第二十二錠 薬のせいで
五月。新たな環境での日々はあっという間に過ぎていった。特進クラスということもあって、やや個性的なメンバーが多く、勉強主体のカリキュラムによって交流という交流はあまりなかった。同期、仲間というよりは同じ大学を目指すライバルという表現が近い。葵として孤独な日々を過ごしてきた時間が長かったため、この環境はそれほど苦ではなかった。寮も個室で冷蔵庫や洗濯機、エアコンなど生活するのに必要なものは最低限揃っている。勉強に励むことはもちろん、ある程度の自活能力も求められる。愛の頃は家事を一通り手伝っていたため、掃除や洗濯も苦ではなく、土日は普段手の届かない家事をこなしていく。
家事が終われば寮を出て懐かしい街並みを歩いていた。鳥山高校から愛の実家までは歩きで三十〜四十分ほどかかる。運動を兼ねて予定のない休日…石井に会わない日は歩くようにしていた。街並みは記憶とそれほど大きくは変わっていなかった。子供の頃通った商店街、駅、スーパー、友達の家…。歩く度、帰ってきたんだという思いが愛の胸を熱くさせる。
石井とは毎日、メッセージを送り合い、時には電話もした。今日学校でこんなことがあった、共に進学した春美や栞と遊んだ、部活を始めた…等々、話題は尽きない。葵のいる特進クラスも部活動への参加は認められているが、勉強をするために進学して来ている人が多く、怪我のリスクや勉強時間と体力を削られる部活に入る者は少ない。現に葵も部活はせず、放課後は自主学習や近所の散歩をしていた。運が良ければ両親や愛の友達に会えるかもしれないと期待して。
ホルモン剤の方は順調に効果を発揮し、成長が止まった男の子の体から女性へと変貌しつつあった。胸はやや小ぶりなもののBカップくらいには育っていた。服用を前倒したおかげで投薬間隔や量の調整も行えるようになってはいたが、体調面の不調は続いていた。立ち上がる時に眩暈がしたり疲れが抜けにくい、頭痛といった症状だ。この症状に愛は思い当たる節があった。貧血である。愛が中学生の頃、初潮を迎えてしばらくした後に同様の症状に見舞われた。母親に連れられて受診してそう診断され、鉄の薬とビタミン剤を飲むことで症状は改善した。鉄分は体内に貯蓄できるのだそうだ。今の葵の体にも女性ホルモン摂取と生活スタイル…特に食事の面での変化により同様の症状が出ていると考えていた。
ゴールデンウィークも過ぎて病院も再開した頃、葵は通い慣れた内科を受診する。愛の頃から家族ぐるみでお世話になっていた内科だ。連休明けの土曜ということもあり、院内は混んでいた。葵は石井とメッセージのやりとりをしながら時間を潰す。番号と名前を呼ばれて診察室に入ると中年くらいの男性医師がいた。胸ポケットにつけた名札の苗字が同じことから、愛の頃お世話になったおじいちゃん先生の息子だと思った。どことなく、面影もある。一通り症状を伝えた所、念のため採血をすることとなった。血液中の鉄分量等々を測り、今後の治療方針を検討するためだ。一旦採血の準備をするため、待合室で待つよう促される。待合室に戻り、呼ばれるのを待つ間、色々なことを考えていた。幼い愛が母に連れられて予防接種に来たこと、その度に注射を嫌がっていたこと、晩年は治療のため採血や点滴など注射三昧だったこと。それに対して葵の体は丈夫で病気らしい病気もせず、記憶にある中では初めての採血だった。この点、丈夫な体に産んでくれた遠藤夫妻には感謝していた。これが男女の性差なのかな、と思いつつ。
そんな思考を巡らせていた葵の思考を、アナウンスが遮る。
「番号札四十六番、水原好子さーん、会計までお越しください」
水原…その聞き覚えのある苗字だけで全思考が停止し、全神経が目と耳に集中する。水原好子。愛の母親の名前だ。愛の記憶では、近隣に水原姓は存在せず、小中高でも出会ったことはない。母がいる。この病院の中に。必死に探そうとするが看護師が葵を見つけて話しかける。
「遠藤さん、採血の準備ができましたのでこちらへ。どうかしましたか?」
「あ、いえ…」
