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第二十五錠 告白

 花火の翌週に、葵は水原家を訪れる約束をした。土曜日は二人とも用事があって不在、日曜は父一也が不在だが好子は家にいるとのことだった。

 好子曰く、平日は近所の小学校で登下校の児童を見守るボランティアを、土日はシルバー人材として公園の整備や道路のゴミ拾いなどをしているそうだ。

 水原家を訪れる当日。外は朝から雨が降っていた。ザーザーぶりではなく、しとしとと降り続いているから歩いて行けないほどではない。朝のうちに好子からメッセージが入る。

「アオイちゃん、おはよう。今日雨降ってるけど大丈夫?お迎え行こうか?」

 お迎え…と言っても車は父の一台しかないため、使うにも使えないのでは…と思いつつ、葵も返答する。

「おはようございます。お気遣いありがとうございます。途中、寄りたい所があるので大丈夫です!歩きで行きます!」

「そう?無理しないでね。待ってるから」

 メッセージのやり取りを終え、支度をして家を出る。少し歩きにくいがレインシューズを履いて行く。七月だというのに雨の鳥山は少し肌寒い。広げた傘に当たる雨音が、サーっという雨の音が周囲の音をかき消して心地よい。

 予定時刻より早いものの、寄り道をするため寮を早めに出ていた。行き先はお菓子屋。訪問の手土産として、母が好きなお菓子を購入しようと決めていた。鳥山の銘菓で黒雫(くろしずく)という、洋酒漬けのフルーツが入った白餡をチョコレートでコーティングしたお菓子だ。コロンとした雫型が可愛らしく、幼い頃から母と好きで食べていた思い入れのある品だ。父には好きなお酒を、と思ったがさすがに未成年では販売してもらえない上に、通販で寮にお酒を届けてもらうことも現実的ではない。代わりに父が好きなコーヒー豆を事前に用意していた。マンデリンフレンチ。酸味はほぼなく、苦味の強いコーヒーだ。甘い黒雫に合わせてもおいしいことは昔から知っている。

 購入した黒雫とコーヒーの他に、葵はある決意と共に例のものを鞄に忍ばせていた。愛としての意識が戻ってから書き留めた落書き帳だ。父は不在だがまずは母だけでも、自分が愛の生まれ変わりだと信じてもらえればやり直せるかもしれないと感じていた。病院では「新しい幸せを見つけてほしい」と言われているが、一縷の望みにかける。自分の幼い字だが、落書き帳の中の文章はしっかりと書いてある。これに目を通してもらって、家族しか知らない真実を話せばわかってもらえるかもしれないと思ってのことだ。この計画のことは事前に石井にも話してある。

「ついに…話すんだね」

「うん。この前…花火の日に話して思ったの。もう、隠し事したくない。愛だってわかってもらいたい」

「でも、大丈夫なの?あんなにチャンスは一回きりだって言ってたのに…」

「それはわからない…。けど、パパもママもアオイとしての私の事、受け入れてくれてるし。心の中にいる私にも気づいてほしいの」

「それは…そうだよね。愛としての本当の気持ちは隠してるんだもんね」

「端々では出ちゃってるけどね。だから…話すって決めた。どうなるかわからないし、もう会っても声かけてもらえなくなるかもしれない。それでも私は今だと思うの。もう、アオイとして見られるのは我慢できない…」

「うん、アオイの気持ち、伝わってるよ」

「ほんと?」

「嘘ついてどうするのよ。アオイ、ちょっとメッセージの方に写真送るから見てみて」

 そう言うと石井の声がしばし途絶え、寮の部屋には沈黙が訪れる。

 通話をスピーカーモードに切り替えて数秒後、メッセージ受信の通知が表示される。開いてみると、この前の花火の写真だった。写真に収まりきらないほどの大きさの花火と共に、左隅に葵と水原夫妻が写っている。ちょうど三人並んで親子のようだった。

