第二十六錠 思い出と重なる未来
両親に…一也と好子に娘と言ってもらえたこと、今の姿でも娘として受け入れてもらえたその日、葵はその胸の高鳴りを抑えられずにいた。一番の理解者である石井にこのことを話したいが、頭の中でうまく整理できない。興奮により言葉がまとまらないでいた。どこから話せばいいのか、どう伝えればいいのか、メッセージに纏めることが出来ない。もう、その場の流れで話そうと決めて電話をかける。数回のコール音の後、石井の軽快な声が聞こえてきた。
「あ、アオイどうだった?うまく行った?」
「うん、なんとか。今も信じられなくてちょっと落ち着かない」
「ってことは、ご両親とも、愛だって認めてくれたの?」
「うん。たぶん、大丈夫だと思う。泣いちゃったけど、パパもママも娘だ、愛だって言ってくれたし」
「そっかぁ、よかったね。長年の夢が叶ったね」
「うん。まさかホントにこうなるとは思ってなかったし。由香、ありがとう」
「え、なんでさ?」
「由香の後押しがなければ、うまくいかなかったと思う。あの写真と、ずっと由香が支えててくれたからだよ」
「そうかな〜?なんか照れるけど、きっとアオイの気持ちが通じたんだよ。ずっとアオイの中にいる愛の思いが変わらなかったから。アオイはアオイだけど、中身はずっと愛だったわけでしょ?…最近までは男として生きてきたわけだけどさ」
「そう…だね。その点は両親とも色々話したよ」
葵としての環境、生活、男として見られることの理不尽さ。そういった思いも、受け入れてもらえた後に話してきた。そのことについて二人はあれこれ言わず聞き入り、葵として生きてきた愛のことも受け入れてくれていた。
「ちなみにさ、この子は愛だ!ってなった決め手は何かはあるの?」
「うーん、たぶん落書き帳と日記、かなぁ。最初にあの落書き帳見せて、その後日記に書いたことを言ったら、受け入れてくれた」
「なにそれ、そんなに強烈なこと言ったの?ってか日記書いてたんだ」
「愛の頃、入院してる時にね。私が死んだ後、何度も読んでたみたいだし、母には刺さったんじゃない?そのことを話してる時は、もうどうにでもなれって半分思ってたから、よく覚えてなくて」
日記の内容は…両親に語ったフレーズは石井には伝えられないと葵は感じていた。伝えてしまえば、葵としての人生を全否定することになる。それはつまり、石井との関係も。当初、愛にとって転生したことは不本意ではあったが、石井と過ごす時間はかけがえのないものとなっていた。だから、あの言葉は愛としては真実であり、葵としては真実ではなかった。
「そっか。まあなんにせよ、ご両親ともうまくいきそうでよかったけど」
「けど?」
「アオイ、水原家に入り浸りになって私のこと放置しそう」
石井の声のトーンがわずかに落ち、少し棘のある言い方になる。
「しないって、ちゃんと帰るって」
「ほんとに〜?なんか焦ってない?図星だったりして」
「そんなことないって」
昔から、人を試すような、からかうような口振りは変わらない。時々本心をこうして隠しながら伝えてるのではないかと思ってしまう。
「ふーん、じゃあ次はいつ帰ってくるの?」
「土曜日は病院行かないと…薬、なくなるから」
「日曜日は?」
「由香に会う予定を入れたいんだけど?」
「よろしい、じゃあ予定決めよ〜」
行こうと思ってる、のような意志の弱い返答では逆撫でしかねないと葵は感じ、彼女の喜びそうな言葉を選ぶ。葵の中で一つ懸念はあった。和解したとはいえ、愛の両親とやり直したいと口にした時、彼女は泣いた。私のことを置いていく。その一言と涙が頭から離れなかった。ただ、それを面倒だとは思っていない。それほどまで、誰にも奪われたくないと思うほど愛されているのだと逆に嬉しくもあった。その後も水原家での出来事や来週の予定等々を話し、電話を切る。石井の声を聞いていると昂っていた気持ちが落ち着き、終いの頃にはいつもの自分に戻っていた。愛の両親とは再スタートを切れそうではあるものの、安らげる場所はここなのかな、と葵は思う。
葵の休日は石井のもとと水原家を往復する日々が続き、季節はいつしか秋になっていた。
