第十七錠 告白。
7月23日、清川花火大会当日。市最大の花火大会は晴天にも恵まれ、花火師も屋台の店主たちも朝から準備に追われていた。来場者数はおよそ四万人。夜空を飾る花火を多くの人が早くも待ち侘びていた。レンズを通して光の奇蹟を切り取る者、大切な人との思い出を作る者、永遠の愛を誓う者…様々な思いをのせた花火が今宵打ち上がる。
その日の夕方、葵と石井は葵の母に浴衣の着付けをしてもらっていた。まずは葵、続けて石井。葵は一人待つ間、スマホのインカメラで自身の姿を眺めていた。
少し髪も伸び、前髪が眉を覆い隠すほどになった。左のこめかみに添えられたパステルオレンジの髪留め。差し色となったそれは、カメラ越しでも目を引く。前髪で隠れた眉、髪留め、女物の浴衣。幼さの残る葵は、ちょっと髪の短い女の子で通用する容姿だった。
(ただ伸ばしただけの前髪と服、小物でだいぶ印象変わるんだな…)
愛の頃は生まれながらの女の子だったため、「男が女に見えるか」という見方をしたことはなかった。
手櫛で前髪を整えては眺める。かつて、十七歳の少女だった頃の愛もそうしていたように。
「おまたせー!どう、似合う?」
可愛い。戻ってきた石井の第一印象はその一言に尽きる。
葵同様に石井の整った艶やかな髪もまた伸び、毛先が肩にかかるくらいになっていた。その髪を後ろでまとめ上げており、普段は隠れている白い首筋に目を奪われてしまう。そしてその身に纏われた白地の浴衣には、大輪の朝顔が描かれていた。
「可愛いし、綺麗だよ」
「そーお?ありがと。お母さん、着付け上手だね。ピシッてしてるし」
石井はくるりと一周して見せる。線の細さが、体のラインが浴衣越しでもわかる。その姿に、葵の胸はドクンと大きく脈動する。
「朝顔、お揃いだし」
「そうなの、せっかくなら朝顔で揃えた方が可愛いかなって思ってこっちにしたんだ」
「二人ともいい感じだね。そうだ、せっかくだし写真撮ろう。ほら、葵も隣に立って」
「はーい!ほら、早くおいでよ」
「はいはい」
いつも以上に上機嫌の石井の隣に立つ葵の心中は複雑だった。浴衣を着られて、女の子っぽく見えて嬉しい反面、この状況を母はどのように見ているのか。ただ単に自分の浴衣を着せたいだけなのか。それとも、心の内に秘めた愛の…女の子の心に気づいているのか。そして、気づいているなら、なぜ何も言わないのか…考えれば考えるほどわからなくなっていった。
「葵、表情固いよ。ほら笑って」
そう言いつつ、シャッターを切り続ける母。
「また何か考えてるのね。そういうやつは…!」
「あ、由香ちゃんナイス!」
いつぞやと同じくすぐり攻撃を喰らってしまう。帯があるため脇腹は防げるものの、無防備な首や背中を狙われた。
「ちょっ、やめ」
くすぐりの最中も、思わず笑みがこぼれる葵の様子を母は逃すことなく写真に収めていく。
「うん。いい画が撮れた。どう?」
「あはは、いいですね、これ」
「でしょー?由香ちゃん、後でこれ送るね」
「はい、お願いします!」
女同士意気投合し、葵は置いてきぼりをくらう。ここしばらく何度か体験している光景だ。
(私も女だったら、自然に笑ったりああやって楽しめるのかな…)
これから花火大会だというのに、ただ写真を撮るだけなのに、それらが葵の心に小さな影を落としていた。
「ねえ、由香ちゃん、私も入りたいんだけどいい?、」
「どうぞどうぞ、せっかくなんで親子水入らずのツーショット、撮りますよ」
「悪いわねえ、ほら葵おいで」
「はいはい」
次は母親と。この際、一人でも三人でも、飽きるまで付き合うしかないと覚悟を決めた。