「あ、アオイ聞こえる?写真送ったの見れた?」

「うん、今見てるよ。これ、この前の花火でしょ?こんなに大きくなかったと思うけど…」

「望遠を使うと、遠くにあるものがより大きく写ったりするんだよ…って、見てほしいのそこじゃないんだけど」

「わかってるって。この端っこに写ってるの、私とパパとママ…」

「そう。アオイと水原夫妻じゃないよ。アオイと…愛とご両親だよ」

「…うん」

「どう?他人に見える?この距離感。一緒に花火見上げてさ。私には親しい関係にしか見えないよ」

「…ありがとう、由香」

 葵の目にも、姿は違えど親子三人が花火を見上げている、あの頃と変わりない三人にしか見えなかった。

「だから大丈夫。私も心は通じてると思ってる!初めて会った私がそう思うんだから大丈夫だよ」

「…ありがとう」

「何湿っぽくなってんのよ。私ね、こういう写真を撮りたかったんだ。だから、コンテストはこの写真で出そうと思ってるの」

「え…なんでさ?もっと綺麗に撮れた花火あるじゃん、グランドフィナーレのやつとか」

「あれは確かに上手く撮れたかもだけど…私が求めてるのはそれじゃないの。なんていうのかな…人と人との絆を撮りたいの」

「絆…?」

「うちはさ、お姉ちゃん亡くなってから家族であんまり旅行とかも行かなくなっちゃったから、私の写真ってあんまりないんだよね。家族写真も含めて。だけどさ、アオイの写真撮ってて気づいたんだ。写真は幸せな瞬間を永遠に残せるものなんじゃないかって」

「由香…」

「レンズの向こうにいる人の幸せや楽しい気持ちをずっと残して、幸せなあの頃をいつでも思い出してもらいたい。幸せな思い出を作るお手伝いがしたいって思ってるの。だから、これは私にとってそれが初めて表現できた一枚なの」

「そう…だったんだ」

「アオイのこと写真撮ってても最初はそんな事思わなかったんだけどさ。だんだんアオイの表情も柔らかくなって、楽しそうにしてるのが伝わってきたしさ。その写真をアオイと見て、懐かしいとか、この時楽しかったよねって後からでも思い出して幸せな気持ちになれるじゃない?だから、写真っていいなあって思うようになって」

「すごく素敵だと思うよ。由香の考え方」

「そう?なんかそう言われると照れるな」

「私もこの一枚に救われたし、勇気づけられたよ。ありがとう」

「ならよかった。偶然出会ってたまたま撮れただけかもしれないけど」

「そんなことないよ、由香の想いがこもってるから撮れた一枚だと思うよ」

「ありがとう、アオイ。それに…」

「それに?」

「ううん、なんでもない」

 石井には、亡くなった人が意識だけでも帰ってきてくれた奇跡に少しばかり期待していた。失ってしまったものを、無くしてしまった絆を埋められるかもしれない。水原夫妻と葵が引き合わせた奇跡が三人の悲しみを新しい形の幸せに変えられるのではないか。そう思わざるを得なかった。最愛の人を失った石井だからこそ、この奇跡を最後まで見届けたかった。

「日曜日、頑張ってきてね」

「うん、ありがとう。頑張る」

「それじゃ、またね」

「うん、また」

 通話を終えた後も、葵は送られてきた写真を眺めていた。漆黒の闇を鮮やかに彩る花火と、それを見上げる三人の後ろ姿。愛にとってはどのような結果になろうとも行き着く先はただ一つである事を前もって知らされてしまっている。

「だから…私たちに会いにきてくれることは嬉しいけど、新しい幸せを見つけてほしいなって思うの。愛としての、前世の記憶に縛られないでね」

 自分との暮らしを、時を隔てた再スタートを望んでいるわけではない事を聞いてしまっている以上、愛の望みは叶わない。それでも、この想いを伝えないで終わることだけは耐えられなかった。思っていたよりも早い再会に驚きと喜び、不安が混在する中、保留ではなく前へ進む事を選んだ。大好きな母が言う、新しい幸せを見つけるために。


