第二十一錠 それぞれの旅立ち
四月一日。ついに、この日を迎えた。
今日から葵はこの地を、家を離れて寮での生活を始める。荷物はすでに宅配便で送ってあるため、あとはこの体が寮に行くだけだった。
駅まで父に送ってもらい、そこからは新幹線と在来線で行く予定だ。結局、愛の意識が戻ってから親子らしいことはあまりできていなかったなと葵は思う。
「お父さんもお母さんも、アオイちゃんが話してくれるのを待ってるはずだよ」石井の父はそう話してくれたが、心に引っかかるものがあって秘めた思いを言葉にはできなかった。それでも、以前よりは話をするようには努めたので、表面的な関係だけは少し改善できたのかな、とも思っている。
十五年間過ごした部屋を一周し、最後を偲ぶ。一人で勉強していた頃の机。石井と勉強したテーブル。二人並んで座ったソファ。愛の存在を告白するきっかけとなったテレビ。そして、自身の運命に枕を濡らし、幾度となく石井と体を重ねたベッド。殺風景で居場所がないと感じていたこの家で唯一、石井の存在を感じられて好きな場所に変わったこの部屋に別れを告げる。帰ってくるのは、しばらく先になりそうだ。
時計を見れば、間も無く出発時間。階段を降り、リビングへと移動する。
「葵、出発前だけど少しいい?」
リビングに入ると母に呼び止められた。父と二人、テーブルについている。面倒そうだな、と内心思うものの態度には出さず両親と向かい合うようにテーブルに着く。そういえば、こうして三人でテーブルに着くこともしばらくないんだな、と思いながら。
「うん、何?」
「あのね、葵に渡しておきたいものがあって」
そう言って母は膝に抱えた鞄からポーチを取り出し、中身を取り出す。出てきたのはゆうちょのキャッシュカードと通帳、印鑑だった。
「ここには葵が産まれてからもらってる子供手当が全部入ってるの。これは、葵のお金だから好きに使って」
そう言うと、通帳他一式を葵の前に差し出す。
「受給は中学生までだし、本当は成人した時に渡そうってお父さんと話してたんだけど…今日から一人暮らしだし、何かとお金もいるだろうから…。アルバイト、禁止でしょ?これ、好きに使っていいからね」
「え、なにこれ、こんなの受け取れないよ!」
通帳をそっと手に取り、残高を見て思わず心の声が出てしまう。そこには二百万円近い額が積み立てられていた。明細を見れば、時折定期預金にも入れられ、利息もそこそこついている。突然のことと金額の多さに手が震える。
「いいのよ、これはあなたのためのお金なんだから。もちろん、使いたくなければ使わなくていいけど、そろそろ自分で管理してもいい頃だから」
「こんな大金、怖くて持ってられないって」
「寮の部屋には確か小さい金庫もあったはずだから…必要な時が来るまでそこにでも眠らせておけばいいさ。無くしたら大変だからな」
「でも…」
「いいの、私たちが葵にできる、せめてもの気持ちだから。カードと通帳の使い方はわかるわよね?」
「うん…ごめん、ありがとう」
(なんで、こんな私のために…)
葵はもちろん、愛もこんな大金を手にしたことはないし、子供手当がこんなにももらえるものだとは知らなかった。経済的にゆとりがある家庭ということは知っていても、まさか自分のために貯めていて渡してくれるとは思ってもいなかった。こんな、親を大切にしない子供なのにと、これまでの態度を後悔していた。
「いいのよ、気にしないで。さあ、そろそろ時間ね。お父さん…?」
「そうだな。なあ、葵。一つだけいいか?」
「うん、いいよ」
予想だにしない展開から少し葵は動揺しつつ答える。今まで考えてこなかった「親の気持ち」を必死に模索しながら。
「最後にな…父さんと組手をしてくれないか?」
「組手って、空手の?」
「ああ。この格好だし、形だけのもので構わないから」
「あー、うん。いいよ」
お金をもらったからそのお礼、というわけではない。考えてもわからない親の気持ちを探して言葉をかけるより、親が望むことをしてあげたいとの思いからだった。もう空手をやることもないのだから最後くらい、と。
「じゃあいつもの約束組手で。覚えてるか?」
「もちろん、散々やったからね」
「よし、じゃあ最初は父さんが取りになろう。そのあとは父さんが受けになる」
席を立ち、会話をしながら体をほぐす。道着でもジャージでもないが、動けない服装ではない。流石にブランクもあって蹴りは辛そうではあるが。
「いいよ。じゃあ」
リビングで距離を取って立ち、お互いに礼をする。シンと静まり返ったリビングで真っ直ぐに父を見据えつつ、こうして相対するのは何年振りだろうかと記憶を辿る。
「はっ!」
答えが出ない思考を振り切るよう、突きを繰り出す。それを決まった型通りに父は受け流す。丸六年はやってきた組手、意識しなくても体が自然と動く。いつも通りの型。あれほど嫌だった空手。それでも、今日は複雑な思いだった。自分が次に帰ってきた時には女の子により近づいているはずだ。だから男としての、遠藤葵としての組手はこれで最後なのだと思いながら。自身の思いと両親への申し訳なさと、親の愛情の一端を感じた葵は複雑な心境のまま組手を終える。時間にして、わずか一分ほどだが、葵にはとても長く感じられた。互いに距離を取って一礼すると、父は葵に近づき頭を撫でた。
「ありがとな、葵。頑張れよ」
「うん。ありがと」
直視はできないものの、嬉しそうな父の姿にどこか寂しそうな気配を感じた。時計の針は出発時間に差し掛かろうとしていた。