まもなく葵の誕生日であり愛の命日が近づく。あまり気乗りはしないものの、葵は自身の父に電話する。
「あ、父さん?葵だけど今大丈夫?」
「おお、葵か、久しぶりに声聞いたな!こっちにも全然帰ってこないけどどうした?元気にしてるか?」
「うん、まあまあね。土日も補習とか課題あって忙しくてさ。あのさ、一つ相談したいことがあるんだけど…」
「なんだ、言ってみろ。父さん、力になるから!」
「あのさ、前に話してたバイクの教習所、誕生日来たら通おうと思ってて。免許取れたら父さんのバイク借りたいんだけど…」
「お、葵も教習所に通う気になったか。いいぞ、父さんのバイク、葵でも乗れるように保険変えておくから」
「うん、ありがとう。どのくらいで免許取れるかな?」
「葵の場合は土日くらいしか通えないからなぁ。たぶん、一ヶ月もあれば取れるんじゃないのか?」
「え、そんなにかかるの?」
ネットで見てる限りでは二週間から二十日程度と書かれてはいるが、それは乗車時間やどれだけ講習を受けたかで変わる。平日はほぼ通えない葵では通常より長くなることは必然だった。
「たしか、教習所によっては誕生日の前から通える所もあったと思うから…もう一度調べてみたらどうだ?」
「うん、そうするよ。ありがとう」
「なーに、大事な子供の頼みだ、それくらいするさ。免許取って慣れたら父さんともツーリング行こうな」
「うん、その時はよろしく」
あまり気乗りはしないが断るのも忍びないため少し素っ気なくなってしまう。
「教習所に通う費用や生活の方はどうだ?困ってないか?」
「大丈夫だよ。もらった子供手当、まだまだ使いきれないくらいあるし。ここから教習所の費用も出すよ」
「そうか。他に困ったことないか?何かあればいつでも帰ってきていいし、連絡してくれよ」
「うん、ありがとう。それじゃ、また連絡するよ」
「ああ、体に気をつけてな。それじゃ」
通話を終えた葵は溜まった緊張を大きなため息と共に吐き出す。それほど大した話ではないのに、遠藤家の両親と話す時はやはり気を遣ってしまう。心の距離の遠さが身に染みる。ひとまず、バイク自体は父のを借りることができそうだが、免許取得に一ヶ月もかかるとなると、水原夫妻と水族館に行くという夢は一ヶ月先送りになってしまう。その上、バイクの免許取得を優先すれば土日は一日中教習所に通い詰めることになるため、水原夫妻にも石井にも会えない。水原夫妻は寮からも比較的近いため、外出許可を取りつければ夜でも会える。だが県南に住む石井の方は新幹線を駆使してもごく短時間しか会えず、不満を募らせてしまうだろう。悩みどころだなと葵は思いつつ、教習所を調べ始めた。
誕生日数日前の土曜日、葵は寮最寄りのコンビニへ向かって歩いていた。寮から通える教習所では誕生日前からの入校は不可だったため、渋々十六歳を迎えてから教習所へ通うこととなる。その話と共に、一緒に水族館へ行けるのはだいぶ先になる旨を水原夫妻に話した所、焦らなくていいから、三人で水族館行こうと声がかかった。車についてはレンタカーを用意してくれるとのことだった。体も生まれも異なるが実の娘と認めてくれたとはいえ、誰が見ても赤の他人。葵を寮まで水原夫妻が迎えに行くことはできなかった。そのため、最寄りのコンビニで合流してから水族館を目指すことになった。コンビニに着くと、事前に聞いていた通りの白い小型ミニバンが停まっていた。近づき手を振ると父も気づいてにこやかに手を振りかえしてくれる。隣にも後部座席にも母の姿は見えなかった。
「おはよう、パパ。ママは?」
「おはよう、愛。ママは家で準備してるんだ。一旦家に寄ってから行こう」
「そうなんだ。珍しいね」
「まあ、ママも歳取ったからな、朝起きるのもつらいんだろう」
「そんなこと言って、パパだってだいぶ歳とっちゃったよ」
「そ、そうか?やっぱりそう思うか?」
「うん。まぁ仕方ないけどさ。でも、いつまでも元気でいてよね」
「ああ、頑張るよ」
水原家までいつもは一時間かけて歩く道も、車だとものの数分で到着する。いつもの赤い軽自動車の横に停められ、自宅に入る。
「ただいま〜」
「おかえり、愛。ちょっと上がってこっち来て」