 記憶より少々荒れた庭を通り思い出の家へと歩みを進める。ふと、玄関前に見慣れた赤の軽スポーツカーが停められているのが目に止まる。今日は父親は不在のはず、と思いながらチャイムを鳴らす。あの頃と変わらないチャイム音に懐かしさが込み上げる。

「はーい」

「おはようございます、アオイです。遅くなりました」

「おはよう、アオイちゃん。今行くわね」

 ポツッとインターフォンが切れる音の後、玄関の鍵がガチャリと開き、好子が顔を覗かせる。

「おはようアオイちゃん、こんな雨の中ごめんね。さあさあ、入って入って。やっぱりお迎え行けばよかった」

「おはようございます。お邪魔します。今日、一也さんはお家にいないんじゃ…?」

 軽く会釈をし、扉の中へと足を踏み入れる。あの頃と変わらない照明、家の匂い。全てが愛の感覚を呼び覚ましていく。

「それがこの天気でしょ?公園の草刈り中止になっちゃったのよ」

「あ、そうだったんですね。私、てっきり予定を変えてお迎えに来てくれるものだと思ったので」

「たぶん、雨で中止になって一番喜んでるのはあの人だと思うから。色々お話ししてあげて」

「そうなんですか?」

 花火の日には少しそっけない反応も見受けられたから、母ほど歓迎されていないのかと少々不安だった愛の気持ちを好子の一言が揺さぶる。

「あの後、もっと話しとけばよかったとか、確かに愛に似てるとか、あなたの話題で持ちきりだったのよ」

「もしかして、昔からそういうシャイと言うか、人前で素直になれない性格…」

「変わってないのよ。アオイちゃん、よくわかるわね。もしかして、超能力者?」

「違いますよ、ただなんとなく…だって娘ですから」

「確かにね。さぁ、リビングへどうぞ」

 軽く冗談を交えた立ち話をしながら、リビングへと歩みを進める。この向こうに、父がいる。懐かしの家だというのに、妙な緊張感が葵にまとわりつく。

「あなた、アオイちゃんよ」

「おお、アオイちゃん、来てくれたのか。いらっしゃい、どうぞ」

「はい、お邪魔します」

 ソファに腰掛けていた父は立ち上がり、出迎えてくれる。明るい所で見ると、やはり好子同様歳をとったと感じる部分はあるが、あの頃の面影もしっかりとあり、一目で父とわかる。

 十五年ぶりのリビングもあの頃とそう変わりない。カウンターキッチンの隣につけられたダイニングテーブル。少し離れて置かれたソファと向かい合うように置かれたテレビにローテーブル。流石にテレビは大きくて新しいものに変わっていた。リビングに入ってすぐ右を見れば、あの頃と変わらないアップライトピアノが佇んでいる。弾く人もいないというのに、丁寧に掃除されている。今も調律されているのだろうかと少々気になった。その奥には仏壇があり、先祖代々の位牌と共に愛の写真が飾られていた。その様子に、少し胸が痛くなった。まじまじとは見ないものの、花が生けられ、お水とご飯も備えられている。他にも、生前好きだったものがいくつか並んでいた。亡くなってもなお続く親の愛に、葵の胸は締め付けられる思いがした。

(ごめんなさい…)

 病気とはいえ、早くに亡くなってしまった事を、最愛の人から最愛の存在を奪ってしまったことに、罪悪感を感じて悔やんでいた。両親のために、私は何かできたのだろうか、と。

(でも、今は…)