午後五時半。花火打ち上げまであと一時間半。葵たちは会場近くまで母親に車で送ってもらったこともあり、予定より早く会場入りした。すでに交通規制がしかれており、関係者以外は会場に乗り付けられなくなっている。会場付近の道路は人も車もひどく混雑している。帰りも連絡もらえれば迎えに来る、とは言っていたが、この渋滞を見れば迎えは到底無理だろうと踏んでいた。そのため、足元だけは履き慣れた靴にしていた。
日も傾き始め、屋台の電灯がポツポツと灯り出す。大人も子供も関係なく、訪れた人々は生き生きとして今宵の祭典を楽しんでいた。ただ一人、葵を除いては。
「さっきから表情固いけど、どうしたの?楽しくないの?」
「いや、なんていうかその、女の子のかっこして外出るの初めてだからさ」
「緊張してるの?」
「うん、ちょっと。変じゃないかなとか、どう見られてるんだろうって」
「大丈夫だよ。アオイ、どっからどう見ても女の子だし。ほら」
そう言って、先程の写真を見せられる。そこにいるのは女の子の姿をした自分。確かに女の子に見えなくもないが、見慣れた自身の顔に、石井とは異なる体つきに、心から女の子とは思えなかった。
「やっぱりだめ?」
「なんか、コスプレとか女装してるみたい」
「女装〜?女の子が女の子の服着てるんだもん、女装じゃないよ」
石井の言葉に、ドクン、と葵の胸は大きく脈打つ。この子は、全てわかっているのだ。女の子と認めた上で男の体である葵とともに過ごしている。
「あんまり浮かない顔してると、またくすぐっちゃうよ?」
「それは他所さんの迷惑になるからダメ」
「う、確かに…。結構すごい人だし」
打ち上げまで少し時間があるということもあり、屋台の方では人がすれ違うのもやっと、流れに身を任せて歩くしかないほど人が多い。人の波に飲み込まれたら最後、再会は難しいだろう。
(こんな所まで来て、何やってるんだか。母さんの言う通り、素直じゃない、のかな)
花火大会より以前。石井は友達からの誘いを蹴って葵を選んだ。共に着たいと話して決めたお揃いの朝顔の浴衣。そうして、当日も共に過ごすことを楽しみにしている。体が男だからと、気にしているのは自分自身じゃないかと葵は自嘲し、石井に声をかける。
「手、出して」
「?」
「いいから」
「ちょっ…!」
「こうすれば、はぐれないから」
差し出された石井の手を取り、優しく握る。一瞬、驚いた様子だった石井も目を細め、そっと握り返す。
「さっきは悪かったよ。せっかくの花火大会だし、楽しもう」
「…うん」
手を取り合い、少し先を行く葵。その後ろで手を引かれる様に少し俯き加減で歩く由香。時折振り返り、葵は歩調を合わせて隣に並ぶ。
「…人、多いからさ。せっかく来たのに、はぐれても嫌だし」
「そう、だね。」
「石井のこと、手放したくない」
「…何、よく聞こえない」
「なんでもない。あ、チョコバナナ!好きなんだよね〜。由香も食べる?」
「あ、うん、食べる」
縁日の定番、チョコバナナ。一本丸々割り箸に刺し、チョコのコーティングが施された上にカラースプレーやチョコ菓子などがトッピングされている。葵は二つ買い、一つを石井に手渡す。
「ありがと。いただきまーす」
はむっと石井は美味しそうに頬張る。そのペースは意外と早い。ふと、葵が見つめる視線に気づく。
「何、じっと見て」
「いや、結構勢いよく食べるなって」
「だってお腹空いちゃって。お昼から何にも食べてなかったし」
「確かに、お腹空くね。他にも何か食べよう」
バナナを咥えた石井はこくんと頷きつつ葵を見つめ、二人の視線が重なる。
「どうした?」
「えっちなこと、想像したでしょ」
「してないってば!」
「本当?」
「本当だって。ほら、次行こう」
