第二十四錠 花火が紡ぐキセキ
季節は少し進んで夏休みを迎えた。採血の結果は鉄分が不足していることによる貧血で、肝機能やその他の項目は異常なし。ホルモン剤の長期摂取に伴う肝機能障害や体調への悪影響を懸念していたが杞憂に終わった。さすがにホルモン値までは測定しないため、そこがどうなっているかはわからない。一般の内科で「ホルモン値を測定したい」と言えば理由を問われ、その結果ジェンクリを紹介されることになるだろう。
愛の母、好子とは時折病院や薬局で顔を合わせていた。その度に高校生活のことや由香とのエピソード、好子の日常について短いながらも話していた。葵の女性化についてはそれほど話してはいない。周りに人がいる状況でそういったセンシティブな話をするのは避けた方がいいという配慮があるのだろう。
石井を迎えに駅へと向かう道中、好子とはお互いに当たり障りのない話をすることが多いなと思いつつ、昨日の出来事を思い出していた。いつもの通り、病院の待合室で好子と話していた時のことだった。
「なんだかアオイちゃんと話してると娘と話してるみたいだわ」
「そうですか?私は好子さんとお話しして楽しいですけど…その、辛くないですか?娘さんを思い出して」
「ううん、大丈夫よ。アオイちゃんに娘を重ねたら失礼だけど、仕草といい、話し方といい、なんか似ててね。懐かしくて嬉しい気持ちになるわ」
「じゃあ、娘さん…愛さんだと思ってくれていいですよ」
「ありがとう。でも、アオイちゃんはやっぱりアオイちゃんだからね」
「そう…ですよね」
心は本当の娘だけどこの体が違うから…と葵の表情は曇る。こうなることは考えてはいたけれど、必死に否定し続けてきたことだった。
「でもね、あの子にしてあげられなかったことや言えなかったこともあるから…心残りが少し晴れる気もするの」
「何か、話したいことでもあったんですか?」
「ええ。短かったけど、私たちは愛がいて幸せだったよ。ありがとう。辛い思いさせちゃってごめんね。ずっと愛してるよ、って。伝えたかったな…」
優しく語る好子の言葉に、葵の胸はぎゅっと痛くなる。「愛はここにいるよ、私は愛なんだよ」と伝えたかった。ただ、今はその時ではないとぐっと堪える。
「たぶん、娘さんにもその思い、伝わってると思いますし、短くても幸せだったと思いますよ」
「ありがとう、そうだといいわね」
「あの…」
「うん?」
もう一つ、愛には聞いておきたいことがあった。少し間を起き、呼吸を整える。
「もし、娘さんが生まれ変わったとしたら、会ってみたいと思いますか?前世の…愛さんの記憶を持っていたとしたら」
「えぇ?なんだか映画みたいな話ね」
「そうですよね、すみません」
「大丈夫よ。そうねぇ…娘が私たちのことを覚えていてくれて、会いにきてくれたら嬉しいわね」
「本当ですか?」
葵の表情がぱっと明るくなる。ずっと、不安だった。こうして再会できたとしても、生まれ変わりについて否定的だったり信用してもらえなかったらどうしようと、ずっと胸に引っかかっていた。
「たぶん、生まれ変わりだから顔も、それこそ国や性別も違うかもしれないとは思うけど…伝えられなかったこと、伝えたいな」
「また…一緒に暮らしたいとかは?」
「うーん、どうかしら。生まれ変わるっていうことは、誰か違う親がいて。お友達もいるだろうし、全く違う人生を歩んでいると思うのね。だから…私たちに会いにきてくれることは嬉しいけど、新しい幸せを見つけてほしいなって思うの。愛としての、前世の記憶に縛られないでね」
「そう、なんですね」
「アオイちゃんも大人になったら、ううん、親になったらわかるわよ。親はね、どんな時でも子供の幸せを願っているものだから」
先ほどの喜びから一転、予想外の答えに葵は再び表情を曇らせる。どこかで聞いたことのあるセリフ…という意識が脳裏を掠める。
「それでもね。愛の記憶はないかもしれないけど、アオイちゃんは娘の生まれ変わりなのかもしれないって思う時があるの。年が近いのもあるけど、こんなに楽しく話せるなんて本当の娘みたいだもの」
「…本当に、生まれ変わりかもしれませんよ?」
心のゆらめきを感じ取られないよう、少しおどけて答える。言えない。私は…遠藤葵は愛の生まれ変わりで記憶も持っていると。