 過ぎた過去を悔やんでも仕方ないと、前を見ていくんだという決意と共に、父の待つソファへと向かう。

「失礼します」

「いいんだよ、アオイちゃん、そんなに固くならなくて。この前はありがとうね」

「いえ、こちらこそ。まさかお会いできるとは思っていなかったので」

 促されつつ、昔座っていた定位置へと歩みを進める。

「これ…少しですがお土産です」

「そんな気を使わなくていいのに。ありがとう」

 お土産の紙袋を受け取りチラリと見た父には思う所があったのだろう。頷きながら袋を好子へと手渡す。

「あら、黒雫じゃない。私これ好きなのよね。それに…これ、あなたの好きなコーヒーじゃないの?」

「そうなんだよ、マンデリンフレンチ…。黒雫といい、よくわかったね」

「黒雫はネットでも美味しいって評判みたいですし、私も食べて美味しかったので。それで甘いお菓子なら苦いコーヒーが合うかなって」

「なるほどね。私は酸味のあるコーヒーは苦手でね。この銘柄のマンデリンフレンチはスーパーなんかで売ってるのとは違って、苦いだけじゃなくてだね…」

「あなた、そんなコーヒーについて語っちゃかわいそうよ。それよりこれ、淹れてくれない?」

「おお、そうだな。せっかくだし黒雫も一緒にいただくとしようか」

「ちょっと用意するから、アオイちゃんは座って待ってて」

「はい、ありがとうございます。あの、ピアノ見ててもいいですか?」

「ええ、どうぞ。弾けるの?」

「昔、ちょっとだけピアノやってたので」

 葵はピアノの方へ向かい、両親はキッチンで仲良く黒雫をお皿に取り分けたりコーヒー豆を挽き始める。好きなコーヒーの銘柄はずっと愛にも話してきていた。

「わかったわかった、もう耳タコだよ」

 何度も話すものだから終いにはそう言われてあまり聞いてもらえなかったが…この子が娘の生まれ変わりなら、それを覚えていてくれたのかなと一人思いを馳せる。

 ピアノカバーを開けると鍵盤の上には赤紫の布がかけてあり、葵はそっと手に取って畳む。鍵盤にはあの頃と変わらない輝きがあった。

(久しぶりに弾いてみたいな…)

 鍵盤を優しく撫でるものの、音を出すことには抵抗があった。自分の家なのに自分の家ではない感覚。葵という体を通しているからこそ感じるものだった。愛だったら、迷う事なく弾いていたのに。

「弾いてみる?」

 小皿に黒雫を一つ乗せて好子が近づいてきた。そのお皿を仏壇へと供え、手を合わせる。

「いいんですか?」

「もちろん。調律、ずっとしてないから音が狂っちゃってるかもしれないけど」

「大丈夫です、そんなに大したもの弾けないので」

 ピアノの椅子に腰掛け、ドの音を鳴らす。コーヒーメーカーがコポコポと淹れる音の中にピアノの音が響く。その音に父も思わず顔を上げた。久々にピアノの音を聴いたのだろう。

 何を弾くかはすでに決めていた。中学の頃、コンクールで弾いた曲。大切な人を想う歌詞、優しいピアノの伴奏、のびやかで低音から高音まで歌い上げるボーカル…愛はこの歌が大好きだった。

 ♩〜♬♩…

 静まり返った部屋に、ピアノの演奏が優しく響き渡る。あの頃、みっちり練習した楽曲は、月日が経っても体が覚えていた。葵としてはピアノを弾いてこなかったため、愛の体とは違って手が開かない。調律不足による音のズレなどはあるものの、概ね良好に滑り出す。聞き覚えのある音色に、父も母も動きが止まる。懐かしい。幼い頃からずっと、ここでこうしてピアノを弾いていた。うまくできなくて泣きながら練習した事、初めてのコンクールで緊張のあまりミスをした事、演奏後にサプライズで両親が花束をくれた事、友達が見にきてくれた事…奏でる音色に合わせて、ピアノにまつわるさまざまな愛の記憶が呼び起こされる。そして、静かにラウドペダルから足を離し、鍵盤からもそっと指を離す。所々間違えてはいたけれど、気持ちを乗せることはできたと感じていた。