リビングから母の声が聞こえる。
「もう、今日は水族館行く日なんだから早くしてよ〜」
ボヤキながら父とリビングに入ると母が紙袋を抱えていた。母はすでに着替えも化粧もばっちりできている。
「おかえり、愛。ちょっと早いんだけど、これ」
「これ…」
渡された紙袋を見て葵は固まってしまった。中には服と化粧ポーチが入っている。あの頃…十五年前まで使っていたあの時のままのポーチが。
「アオイちゃんの体ではもうすぐ誕生日でしょ?たぶん寮から出てくるから男の子の服なのかなって思ってて。せっかくみんなで水族館行くんだから、愛らしくいて欲しいなって」
「…ありがとう」
「あの頃の服も取ってあるんだけどなぁ。やっぱり、その。あの頃の愛と今では背の高さも違うから合わないかなってママと話してね。好きそうな服を二人で選んだんだ」
「パパったらね、愛だったらこっちの方がいいって、私より真剣に選んでたのよ」
「ちょっと、それは言わない約束じゃ…」
「いいじゃない、別に減るもんじゃないし、今更でしょ」
「ふふ、ありがとう。パパ、ママ」
(やっぱり、素直じゃない所も変わってないな)
こんな些細な家族のやり取りを求めていたんだなと、小さな幸せを感じながらにこやかな笑みを返す。
「愛が使ってた化粧品、今も同じのが売ってるやつはそれを新しくしといたから。足りない分はママのでよかったら使ってね。せっかくだから、お化粧してもいいかなって」
「ありがとう。着替えてきてもいい?」
「もちろん。部屋も久しぶりだろうからゆっくりしてらっしゃい」
「うん、ちょっと待っててね」
軽く手を降り、足早に部屋を目指す。自室とはいえ、愛は自分の部屋に入るのを避けていた。亡くなってから十五年。自分の部屋がどのようになっているのか、見るのが少し怖かった。綺麗さっぱり片付けられているのか、それとも何も手をつけられず放置されてしまっているのか…。親の気持ちがそこから透けて見えてしまいそうで、部屋に行くことを避けていた。だが、今日は入れそうな気がした。葵の、ではあるが誕生日を覚えていてくれて、心のこもったプレゼントを用意してもらって…。愛情がこもった二人の思いから、部屋へ入る恐怖心が和らいでいた。
あの頃と変わらない階段を登り二階へ向かう。自室の扉も記憶と変わらない。ドアノブに手をかけ、一呼吸置いてからノブを回す。カチャリという乾いた音とともに扉を開け、中に入る。少し片付けられてはいるものの、あの頃とそう変わってはいない。見覚えのあるカーテン、ベッドに並んだぬいぐるみ達、本棚には昔から好きだった漫画があの日のまま残っている。布団も定期的に干されているのだろうか、ふかふかしているし部屋自体も埃っぽくない。まるでいつ帰ってきてもいいかのように整えられている。クローゼットを開ければあの頃着ていた服や高校の制服もかけられている。懐かしさとともに胸が締め付けられるような思いがした。帰ってきた。自分の部屋に。あの頃の、自分に。姿形は異なるものの、紛れもない水原愛の心は水原家に舞い戻っていた。長かった。ここまでくることはできないと思う日もあった。それでも、今こうしてこの部屋にいられることに感謝した。この時間を、両親と過ごせるこの瞬間を大切にしたいと思いつつ、瞳に滲んだ涙を拭った。
(早く着替えて下に行こう)
曇り一つない姿見を前に、着替えていく。暖色のパーカーを、ジーンズを脱ぎ、真新しいワンピースに袖を通す。こちらも茶色やベージュを取り入れた落ち着きのある色合いながら、Aラインのきれい目なスタイリング。愛の好みだった。姿見を使って裾の広がりや背面を見てみる。背中のリボンが可愛らしいと思いつつ、ふと机に目が止まる。机の本棚には高校の頃使っていた教科書やノート、参考書が並んでいた。懐かしいな…と思いつつ引き出しを開けると、当時の文房具や友達との写真に手紙、思い出の品など次々に出てくる。
(全部、取っておいてくれたんだ…)
