきっかけで遊びに行って。
内に秘めた女の子の…愛の心を少しずつ出せるようになって。
共にテスト勉強をして。
花火大会で想いを伝えて。
石井の両親に性別違和であることを告白して、交際を認めてもらって。
愛の存在と想いを告白したら喧嘩になって。
彼女の気持ちを繋ぎ止めるため意思に反して彼女を抱いて。
親元を離れたい。そんな我儘で彼女を泣かせて置き去りにして。
愛の両親に再会した時も、後押ししてくれて。
両親に娘と認めてもらえたことも喜んでくれて。
なのに。
自分の都合で彼女を傷つけてばかりいた。
色々なことをわかっていながら、あえて知らないふりをして。
自分が傷ついたとしても、本当の気持ちを隠して、アオイのために言葉を選んで。
別れたくないのに、本当は好きで一緒にいたいのに…前を向いて欲しいから、自分から別れを切り出して。
彼女は何も、悪くないのに。
ごめん…。
だけど…。
私も、私にしかできないことが見つかりそうだよ。
葵は涙を拭うとスマホを置いてパソコンを立ち上げた。自身がやりたいと思ったことを、それを実現するためには何が必要なのかを調べていく。
次に彼女に会う時には、対等の立場でいたい。
自身の未来を話して、同じ方向を向いて歩いていきたい。
彼女の存在こそが、全ての原動力だった。
彼女がいたからこそ、葵は顔を上げて、前を向いて過ごすことができていた。
葵にとっての石井は向日葵のようだった。
常に明るく太陽を方を真っ直ぐに見ている。
眩しいくらいの存在。
そんな彼女の隣にいたい。
離れたからこそ、キツイ一言があったからこそ目を覚ますことができていた。
「傷つけてごめんね、由香。気づかせてくれてありがとう。私も、頑張るよ」
この日から葵は水原家へ行くことを控えた。愛の両親を嫌いになったわけではない。
今やるべきことは過去を懐かしむことでも、ありえない奇跡を享受することではないと悟ったためだ。
愛の両親にはいつでも会いに行ける。スマホがあればメッセージも送れる。言ってしまえば公衆電話さえあればどこからでも声を聞くことができる。
だから、今はしばしの別れ。
いや、愛の両親との別れは当の十七年も前に済んでいる。
奇しくも愛の享年と同じ十七歳。この日、遠藤葵は生まれ変わった。
心に水原愛を携えた、遠藤葵として。