 弾き終えて振り返れば好子も一也も葵の事を見つめていた。その表情は驚きの側面が強いものの、悲しみも含んだような何とも言えない、神妙なものだった

「アオイちゃん、どうして、この曲を…?楽譜もないのに、どうしてこんなに弾けるの?」

「好きな曲だから、昔練習してたんですよ」

「でも…これ、愛がコンクールで弾いた曲よね?」

 好子はコーヒーを淹れ終えた一也の方を見やる。彼もまたコンクールの会場で聞いたし、家で何度も練習している所に居合わせているからその音色はしっかりと耳に、記憶に残っている。

「ああ、確かに。愛がコンクールで弾いた曲、だな。マイナーな曲のはずなのに、どうして…」

 流石に、まずかったかな…と葵は思い直す。家に招かれたとはいえ、まだ他人。愛として受け入れてもらえたわけではない。

「ごめんなさい、好きな歌だったから…つい。猫ふんじゃったとか、ドレミの歌とか、そっちの方がよかったですかね?」

「ううん、そんな事ないわ。その、あまりにもギャップがありすぎて。まさか、この曲を弾けるなんて思ってもみなかったから」

「ああ、テレビやラジオでも聞くことがない歌だから久しぶりでね。ちょっと面食らってしまったよ」

「さあさあ、コーヒーも入ったことだし、いただきましょう!」

「そうだね、冷めないうちに。アオイちゃんもほら、おいで」

「はい、ありがとうございます」

 考えても答えが出ない仮説を断ち切るように、好子はお茶会を促す。それに同調するよう一也も葵をソファへ促す。カバーを手に取り、ピアノを元に戻してから葵はソファへと向かう。両親はどう思っているのだろうか。家族との思い出の曲を弾く、娘の面影を感じさせる子。ただの畏怖の対象でしかないのかと、ソファへ向かう葵の心では少し不安が渦巻いていた。

「それじゃ、いただきます」

「いただきまーす」

 食べる前に手を合わせて軽く会釈をする。あの頃から変わらない、家族みんなでする仕草。これは今も変わりなく続いていた。葵も水原夫妻と共に同じ動きをする。

「ん〜、おいしい。やっぱりこの味ねぇ」

「だなぁ、久しぶりに黒雫食べたなぁ」

「地元の銘菓ってなかなか買いに行かないですよね」

「そうなのよ。スーパーとかで委託販売してないし、これ目当てで買いにくる観光客も増えたから、なかなかね」

「前はひっそりと販売してたし、そんなに有名じゃなかったからなぁ。食べたい時にサクッと買いに行けてたんだけどねぇ。愛が好きだったし、休みの日にはよく買ってたんだけどなぁ」

「そうなんですね。私もこれ好きですし、お散歩の時、時々買ってますよ」

「お散歩って、鳥山の寮から?だいぶ歩くんだね」

「運動しないとすぐお肉着いちゃうんで」

「そんなことないだろう、そんな細い体じゃ、何かあった時すぐ倒れちゃうよ」

「大丈夫ですよ、これでも体は男なので丈夫です」

「男ったって、全然そうは見えないけどなぁ…なあ?」

「そうねぇ。こう言ってはなんだけど、体はちっちゃいし、その、女性らしい体つきだし。声も女の子とそう変わらないし、声変わりはしなかったの?」

 病院や他人のいる環境では話せなかった話題。恐らく、ずっと気になっていたのだろう。初めて会った時より髪も伸びた上、成長が止まった子供の体から女性ホルモンの影響で一気に女性の体へと舵を切って成長していた。