辺りを伺う葵の様子に、看護師は少々怪訝そうだ。できることなら母を見たい。会いたい。話したい。今すぐ採血などやめて会計の方へ行きたいが誘導の看護師がいてはそれもままならない。結局、母の姿を見つけることはできないまま採血へと進み、その日の診察を終えた。
母がいる。今も、この近くに。
自宅の前は散歩の時に何度か通っていた。水原の表札はあれど姿を見たことはなかったから、少し不安だった。本当に今も変わらずにそこにいてくれるのかと。その不安はこの日消し飛んだ。まだ見ぬ母の存在を感じながら、葵は処方箋を手にいつもの薬局へと向かう。胸の鼓動は高鳴ったまま。しばらくは落ち着きそうもなかった。
病院隣の薬局もあの頃と変わらない。おじいちゃん先生の診察後、母に連れられてよくこの薬局で薬をもらっていた。少し大きめの待合室に、薬の受け渡しと説明を受けるカウンター。その奥にある調剤室。ひとまず、受付に処方箋や保険証等を渡し、座れそうな場所を探す。病院も混んでいたので、最寄りのこの薬局も混んでいた。とりあえず相席になるが空いている長椅子を見つけて腰掛ける。少し歩いたというのに未だに葵の胸は落ち着かない。母も処方箋をもらっているのならこの薬局にいるかもしれない、との思いも頭をよぎる。ひとまず、石井に状況報告を兼ねてメッセージを書こうとした時、不意に声がかけられる。
「ねぇ、君。ちょっといいかな?」
「はい?」
聞き覚えのある声。顔を上げると、隣には母が座っていた。髪は当時より短くセミロング程度。記憶よりも年を重ねた顔に、白髪染めによって茶色く染まった髪。愛の記憶にある母とは異なるが、紛れもない母、水原好子だった。
「え、あ…」
「ごめんなさいね、急に声かけちゃって。あなた、最近うちの近所でよく見かけるけど、引っ越してきたの?」
「あ、はい。鳥山高校の寮に住んでます」
予想だにしない母との遭遇、そして会話に言葉が出ない。心の準備は何もできていなかった。
「まあ、鳥山の寮に住んでるんじゃ優秀なのね。うちの娘とは大違いだわ」
「娘さんがいるんですか?」
全てを知っているが、あえて何も知らないふりをして葵は問いかける。それが、酷なことだと分かっていても。とにかく、母との会話を続けたかった。それが、辛い記憶を呼び覚ますことになったとしても。
「ええ…もう、十六年も前に亡くなっちゃったけど」
「そうだったんですか…ごめんなさい」
「ううん。いいのよ。知らなかったことだし。あなた…女の子?」
「あ、えーと…体は男、です」
「あ、もしかして…」
葵の一言で察した好子は言葉を詰まらせる。葵の髪は伸び、小柄な体格と相まって女の子にしか見えない。
「その、心は女で体は男っていう、アレです」
「そうなの…大変ね。なんだかプライベートなこと聞いちゃってごめんなさい」
「大丈夫です。こんな見た目だし…。私、変ですか?」
「ううん、そんなことない。とっても可愛いわ」
「ありがとうございます」
「あなた、お名前は?私は水原好子よ。」
「遠藤葵って言います。アオイって書いてマモル」
「そうなんだ。アオイっていう字、マモルっても読むのね。アオイとしか読めないわ」
「あ、じゃあアオイでいいですよ。恋人にもそう呼ばれてますし、私もそっちの方が良くて」
「だめよ、ご両親が付けてくれた名前なんだから…って言いたいけど、アオイちゃんの方がしっくりくるわね。女の子みたいだし。アオイちゃんには恋人がいるのね」
「はい。女の子なんですけど…こんな私でも好きだって言ってくれて」
「まあ…素敵ね。心と体の性が違うと色々大変だと思うけど、わかってくれる人がいてよかったわ」
「はい。すごく支えになってくれてて、大切な存在なんです」
「いいわね、そういうの。うちの娘はそういう話、聞かなかったからなぁ…」
「そうなんですか?ちなみにおいくつで…?」
「十七歳。十七歳の高校二年生だったわ」
「十七歳…。なら、好きな人くらい、いたかもしれませんよ?」
愛はあの頃を思い出していた。