言ってしまうこともできた。でも、この会話の流れから今は言っても信じてもらえない。何より場所が病院の待合室だから、またタイミング悪く呼ばれてしまうかもしれない。もっと落ち着ける場所で話さなければ。言ってしまえば、それで信じてもらえなければ、チャンスは二度とない。ただ娘に似たトランスジェンダーの男の子として、高校生活の終わりと共に関係が終わってしまいかねない。だからこそ、慎重になった。
「ふふ、そうかもね。あ、そうそう。アオイちゃんのこと、主人に話したら会ってみたいって言ってたの」
「本当ですか?」
「ええ。でも年頃の高校生に会いたいなんて言ったら変でしょ?だから何か機会があればねって言っといたの」
「私なんかでよければ全然会いますよ」
「そうね。たまに主人もここに来たり買い物に出かけることもあるから、街で見かけた時は声かけるわね」
「あの…嫌じゃなければお家まで行きますよ?土日は暇でお散歩よくしてるので」
「ええ?鳥山高校からうちまではかなり遠いわよ?歩きだったら1時間くらいかかるかも」
「そのくらい大丈夫です、二〜三時間は歩いてますし…遠い所で鳥山ポケットパークまで行ったことあります」
「あら本当?うち、そこの近くなのよ」
「そうなんですか?じゃあ歩きで行けますね」
「あそこまでよく歩いたわね、途中大したものないのに」
「ちょっと暇で…街並み見たくて歩いてたら辿り着きました」
「そうだったの。あの近くで畑と家と…角にお墓のある家があったらそこがうちよ。主人がいれば赤い軽自動車が止まってるからすぐわかると思うわ。近く通ったら声かけてね」
「その車、見たことあるかもしれません。今度お伺いしますね」
「主人にも話しておくわね。あ、でも土日は仕事に出てる時もあるからわりと家にいないかも…」
「旦那さん、今もお仕事してるんですか?」
「ええ、シルバー人材っていうのかしら。本人はシルバーじゃないって言い張ってるけどね。家にいるより、外に出てた方が気も紛れていいみたいよ。仕事は定年にもなっちゃったし」
「そうだったんですね」
「でもまあ、元気にしててくれるのが一番。主人にまで先立たれたら私一人になっちゃう」
「その時は私がいますから」
「ありがとう、その時が来ちゃったらお願いね」
このやり取りにより、公式に水原家への訪問が許可されたことになる。今回は石井との約束があるから行けないが、次の休みには行ってみようと心に誓う。父に会うのは何年振りか…と思いを馳せる。父も見た目は変わっているのだろうし、気も紛れる…ということは、今も愛のことが心に引っかかっているのだろうか、とあれこれ思案する。
「アオイ、どうしたの?ぼんやりして」
聞き覚えのある声にふと我に返ると、目の前には石井がいた。野球帽を被り、Tシャツにショーパンを合わせた相変わらず活発な服装。小さな肩にリュックを背負い、ガラガラ…もとい小さめのキャリーケースを引いていた。石井の髪型は出会った頃のようなショートカットに戻り、肌の白さは相変わらずだった。
「ごめん、ちょっと考え事してた。てか荷物多くない?」
「だって、今年最初の花火でしょ?それにいい所連れてってくれるって言うしさ、機材もそれなりにいるし」
「あー、写真部のコンテストに出す作品だよね」
「そう、写真は感性が勝負だからね。せっかくの花火だし、いい一枚を撮りたいなって」
石井は高校に入ってから写真部に入った。理由は詳しくは教えてくれないが、「アオイを撮ってて写真に目覚めた」そうだ。
「ちょっと山登るし夜は意外と寒いけど平気?その格好」
「大丈夫、そのために色々持ってきてるんだから。それに、今夜はホテル泊まるし」
バンバンとキャリーケースを叩いて見せる。泊まりならそれ相応の量になるなと葵は思う。
「本気なんだね」
「もちろん、てかアオイも許可取ってるんでしょ?」
「うん、許可されてるから今日は一緒に泊まれるよ」
「やった!アオイと長く過ごすの久しぶりだし嬉しいなぁ」
「いつも日帰りで慌ただしくてごめんね」
「ううん、大丈夫。寮生活なんてそんなもんだよね。門限とか規則とか厳しそう」
「まあ、ある程度は、ね。先にホテル行く?それずっと持ってるの辛いでしょ」
「そうなの、これは一旦預けて遊ぼう。私鳥山くるの初めてだからさ、色々案内してよ」
「もちろん、お安い御用で」