「声変わり前から男性ホルモンを抑える薬を飲んでいたので。成長も止まっちゃいましたけど、声変わりもしなくて済みました」

「そうだったの…やっぱり、そういう病院で治療というか、お薬出してもらって?」

「病院には通っていません。今もインターネットで個人輸入した薬を飲んでます」

「え、自分で薬買ってるの?子供の頃から?体はそれで大丈夫なの?」

 父は意外な返答に驚いていた。

「心と体の性の不一致については、両親に話せていないので。なので、病院には行けないから仕方なく。そもそも、病院に行ってもホルモン療法はしてくれないし…未成年はダメなんです。だから自己判断で飲むから体が慣れるまでは具合悪くなったりしますけど、今は慣れてきたし、飲む量もわかってきたので大丈夫です」

「そっか…何か、話せない理由でも?」

 石井家で話した事の焼き直しかの如く、葵は両親との関係をかいつまんで話した。幼い頃、女の子の服を着たいと言って「男だから」と言われたこと。水泳でも肌を見られたくないからラッシュガードを着たいと申し出たが許可されなかったこと。厳しい家庭環境で自分を出せなくなっていったこと。二人とも、否定することなく静かに聞いてくれていた。

「大変だったんだね」

「そういう環境だったら、言いづらいわね」

「はい…でも、いつかは話そうと思ってます。ただ、今はその時じゃないかなって」

「そうねえ。ご両親も気になってはいると思うわ。アオイちゃん、すごく可愛い女の子にしか見えないから」

「そうだなぁ。こうして話してても、娘みたいだし」

「そのこと、なんですけど…」

 話そう。今、話そう。話の流れから、今なら話せる。葵は決心した。

「私、自分が女の子だって気づいたのは小学校の入学式で着る服を見てた時なんです。そこでお前は男の子なんだからって言われた時に思ったんです。私、女の子だよ?って…」

 葵の語りが、空気が変わった事を二人も感じ取り、少し表情が硬くなる。

「その日から、色々と思い出せるようになったんです。私は確か、県の中央病院に入院してたはず。高校二年の水原愛なのに、なんで知らない人の家で、男の子として生きているのって」

 葵は視線をわずかに落とす。両親の目を見て話すことはできなかった。

「これ…見てもらってもいいですか?私が、愛としての記憶を取り戻した時に書いたんです」

 そう言って鞄から落書き帳を取り出し、表紙をめくってテーブルの上に差し出す。

「思い出したのが小学校入学前でまだうまく書けてないけど…愛として覚えてること、出来るだけたくさん書いたの。パパとママのことも、友達のことも、病気のことも…学校の思い出も、みんな書いてあるの」

 好子が落書き帳に手を伸ばし、幼い字で書かれた落書き帳に目を通す。一也も共に眺める。ペラッ、ペラッと書き溜められた内容を読んでいく。確かに子供の字だがしっかりと漢字も使われているし、文章もとても子供が書けるようなものではない。

「正直、なんでこんなことになってるのか私自身、わからない。けど、私はもう、本当は死んでるんだよね。だけど、こうして愛の心が、記憶があるから…もう一度会いたかったの。パパやママ、みんなに。私は、みんなとやり直したいの。もう、あの頃とは違うし、この体も別人だけど…」

 雨音の聞こえる静かな部屋でページをめくる音だけが響く。葵は自身の心臓が強く脈打っているのを感じていた。話すのはずっと怖かった。話してしまえば、今の関係が壊れてしまいかねない。それでも、自身の内に眠る水原愛を隠し続けたくはなかった。

「前にママには病院で言われてたけど。私は、愛の記憶を持つ別人だから。一緒に暮らせないし、新しい幸せを見つけてほしいって言われてるから…ずっと、言いたくても言えなかった。小さい頃から、何度も家の前まで来てた。けど、信じてもらえないだろうから…気味の悪い子、って思われるだけだと思うから…」