写真を数枚めくるだけで、1十五年前のあの日々が色鮮やかに蘇る。懐かしさと、もう戻れない日々にまたも涙が滲む。そっと写真を引き出しに戻し、机の上に置かれたノートを手にする。愛が入院中につけていた日記だ。愛は入院中、日記をつけていた。日々の病気の経過をまとめる目的もあったが、自分の気持ちを残しておきたいと思った。後ろ向きではなく、生きた証を残したかった。
(本当に、残してあったんだ…)
何度も母が読み返したのだろう。表紙も紙面も記憶よりだいぶ傷んでいる。単にしまわれていたのではこうはならないだろう。そっと手に取り、ページをペラペラとめくっていると、あるページで目が止まる。何かで濡れたような跡でインクが所々滲んでいたからだ。この滲みは愛の記憶にない。
眠るのが怖い。
寝て、目が覚めなかったらと思うと怖くてたまらない。
目が覚めなかったら、きっとママやパパに悲しい思いをさせてしまう。
目が覚めなかったら、私のいない毎日が始まる。
何事もなく世界は回るけど、パパは、ママは、友達は…私との繋がりがなくなってしまう。
とんでもない親不孝者だよね。
私は、誰も悲しませたくないけど、あと何年…あと何日生きられるかわからない。だから、1日でも長く。少しでも大切な人との時間をたくさん持ちたい。
奇しくも、あの時母に話した言葉を記したページをめくった所だった。
(ごめんね。パパ、ママ。たくさん悲しませて…。でも、また一緒になれたんだから、今度は私が二人を幸せにするからね)
日記を閉じ、デスクの時計を見ると思っていたより時間が経ってしまっている。
(ヤバっ!出かけるのに)
脱いた服もそのままに化粧ポーチを取り、ドタドタと階段を降りていく。
「ごめん、遅くなっちゃって」
リビングに飛び入ると二人ともコーヒーを飲んでいた。これから出かけるというのに、マイペースさも変わりがない。
「大丈夫よ、久しぶりの部屋だし、思う所も、見たい所もあるでしょ。お化粧終わるの待ってるから、焦らないでいこう」
「そうそう、ママみたいに車でもどこでもささっとできるわけじゃないんだろうし」
「それ、私が薄化粧だとでも?」
「んー、そんなことないよ?ママはいつもきれいだよ?」
「あー、そーですかー」
なんとも他愛のない会話を横目に、いつもの席へ着くと化粧ポーチを開く。道具も含めてほぼ新しく置き換わっているが、友達からもらったケースデザインの凝ったリップや手鏡はそのまま残っていた。
「どう?足りそう?」
「うん、たぶん大丈夫。ありがとう」
下地、ファンデーションを手早く塗り、ペンシルタイプのアイブロウを取る。左手に持った小さな丸い手鏡で確認しながら右の眉を描く。続いて鏡を持つ左手を奥に、アイブロウを持つ右手を手前にして交差させ、左の眉を描いていく。その様子を好子はじっと見つめている。
「どうしたの?なんか変?」
「ううん、そうじゃないの。ほんとに愛なんだなって。その描き方、私が教えたからさ」
「ああ、これね。うん。今もちゃんと覚えてるよ」
愛がまだ化粧を始めたての頃、アイブロウやアイラインをうまく引けないでいた。その様子を見ていた好子が「こうしたらいいんじゃない?」とアドバイスしたのがこの描き方だった。その描き方は、好子もずっと続けているものだった。
「そう、だから懐かしいなって思ってね」
「…だって、私だもん」
「そうね。帰ってきてくれたんだものね」
そんなやりとりをしながら道具を変え、手早くメイクを済ませる。愛の場合、つけまつ毛をつけたりシャドウを濃くすることはない、ナチュラルな雰囲気に仕上げるためそれほど時間はかからない。それでも久々のメイクであの頃を思い出すと共に、女の子らしさを感じていた。徐々に大人の女性の顔へと仕上がる鏡の中の自分にドキドキしていた。
「お待たせ」
ポーチを閉じ、両親へと声をかける。葵の化粧の進み具合からそろそろかと両親も準備を整えていた。
「お、綺麗になったな、愛」
「うん、化粧の仕方も仕上がりも変わってないわ」
「まったく、二人して。ほら、早く行こう!水族館閉まっちゃうから」
「はいはい、それじゃあ行くとしますか」
それぞれが鞄を持ち、家を後にする。
「久しぶりだし、父さんと2人で前に乗っていくか?」
「えー、どうしよう、やっぱり私は後ろがいいかな」
「なんで、せっかくなのに」