高校生になってすぐ、同じクラスで気になる男の子がいた。姿を見るだけで、話すだけでドキドキする人。もっと仲良くなりたい。そう思っていた矢先、病気が見つかった。入退院を繰り返し、夏休み明けに学校へ行った時には彼女ができたことを知った。苦しかった。この病気さえなければ。そう思わないことはなく、一人枕を濡らしていた。
「そうかもね。でも、そんな話、聞かなかったわね。言わなかっただけかもしれないけど」
母は気づいていなかったのだろう。気になる男の子がいるという話もしていなかったし、日記にも書いていなかったから。あの時、話せていればもう少し気は楽になっていたかもしれないと思い返す。
「それにしても、あの日のことは忘れられないわ。十七歳の十一月二十三日、十一時五十二分。あの子の最後の日よ」
「…それ、私の誕生日です!」
「あら、そうなの?偶然ね…」
「あの、もしかして県の中央病院じゃないですよね?私、そこで生まれたんです」
「え…嘘でしょ?病院まで一緒だなんて…」
母は少し驚いたようで口元を押さえる。
「こんなことって、あるのかしら。名前も、アオイって呼べば似てるし」
「そうなんですか?」
「娘はね、愛っていう名前だったの」
「愛とアオイ。確かに、響きは似てますね。なんか、怖いくらいの偶然ですね」
死神の雑な仕事のせいだとはつゆ知らず、神の采配か運命の悪戯か…。そんなことを思いつつ、さも、初めて聞いたかのように葵は返した。
「まぁ、生きてればこんなこと、一回くらいはあるかもしれないわね。ほら、自分と似た人が三人はいるっていうし」
「あー、言いますね、それ。会っちゃうとヤバいってやつ」
「そう。でもなんだか不思議ね…。たまにうちの近所で見かけてたし、話すのは今日が初めてなんだけど…初めて会った気がしないの。もしかしたら、娘の生まれ変わりなのかもしれないわね」
「そうかもしれないですね。愛さんって、どんな感じだったんですか?」
「うーん、明るくて優しくて友達が多い子だったかな。入院してる時も休みの日にはわざわざ電車に乗ってまで会いに来てくれてた子もいたから。あの子もお友達も、お互いを大切にしてたわね」
「そうなんですね」
「ええ。顔は違うけど、雰囲気はなんとなくあなたに似てるかもね」
例え男の体でも、心は水原愛だから。愛としての雰囲気が、女性化しつつある葵の体を通して滲み出ているのだろう。それが伝わっているのなら、聞いてみたいことがあった。『娘さんが別の人の体に転生しているとしたら、会ってみたいですか?』と。
「あの…」
「水原好子さん、水原さーん。お薬ができましたので三番カウンターまでどうぞー」
葵が続きを話そうとした時、調剤完了の呼び出しが入る。二人して三番カウンターへと顔を向ける。まだまだ話し足りないというのに、核心的な部分はこれからだというのに。
「あら、意外と早かったわね。それじゃぁアオイちゃん、私は行くわね」
「あ、はい…」
「なんだか久しぶりに娘と話してるみたいで楽しかったわ。また街で見かけたら声かけてね」
「はい、私も、お話しできて楽しかったです」
すっと立ち上がる母につられて、葵も立ち上がる。
「寮じゃ家族とも恋人とも離れて寂しいでしょうに。私じゃアオイちゃんのお母さんよりずっと年上よね」
「いえ、大丈夫です。私も、なんだか懐かしい感じがします」
「気が合うのかしらね、私たち」
「そうですね。またお話ししてください」
「ええ。それじゃ、また」
「はい、また」
母はそういうとカウンターへ向かって歩き出す。葵は薬の説明を受けてお会計を済ませる様子を眺めていた。そして帰り際、小さく手を振ってくれた母に手を振りかえす。あの頃…愛の頃、いつも母に振っていたのと同じ仕草で。
気づいてもらえるかはわからない。それでも、自分はここにいるよ、との思いを込めて振っていた。
次に会えるのはいつかはわからない。それでも、この日の出来事は愛にとっては生涯忘れられない日となった。母と再会できた。あれほど望んでいたことが意図せぬ形で実現した。もう一度会って話したい。この思いがあれば、どんなことでも乗り越えられる。愛は、そう感じていた。