 わずかな間ののち葵が口を開く。

「…正直、私自身、水原愛なのか、遠藤葵なのか、それともまた別人なのか…。私は誰なのかわからなくて、ずっと怖くて…辛かった」

 だから、石井と出会えて、ありのままの自分を受け入れてくれたことが嬉しかった。この場では、愛の両親の前では言わないがずっと心に秘めてきた想いだ。

「いきなりこんなこと言われても困るだけだよね。だけど、もう一つだけ言いたいことがあるの」

 落としていた視線を両親へ向ける。二人とも、動揺しているようだった。

「私はパパとママに何かできたのかなって。何もできないまま、迷惑だけかけて死んじゃって。申し訳なくて…それだけ、謝りたかったの。…ごめんなさい。だけど、私は幸せだったよ。パパとママの子供で」

 話はした。話せるだけ、思いの丈を伝えた。伝えた所で理解されない、信じてもらえない、受けて入れてもらえない。そんな空気感と自己嫌悪に陥りながら葵は席を立つ。早く、その場から立ち去りたかった。もう、二度と会えなくても。やり直せないことはとうの昔に気づいていた。本来はありえない事態になっているが、生きてる両親に会えて、楽しい夢を見せてもらった。もう、それだけで十分だった。

「すみません、お邪魔しました。もう、来ませんから…」

「待って!」

 両親の顔もろくに見られず足早に去ろうとする愛を好子が呼び止める。

「本当に、愛、なの…?」

 落書き帳を握りしめて立ち上がり、好子は葵を見つめる。そこにいるのが、本当に娘の生まれ変わりなのかと信じられない様子で。

「この記憶が本当なら愛だけど…。体は別人だから。この記憶も幻想かもしれないし…」

 視線を落とし、完全に両親の方へ向き直ることができない。こんな紛い物の体で、愛としての記憶を持つだけの自分が嫌で仕方なかった。やっぱり、この体では愛してもらえないんだと胸が痛む。

「…にわかには信じ難いけど…なあ…」

 父もそっとたちあがり、好子に寄り添う。

「ここに書いてあることは全て事実だ。覚えてることばかりだし、三人しか知らないこともある。だけど…」

「こういうことって、映画とか小説の中だけのお話だと思ってたから…その、実感がなくて」

 娘が帰ってきたと信じたい。けれども、両手放しで喜んで受け入れることがどうしてもできなかった。他人の体に前世の記憶を宿して娘が帰ってくる。こんな突拍子もない出来事は本来あり得ないことだから。

「信じられない、よね。私自身、いまだに信じられないもの。だから、悪い夢を見てるだけ。生きてもう一度パパとママに会えただけで、私はもう十分だよ…」

 そう言いかけて、愛はふと思い出したことを口にする。

「ねえ、入院してる時の日記、まだある?」

 一也はチラリと好子を見る。

「あるわ。病院を出る時に見つけて今もあなたの部屋に置いてあるわ」

「…それ、読んだ?」

「ええ、何度も」

「じゃあさ、この言葉、覚えてる?」

 葵は両親の方へ向き直り、深呼吸してある日の日記を語り出す。

「この日記を読んでいる人へ。あなたは、『誰かの人生と入れ替わりたい』そう思ったことはありますか。もっとお金があれば、顔が綺麗だったら、背が高ければ、健康な体であれば、この病気がなければ、異性の体で生まれていれば…。人により、願いや思いは様々だと思います。だけど、私は『誰かと入れ替わりたい』と思ったことはありません。例え、病気で長く生きられなかったとしても。今のパパ、ママ、友達、住んでいる町…。そのどれもが大切で、何も失いたくない。みんなみんな、私にとって大切な…大好きな存在。誰かの人生に乗り移ってまで生きて、この世界に存在し続けたくない。だって、『誰かの人生』になった瞬間、私の大切なものとの関係は、全て途絶えてしまうのだから。そんな世界にただ一人生きたって、価値はない。だから、今を、毎日を大切にしたい」

