第二十七錠 夢と現実と
葵の体では初めて、家族三人で水族館を訪れてから早いもので丸一年が経った高校二年の秋。葵と水原夫妻は再び水族館を訪れていた。以前、花火大会の日に「二回目は石井も一緒に」と話していたため石井に声をかけたが、断られていた。
「そういう特別なことは親子水入らずで楽しんでおいで。私をカメラマンにする気?」とのことだった。葵は優しさと受け取っていたが、石井の内情を考慮すると同席できたものではない。石井にとっては最愛の人が自分以外の誰かと楽しそうにしている姿を目にすることになる。しかも、相手はずっと追い求めていた、時を隔てて再会した家族。石井がその強い絆の中に割って入る余地はなかった。例え四人でいたとしても、葵の心は石井ではなく家族に向けられている。「そんなことはない」と葵は否定するだろうが、そう言ってくれたとしても自分より大切に思われている存在と共に過ごす環境に石井は耐えられそうもない。
二度目の秋を迎えるまでに、葵は石井とも水原家とも交流を深めていた。石井が懸念していたように、水原家へ入り浸りにならないよう時折石井の下も訪れていた。県北から県南まで移動して石井と過ごす時間と水原家で過ごす時間。そのどちらも幸せで大切なひとときではあったが、副作用もあった。学習時間の低減と意欲の低下、移動による疲れが現れはじめていた。石井や水原夫妻と過ごす時間は間違いなく楽しく幸せだった。だからこそ、このまま東京へ行かず、県北に住んだまま近くの大学に通うという選択肢や、高校を卒業してそのまま就職するなど、進路が揺らいでいた。それにより「家を出るために東大に行く」という目標すら薄れてきてしまった。県南から県北に出てきただけで環境が大きく変わり、わざわざ東京まで行く必要もなくなっていたからだ。これは石井や水原夫妻と過ごすことで勉強時間が減ったこと以上に大きな影を落としていた。勉強をしなくても、東京へ行かなくてもこのまま鳥山に住めば水原夫妻と過ごせる。なんなら、石井と鳥山で二人暮らしを始めてしまうのもありかもしれないとさえ考える時もあった。目標と意欲を失い、葵の学力は落ちていった。これまでひたすら学習してきたため、通常の高校の授業は難なくこなせた。しかし特進クラスでは早々に高校の授業を終えて大学受験を念頭にしたカリキュラムに切り替わる。元々平凡な学力でしかない葵…もとい愛は、時間というアドバンテージを最大限に活かすことでこれまで立ち回れていた。そのアドバンテージをも失い、目標を見失った状態では勉強に身が入らなかった。
それは気持ちの面へも影を落としていた。些細なことで気持ちが落ち込んだり、不安に苛まれたり、勉強ができない自分に対して辛辣な言葉を思い浮かべたりしていた。そうなると、県南までの移動はとても億劫なものとなり、休みの日は寮で過ごすことが多くなっていった。メッセージのやり取りにしても電話にしても、心配かけまいと元気なフリをする。土日も受験対策講習が入ったからと嘘を重ねてしまう。そんな自分に嫌気が差すと共に、石井にも水原夫妻にも申し訳ない思いが募り、ますます自己嫌悪に陥っていた。無理だと思われた家族との再会を果たして、自分のことを愛してくれる恋人もいるのに、心からの笑顔で応えることができない。何をどう間違えたのか葵にはわからなかった。幸せなはずなのに、どうしてこんなにも辛い思いをするのか。こんな思いをするなら、いつまでも家族に会うことを夢見て、叶わぬ希望を胸に抱き一人で生きていった方が苦しまなくて済んだのではないかとすら思える日もあった。
そんな思いを抱えたままカレンダーは今年最後の一枚となった。来年は受験。葵の心に受験の二文字が重くのしかかる。目標を見失ったとはいえ、普通の高校レベルの問題なら難なく解ける。模試でも県内の国立大は合格圏の判定が出ていた。高望みをしなければ国立大に通えないこともない。だが、元々家を出るために東大を目指していたが東京への憧れがあるわけでもなく、何かをやりたいという目標もなかった。強いて言えば遠藤家を出ることと水原家との再会だけが葵の…愛の望みだった。それが叶ってしまった以上、その先を目指すことができないでいた。