「私にとってはFGの後部座席が定位置だったからさ。パパが運転して、ママが助手席で。乗り降りしづらくて狭くて。段差の度にガタガタするし、何よりいつもブンブンうるさい。私には、それも家族の思い出だから」
「愛…」
「愛、父さんのFGのこと、覚えててくれたんだな」
「忘れもしないよ。ピアノの発表会の前日にエンジン壊れて急に代車になったこととか」
「う、そんなことも覚えてるのか…」
「当たり前でしょ。他にも言ってあげようか?もっと乗り降りしやすい車がいいって言ったのに聞き入れてくれなかったとか、踏切渡りたくないからって遠回りして遅刻しそうになるとか…」
「あー、そろそろ行かないと遅くなっちゃうから、ほら、二人とも乗って乗って!」
少し耳の痛い遠い過去の出来事とはいえ、父の顔は綻んでいた。ずっと遠くに行っていた娘が帰ってきて、あの頃の懐かしい話をしている。まるで昨日のことのように思い出せるが、ただ話せるだけで満たされていた。
その後も家族三人様々な話をしながら旅路は進んだ。愛の頃、何度か立ち寄ったラーメン屋でお昼を、途中コンビニでコーヒーを買っていく。コーヒー片手の車内では、
「あのお店、昔からある!」
「こんなお店あったっけ?」
「あれ、この道なかったよね?」
…と、水族館への道ですら思い出と現在が交錯する。約十六年の歳月は大きいものだった。
「ついたー!相変わらず遠いなぁ」
車を降りた葵は大きく伸びをする。昔の車よりは広くて快適だったが、三時間近くも揺られているとさすがに疲れが出る。
「そうねえ、途中休憩もしたけどやっぱり遠いわね。運転、お疲れ様」
「なに、運転するのは好きだからね。このくらい平気だよ」
「ねえ、早く行こう。早くしないと閉まっちゃうよ」
「そう焦らなくても大丈夫よ」
早く早くと急かす葵をなだめながら、カメラや鞄を取り出して準備を整える。
「ママと愛は先に行っててくれ。すぐ行くから」
「はーい」
母と二人並び、葵は入口に向かって歩く。
「あの頃と変わってないんだね〜」
「そうねぇ、細かい展示の変更とかはあったけど、そんなに大きくはね」
「早く見たいなぁ」
「この時間だと、まだイルカショー見られるわよ」
「そうなの?見たい!」
「入口でガイドもらったら見てみよう」
「うん!」
「ごめんごめん、お待たせ〜」
遅れてきた一也が小走りで合流する。
「なあ、入口で写真撮らないか?」
「あ、いいねそれ、撮ろう!」
「じゃあ、愛とママ、二人で並んで」
「はーい」
「パパは?いっしょに写らないの?」
「パパは後からでいいよ。はい、チーズ」
カシャ、カシャと何枚かシャッターを切る。昔からカメラにはこだわりがあった父らしく、角度をつけたりレンズを回して微妙にズームを調整している。
「ねぇ、まだー?」
「あぁ、悪い悪い。久しぶりなんでつい」
「もう、パパったら。いつもそうじゃん」
「仕方ないわよ、家族三人でまたこうして水族館に来られたんだもの。パパも嬉しいのよ」
「さあ、撮影は終わり!早く行こう」
「はいはい。まったく、あの頃から変わってないな、愛は」
「ええ、本当に…」
一人撮影を切り上げ、入り口の自動ドアをくぐる葵を一也と好子は目を細めて眺めていた。
夢でも幻でもいい。たった一度でいいから、もう一度愛に会いたいと思い、命日付近で通い続けてきた水族館。形は違えど、その願いはこうして叶えられた。
追い求めても、どんなに願っても亡くなった人は帰ってこない。
唯一会えるとすれば、それは夢の中だけ。
それでもこの三人は、死神の雑な仕事により運命的な再会を果たすことができた。
はじめは、誰もがあり得ないと思っていた。
生まれ変わった愛も、愛に似た子供を見かけた好子も、その話を聞いた一也も。
愛は限りなく低い、実の両親との再会と復縁の可能性を信じていた。何度も心が折れそうになり、最愛の存在・由香と仲違いしたこともあった。それでも、自らの存在を隠して遠藤葵として振る舞ってきたことの全てが実った。
今はただ、誰にも邪魔されずにこの幸せを享受したかった。
追い求めても絶対に辿り着く事はない、逃げ水にたどり着いたのだから。