出発前。離れにあるガレージへと父について歩く。電動シャッターが開き、見慣れた車とバイクが視界に入る。シャッターが開き切るまで、葵はバイクを眺めていた。
「どうした、バイク、気になるのか?」
「うん、ちょっとね。これって、中型?大型?」
「これは中型、二百五十ccだ。十六歳になれば免許取れるぞ」
「そうなんだ」
ナンバーや車体を見ても、葵には詳しいことはわからなかった。シートが波々しており、二人座れそうなことだけは見てとれた。
「二人乗りするには免許取ってから一年経たないと無理だから、由香ちゃんとデートするなら車の方がいいかもな」
「な、違…」
「はは、免許取りたいなら父さんに言え。費用くらい、こっそり出してやるし、免許取ったら保険も変えて乗れるようにするから」
「え…いいの?大切なバイクじゃないの?」
「何言ってるんだ。子供が好きな子のためにバイク乗りたいなら応援するさ。さすがに新車買うと母さんに怒られるから、最初は父さんので我慢してくれよ?」
「…ありがとう」
シャッターはすでに開ききっていた。二人は車に乗り込み、駅に向かう。道中、バイクにまつわる話を色々としながら駅を目指す。
教官が厳しかったこと、倒れたバイクを起こすのは辛いがコツを掴めば比較的起こせるようになること、結婚する前は母と二人乗りで色々な場所にデートしに行ったなど、これまで聞いたことのない話がたくさん出てきた。駅に着くというのに、語りきれないほどだ。
(いつも仕事でいないのに…。普通に話せるじゃん)
息子としては最後となるこの日。なんでこの日に限ってこんなにも饒舌なのだろう。これがもっと早く、毎日続いていればこんな関係にはならなかったのに、と葵は後悔の念を感じずにはいられなかった。
何が悪かったのか。
愛の意識が戻ってしまったことなのか。
両親を本当の親と認識できなかったことなのか。
葵が「理解してもらえないから」と距離を取ったことなのか…思考を巡らせるものの、やはり答えは見つからなかった。
駅に着くと、石井が待っていた。
四月とはいえ吹き付ける風はまだ冷たい。さすがの石井もコートを纏い、手をポケットに突っ込んでいた。
「寒い中お見送り、ありがとう」
浮かない顔をする石井に葵は声をかける。
「本当に、行っちゃうの?」
「うん…ごめん。同じ高校生活、送れなくて」
「ううん、いいの。私の頭じゃついていけなかったわけだし」
葵が女性ホルモン薬を追加して間も無く、鳥山高校の合否通知が届いた。葵は合格、石井は不合格だった。葵が結果を確認したのとほぼ同じタイミングで石井から着信があり、お互いの結果を伝え合った。石井は自身の結果にひどく落胆していたが、葵の合格を言葉では喜んでくれてはいた。元気のないその声から、道が別れてしまったことを悲しむ気持ちを汲み取った葵は胸が痛かった。
「見て、これ。新しい制服、可愛いでしょ」
「ブレザーなんだね。うん、可愛いし似合ってるよ」
コートのボタンを外し、これから通う高校の制服を見せる。紺色のジャケットにシャツ、リボンが姿を覗かせている。スカートの丈はやはり短いと感じる。
「電話するし、たまには帰ってくるから。そしたら、いっぱい遊ぼう」
「うん、楽しみにしてる」
「ありがとう、由香」
「何よ、改まって」
「私一人だったら、ここまでやれてない。由香のことは好きだし、感謝してるよ」
「何、旅立ちの前にプロポーズ?まだ結婚できないけど」
「そうだよ、って言ってみたり」
「え、本気?」
「さあね。でも、そのくらい由香のことは好きだし、できればそばにいたい」
「うん…私も、好きだよ」
石井は頬を赤らめて視線を落とす。ショートだった髪はセミロングに伸びていた。言葉が出ない二人をよそに時は進み、出発の時が刻一刻と迫る。
「由香」
「ん?」
名を呼ばれて石井は顔を上げる。その目には泣かないようにしているものの、うっすらと涙が滲んでいる。
「おいで」
葵はそう言うと、そっと石井を抱き寄せる。葵は普段、人前ではこんなことをしない。予想外の行動に石井は目を丸くし、思考は停止する。
「こんな所でごめん。でも、しばらくはこうすることもできないと思うから。今のうちに石井のこと、抱きしめておきたくて」
「…バカ」
石井の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。嬉しさと寂しさと悲しさと…いくつもの感情がひしめく中、彼女もまた葵の体を抱きしめる。二人とも、もう周りは見えていなかった。
「そろそろ行かないと、乗り遅れるよ」
「うん…。もう少しだけ」
「ねえ…」
耳元で石井が囁く。
「最後に、して?」
腕の力を緩め、お互いに見つめ合う。葵はそっと、口づけを交わす。
「また、ね」
「うん、また」
手をふりあい、葵は振り返ることなく改札口を目指す。振り返れば、石井の顔を見てしまえば意志が揺らいでしまいそうだった。できることなら、これからも二人で過ごしたい。どうして、こうなってしまったのか。これ以外の道もあったのではないかと、心に小さなわだかまりを残していた。
石井もまた、これが男のアオイを見る最後の機会になると思っていた。次に会う時は顔も体も変わって女の子らしくなっているはず。胸の奥に寂しさと変わらぬ愛を抱えたまま、アオイの背中を見送る。アオイとの、最後の口付けの余韻に浸りながら。