十二月最初の金曜日。この日のカリキュラムも終わり、足早に寮へと引き上げる。自室に戻って鞄を置くと、そのままベッドへと流れ込んだ。何も考えずこのまま眠ってしまいたい。現実を見ずに楽しかったあの頃に…石井と出会って過ごした日々や水原家と過ごした一年目に戻りたいと嘆いていた。胸の痛みに呼応するかのように視界が滲んでくる。涙を流さないようにと顔を枕へと押しつけて声を押し殺していると、スマホのバイブ音が聞こえてくる。画面を見れば石井の名前が表示されている。この時間は寮に帰ってきていることを知っている。気乗りしないが出ないわけにはいかなかった。
「もしもし…」
泣いていたことを悟られないように声を整える。
「アオイ?何、泣いてんの?」
「いや、泣いてない。花粉症」
「花粉症〜?この時期に?もっとマシな嘘つきなさいよ」
「ごめん…」
「ごめんじゃないわよ、まったく。メッセージもろくに返さないで」
「うん…ごめん」
「さっきから謝ってばっかりだし。あのさ、明日そっちに行くから迎えきて」
「え…」
「いいる九時半くらいには着くように行くから。そのくらいならアオイだって駅に来られるでしょ?」
「あ…うん」
「それじゃ、また明日。おやすみ」
「うん、おやすみ…」
要件だけを話してプツッと電話が切られる。
(明日は怒られるな…)
口調は冷たく高圧的だったことから間違いなく怒っていることを感じ取っていた。メッセージも返すには返していたがレスポンスは悪いし、正直に言ってあまり楽しいとは思えていなかった。それは石井に対してだけでなく、水原夫妻に対しても当てはまっていた。
明日はどう対処しようかと葵は思いを巡らせながら夜を過ごした。
翌朝。九時台到着の電車は一本しかないため、その到着時刻に合わせて改札口で石井を待っていた。ホームに滑り込んだ電車からまばらに人が降りてくるのが見える。その中に一際目を引く女の子が一人。石井だった。ベージュのダッフルコートに身を包み、リュックを背負っている。
「おはよう」
「おはよ、アオイ」
表情も声のトーンもまずまず、昨日のような苛立ちは感じられない。
「駅出てすぐにさ、カフェあったじゃん?そこ行こう」
「ああ、いいよ」
石井と二人並んで歩くも会話はない。以前なら「いやー、県北は寒いね。あっためてよ」なんて軽口を叩きながらくっついて歩いていたのに。
「いらっしゃいませ〜、二名様ですか?空いてるお席へどうぞ」
店員の決まり文句をよそに、人気のない席を石井は陣取る。
「コーヒーのブラックを一つと、カフェラテで」
注文を取りに来た店員にそう告げると、石井はコートを脱いでリュックを漁る。その空気感から、やはり怒っているのを葵は感じ取っていた。
「お待たせしました、コーヒーとカフェラテでございます」
コーヒーはこっち、カフェラテは私と伝え、「ごゆっくりとお過ごしくださいませ」という定型句を聞き流す。目の前に置かれたカフェラテを手に一口飲み、石井は切り出した。
「あのさ、今日なんで私が来たかわかる?」
「…なんとなく、心当たりはある」
「何?」
「その、最近ちょっとあんまり話せてないし、会いに行けてないなって」
「そうね、それもあるけど違う」
葵は石井を見ることができず、手にしたコーヒーに視線を落としていた。
「あのさ、年明けたらもうすぐ三年だよ。高校最後の年。アオイは進路どうするの」
「どうって…」
決まっていない、と思っていても口にはできない。コーヒーを置き、さらに視線を落としてしまう。
「…決まってないんだね」
「うん…」
石井はなんでもお見通しだな、と一人心の中で呟く。
「私は決めたよ、進路」
「えっ…?」