こうして、二人はホテルへ向けて歩き出す。今夜は久しぶりに楽しくなりそうだなと葵の胸も高鳴っていた。この時はまだ、今夜待ち受けている出来事を想像すらできていなかった。
日は山の陰に入り始め、間も無く日没を迎える。
葵と石井は夕食を済ませて舗装された坂道を登っている。カメラや機材を詰め込んだリュックを背負い、息を切らす石井の手を引きながら。
「思ってたより結構キツイわね、ここ」
「まあ、山だからね」
「さすが鳥山っていうだけあるわ」
「それくらいしか名物ないからさ」
道を知ってはいるものの、葵としてこの坂を登るのは二度目である。寮に入って間も無く、休みの日に一度この場所へ来た。山を登り切れば街のほぼ全体を見渡せる小さな緑地がある。夏の花火大会はここからだとよく見えるが、なにぶん坂道がきついので歩きで来る人は少ない。この場所はあの頃と少しも変わっていなかった。
愛が存命していた頃は毎年この坂を登って家族三人で花火を眺めていた。水原家から割と近いため、父は子供の頃からここで花火を見て過ごしたそうだ。
「でも自然豊かだし、秋は紅葉が綺麗なんだろうね」
「あー、確かに綺麗だわ」
「秋になったらまた来ようかな」
「大変だけど、是非おいで」
「うん、そうする。でも、たまにはアオイもこっち帰ってきてよ?」
「わかってるよ、また行くから」
そうこうするうちに山の頂上へ近づく。治療の甲斐あって貧血はだいぶ改善してきているが、ホルモンで女性化しつつある体には堪える。中学の頃より体力と筋力が落ちた気がする上、葵も息が上がっていた。
ふと、頂上に先客がいることに気づく。街灯すらないため薄暗くてよく見えないが、見覚えのある赤い軽のスポーツカー。その先に二つの人影が見える。
(まさか…)
葵はある期待を胸に歩みを進める。もしかしたら、もしかするかも、と。
「こんばんは。水原さん、ですか?アオイです」
葵の足音に気づき、振り返った二人に恐る恐る声をかける。胸の期待はやがて確信へと変わった。
「あら、アオイちゃん、こんばんは。どうしてここへ?」
「以前お散歩してたらここを見つけて。もしかしたら花火見えるかなって思って」
「好子、この子は?」
「アオイちゃん。ほら病院でよく会う愛に似た子よ」
「あー、君がアオイちゃんか。はじめまして。水原一也です」
「はじめまして。遠藤葵です。アオイって書いてマモルと読むんですけど、奥様や恋人からはアオイって呼ばれてます」
「なるほど、アオイちゃんね。確かに、女の子にしか見えないね」
「ありがとうございます」
会えた。念願の父にも。薄暗いためよくは見えないが、眼鏡をかけるようになったことと、少し頭が薄くなって白髪も増えたこと。顔も歳をとったように感じる。それでも、あの頃と変わらない喋り方。鳥山のイントネーションが効いた、父の声そのものだった。
「そちらにいるのは、恋人の由香さん?」
「はい、はじめまして。石井由香です。アオイからお話は伺ってます」
「まあまあ、可愛らしいお嬢さんだこと。お似合いね、二人とも」
表情はよく見えなくても、声だけで微笑んでいることが葵にはわかった。あの頃と全く変わらない話し方だった。
「この子が彼女というか恋人というか…」
「そうだけど、あなた」
「ああ、すまない、そうだったね」
好子は一也の脇腹を肘で小突く。優しいけど少々デリカシーが足りないのも変わらないようだ。
「いいんです、ちょっと理解し難いですよね」
「ごめんなさいね、デリカシーがない人で。気を悪くしちゃった?」
「大丈夫ですよ。仕方ないって思ってる部分もあるので」
父には、受け入れてもらいたかったという思いもあったが、全ての人がこの問題を…ジェンダーを受け入れてくれるとは限らないことは葵も石井も心得ていた。共に過ごす石井にもどのような視線が向けられるか。石井はそれをわかった上で付き合っていくと心に決めていた。例え辛辣な言葉をかけられようとも、大切な人と共に生きたいと。あの日…両親の前で誓った言葉に嘘はなかった。
「すまないな。二人を否定するつもりは全くないんだけど、周りにそういう人がいなくてね」
「マイナーな存在ですから、しょうがないですよ」
「しかし…雰囲気は確かに似てるかも、ね」
「でしょ?喋り方とか立ち姿とか。まるで愛が帰ってきたみたいじゃない?」
「うん、確かに。不思議だなあ」