 入院の時、眠れずに過ごす日々が続き、自らの死期が近いことを悟って綴った言葉。心の中に今もなお残る気持ち。価値観が色褪せることはなかった。それを一言一言、丁寧に口にした。語られる言葉を聞くたびに、好子は頷き、その目を拭っていた。何度も読んだ愛の言葉。気づいてあげられなかった気持ち。それほどにも深く、自分達を、人生を大切に思っていた愛の心を思い出していた。私はこの子に何をしてあげられたのだろうか。葬儀の後もずっと心に引っかかっていた疑念を、この言葉が救ってくれた。これほどまでに両親を、友達を、自分自身を愛してくれていたのだから。

「…私の気持ちは変わらないよ。誰かになってまで生きていたくはないけど、実際こうなっちゃってるし。私は私の幸せ、見つけるね。ママ達も私のことは忘れて幸せに生きて。短い間だったけど、幸せだったよ。ありがとう。それじゃ…」

「待って!」

 言い終えると再び背を向けて立ち去ろうとする葵の背中を好子は抱きしめる。

「待って、行かないで、愛…」

「…ママ?」

「信じられないけど、あなたは愛よ」

 啜り泣く好子の声が背後から聞こえる。抱きしめられた腕にはぎゅっと力がこもっている。

「こんなこと、あり得ないと思う。だけど、最近近所で何度か見かけて、見慣れない子だなってしか思わなかったけど、歩き方がなんとなく似てて。病院であなたに初めて会って、話して、やっぱり似てると思って。もしかしたら生まれ変わりなんじゃないかってずっと思ってた。記憶はなくても、面影を感じるあなたとお話ししたいってずっと思ってた」

 好子は腕を解き、葵を自身の方へと向き直らせる。葵の表情は暗く、伏し目がちだった。

「だけど、やっとわかったの。私が怖がってただけなんだって。本当の娘だったら…愛が帰ってきたらどうしようって。ううん、愛と思ってた子が全くの別人で、この気持ちが…また傷つくのが怖かった。私はあなたに何もしてあげられなかった。ただ辛い思いをさせて、こんな短い人生しか送らせてあげられなかった。それが申し訳なくて」

「ママ…」

 好子の頬をいく筋もの涙が伝う。

「だけど、愛と過ごせて、たとえ短くても幸せだったよ。私たちの元に生まれてきてくれて嬉しかった。愛だからだよ。ありがとう」

 あの日…愛がこの世に生を受けてからの日々が走馬灯のように巡っていた。お互いに全てが初めての連続だった。時に落ち込み、時に励まされて過ごした十七年間。例え長くは生きられなくても、言葉にできない愛と幸せを受け取っていた。

「あの言葉を覚えているあなたはやっぱり愛なのよ。あり得ないことだけど…。だから…おかえり、愛。あなたは私の娘よ」

「ママ…!」

 どちらともなく、お互いの体を抱きしめる。喜びとも悲しともつかない涙が二人を包む。

「私も怖かった。受け入れてもらえなかったら、私は本当に一人になっちゃう。誰も私のことを知らないで、ずっと一人で過ごすことになる。怖かったよ。寂しかったよ…」

「大丈夫、大丈夫だよ愛。これからは私がいるから。ずっと、ずっと一緒にいるから」

「ママ…」

「愛、おかえり。あの時も、今も辛い思いをさせてすまない」

「パパ…」

 そっと、一也も二人を抱きしめる。亡くなってからの十五年間の隙間を埋めるかのように、優しく、それでいて力強く。

「姿は違っても、心は間違いなく愛だよ。今までもこれからも、パパの娘だ」

「…うん」

 三人で抱き合って泣いた。愛は…葵としてはこれまでにないくらい、涙が枯れるほどに。一也も好子も愛の葬儀以来、涙を流すことはなかったが、今はあの日以上に泣いていた。

 いつしか外の雨は止み、三人の心と同様、晴れ渡っていた。

 どこまでも続く雲一つない青空。

 夏の熱気に躍る陽炎も、逃げ水も今はどこにもなかった。

 愛も一也も好子も。それぞれが持つ止まっていた時計が再び動き出した。

 それぞれの新しい未来に向けて。

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