予想外の言葉に、思わず顔を上げる。石井はカップを端に寄せて資料を広げる。
「東京フォトグラフアカデミー…」
広げられた資料の表紙にはそう書かれている。
「私、ここで写真についてもっと学びたい。ううん、写真だけじゃない。写真の編集や動画の撮影、イベントの企画なんかもここでなら学べる。将来は写真を通して人を幸せにする仕事がしたいの」
「前に言ってたよね。幸せな気持ちを思い出せるような写真を撮りたいって」
「そう。今まではただ、自分の好きな写真を撮ってた。でもそれだけじゃ食べていけないし、幸せの形を残すことはできない。カメラの技術だけじゃなくて、総合的な力を身につけて幸せの瞬間を届けたいの」
「…すごい、夢だね」
「夢だけど夢じゃない。私のやりたいこと。実現させたいことなの」
そう言うと、石井は軽く目を閉じて一呼吸置く。何かを決意したかのように目を開けて真っ直ぐに葵を見据える。
「私は東京に行く。アオイがここに残ったとしても」
アオイには返す言葉がなかった。
「学校を出たらそのまま東京で就職する。パパとママはこっちに残るからたまには帰ってくるけど、今までのようにはいかない」
いつもの人を試す口調ではない。はっきりとした意思が感じられる。
「アオイがここに残ったとしても、私は私の未来のために動く。だから…」
わずかに言い淀む。まるで喉まででかかった言葉を言うかいうまいか決めあぐねているようだ。
「だから、アオイが残るなら…それがアオイの選んだ道なら。さよならになるかもね」
「…」
二人の間に沈黙が流れる。葵は石井の目を見ることができないでいた。彼女がどんな思いでこれを言いに来たのか、痛いほどわかるからだ。
「アオイ。ひとつだけ言っておくね」
先ほどの厳しい口調から、穏やかな優しい声へと変わる。こちらが本心なんだと言わんばかりに。
「私はあなたが好きだよ、今も。だから…そんなアオイを見ていたくない。私だって、こんなこと言いたくない。だけど、時間は進むんだよ?いつまでも愛のご両親といられるわけじゃない。この環境がずっと続くわけじゃない。前を向かなきゃ。悩んだってウジウジしたっていいけど、待ってはくれないの」
葵は視線を落としたまま、彼女の言葉に耳を傾けている。返す言葉が見つからない。
「アオイは特別だから、時間が巻き戻った分、あの頃できなかったことをしたい気持ちもわかる。わかるよ。私だってお姉ちゃんがいてくれたらって思うことあるからわかるよ。でも…今はアオイなんだよ。遠藤葵の体の。一緒に前向いて生きようよ…」
石井の声は震え、涙を流していた。大事な時にはいつも泣かせてしまうなと葵は感じていた。
「私、待ってるから。アオイが選んだ道なら、それを受け入れる。またいつか笑って過ごせる日が来ると思うから」
そう言うと石井はカフェラテを口にして資料を片付け始める。
「連絡しないでとは言わない。悩んだら話してほしいし、困ったことあれば相談に乗るから。私はアオイと一緒に生きたいんだよ」
片付けを終えた石井は伝票を取り、席を立つ。
「無理、しないでいいから。時間はかかっても私は待つよ。それじゃ、また」
葵は石井の顔を見られないでいた。葵に背を向けて遠のく背中を見ることも、声をかけることもできないでいた。石井の言葉が頭の中を駆け巡りながら、ただぼんやりとテーブルを見つめていた。
私のしたいことって、何?
こんなに勉強してきて、何がやりたかったの?
パパとママに会ったら、共に過ごしたらその先は何がしたかったんだろう?
あの病気がなかったら、普通の高校生活を送っていたら、私は何をしてたんだろう?
石井は…?パパとママに会うまでの繋ぎ…?
違う…。
でも、私はどうしたら…。
これまでのことと、これからのこと。色々な考えが頭の中を駆け巡り、答えが出ることはなかった。
テーブルのコーヒーは冷め、外では正午を告げるサイレンが鳴り響いていた。