「あなたも話してれば、愛の生まれ変わりなんじゃないかって思うわよ」
「そっかぁ、また今度ゆっくり話してみたいものだね」
「うちの近くまでお散歩に来てるらしいから、今度寄ってねって話してあるの」
「そうか、じゃあその時は同席しようかな」
「はい、ぜひ色々お話聞かせてください」
「こちらこそ。そういえば連絡先、まだ交換してなかったわね」
「あ、そう言えばそうでしたね」
「スマホ、ある?」
「はい、ありますよ」
葵はポケットからスマホを取り出す。好子も鞄からスマホを取り出し、画面をつける。そこには愛の写真が写っていた。
「それ…娘さん、ですか?」
「ええ、そうなの。愛と主人と三人で行った水族館で撮ったの。これが最後の旅行だったわね」
「そうだな。この頃は高校一年、ちょうど君達と同じだったな」
愛はもちろんこの写真のことを覚えている。治療が始まって間も無く、帰宅できた時にお願いして連れて行ってもらった時のことだ。治療により髪は抜け落ちていたが、ヘアドネーションにより作られたウィッグを身につけてのお出かけだった。体力も落ちたから存分に楽しめたとは言えないが、イルカショーを見たり、好きなクラゲを見たりと楽しかった。友達に会いたい。家族と過ごしたい。また水族館へ行きたい…その想いが愛を治療に向き合わせ、心の支えとなっていた。
トントントンと画面をタップし、好子はロックを解除させる。次に出てきたのは同じ水族館で撮った好子と一也の写真だった。見た目は今とそう変わりないから最近撮ったものであることが窺える。
「これは…?」
「毎年、愛の命日の頃に二人で水族館に行ってるの。あの子、ここが好きだから行けば愛に会えるんじゃないかなって思ったりしてね」
「そうだったんですね…あの、今年も行くんですか?」
「ええ、そのつもりよ」
「…私も、一緒に行ってもいいですか?」
「いいよって言いたいが、申し訳ない。うちの車は二人乗りなんだよ」
そう言って一也は赤い車を指差す。軽のスポーツカーだから定員は2名と切り詰められている。車高を落としたりエアロパーツをつけたりと、相変わらずだなと愛は思う。
「大丈夫です、私誕生日来たらバイクの免許取るので、ついていきます」
「バイクって原付かい?」
「いえ、中型取ります!中型なら高速もいけますし」
「本当かい?結構中型重いよ?」
「そうみたいですけど…がんばります」
「その次の年は私もご一緒してもいいですか?あ、お邪魔ですかね?」
「そんなことないわ。みんなで行った方が楽しいし、いいでしょ?」
「そうだなぁ、未成年はバイクの高速二人乗りダメだったと思うから…四人の時はレンタカーで行くとするかな」
「はい、楽しみにしてます」
「由香ちゃんも予定が合えば一緒にね」
「はい、よろしくお願いします」
と。空に一筋の光が登る。消えたと思ったその刹那、パッと夜空を花火が彩る。話し込むうちに打ち上げの時刻となったようだ。
「あら、始まったのね」
「やば、準備しなきゃ」
石井は慌ててリュックを下ろして準備を始める。ホテルで望遠レンズに付け替えてきたので三脚の組み立てに取り掛かる。
「綺麗ね」
「そうですね。毎年、ここで見てるんですか?」
「ええ。あの子もここで花火を見るのが好きだったから」
「私も好きです。すごく、綺麗だから」
「ほんとに、愛そっくりね」
「だな」
事前に好子から聞いていたとはいえ、会って間もないというのに父も葵と馴染んでいた。実際に会って、葵の空気に触れて感じるものがあったのだろう。母と比べると少し距離は離れているものの、親子三人が揃った形となる。三人とも並んで夜空を、花火を見上げていた。
カシャ、カシャと時折シャッター音が聞こえる。カメラの準備を終えた石井が花火に合わせてシャッターを切っていた。望遠と広角の二台を使い分けていた。
初夏の山を吹き抜ける風はひんやりとしていた。それでも、この風も、街並みも、花火も。隣に並んで立つ両親も変わらない。
葵は…愛は望んでいたものに触れたような気がしていた。まだ全てを打ち明けたわけではない。
それでも、葵の中に存在する愛を感じ取ってもらえている。その事だけで葵の思いは満たされていた。
この時がずっと続いてほしい。終わってほしくない。
花火よ、終わらないでと願いながら、ずっと夜空を見上げていた。