髪がアップに纏められたことにより、普段は見えない首筋が顔を覗かせる。その白さと細さに目を奪われ、葵は異様な胸の高鳴りを覚えていた。そして石井はいつもこの手の話を振るなと葵は感じつつ、いつものように軽く流す。歩きながらお互いが食べたいものを見つけてはお腹を満たしていく。唐揚げ、フライドポテト、かき氷…。二人とも、一夜限りの夏の祭典を楽しんでいた。
午後六時半。花火打ち上げまであと三十分となった。花火を見るための場所取りも過熱していた。特設会場は既に満員、河原の土手にも多くの人が腰掛けていた。屋台の方は相変わらず人の波が途切れる事はない。葵と石井の手は繋がれたままだ。
「ねー、アオイ、どの辺で花火見るの?」
「思ってたより人が多いからなぁ」
葵は少し迷っていた。他の人々と同じく、河原で見るか昔教えてもらった特等席へ案内するか。
河原で見れば視界に入りきらない花火の音と光、衝撃を肌で感じられる。これはこれで風情もあって楽しくはある反面、人も多いし二人きりでロマンチックに、とはいかない。
特等席は少し離れているものの人気はなく、静かに、それでいてまた違った美しさも堪能できる。ただ、今いる場所から少し歩く必要があった。この人混みならちょうど打ち上げ開始頃には到着するだろう。さて、どうしたものかと思案する内、見覚えのある顔に気づいた石井が声を上げる。
「あれ、春美?」
「あ、由香、まさか本当に会うとはね。隣にいるのは…?」
春美は目を細めて葵を覗き込む。母親の浴衣により、パッと見は女の子に見える。こんな子クラスにいたかな…という表情を浮かべている。
「げっ、遠藤?何その格好…ってか可愛いし」
「悪かったな。母さんと石井にはめられたんだよ」
「なにそれ、ひどーい。似合ってるんだし良いじゃん。あとでママさんに言ってやろー」
「いいね、二人とも。お似合いだよ」
「そりゃどうも。春美、彼氏は?紹介してよ」
葵は自身に向けられる視線と話題を春美に振り返る。
「彼氏?いないよ」
「え、でも今日の誘いパスしたよね?」
「うん、恋人と行くから」
「?」
葵と石井が顔を見合わせる。
「この子だよ、ほら」
そういうと春美は隣にいる女の子の背中を叩く。ちょっと上目遣いでバツが悪そうな表情を浮かべた女の子…。どこかで見覚えがある。
「まさか、栞?」
「ピンポンピンポン、大せーかいー。栞、可愛いでしょ?」
意外すぎる組み合わせに、葵も石井も固まってしまった。栞はいわゆる地味な子で、休み時間は一人で本を読んでいるような子だった。黒髪ロングに黒縁メガネ。スカートの丈は膝下…と、オシャレには無縁な感じだった。葵は一年の時から同じクラスだから知ってはいたが、話した記憶はない。なんとなく、大人しくて地味な子だなという印象を抱いていた。
それが目元はサークルレンズのコンタクトに、重かった黒髪はまとめてスッキリさせ、学校での地味な印象はまるでなかった。
「栞ちゃん、すごく綺麗だし可愛いよ」
「ありがとう、由香ちゃん」
小声が喧騒でかき消されそうになる。性格の方は相変わらずだ。
「友達と行くって言えば良いじゃん」
「んー、遠藤クン、甘いなぁ。私たち、恋人だからさ」
「え…それ本当なの?」
「そーだよねー、栞」
こくん、と伏し目がちの栞は頷き静かに語り出す。
「私、こういう性格だからあんまり友達いなくて…。でも、春美ちゃんはこんな私にも明るく接してくれて笑わせてくれるし、一緒にいて楽しくて。女の子が女の子を好きになるのは変かなって思ってたんだけど…」
栞の顔が次第に紅潮していく。声は小さいものの、力強さを秘めていた。
「気持ちを抑えられなくて、春美ちゃんに告白したの。好きですって。女の子だけど、大切な存在になりたいって」
「それでOKして付き合ってるわけ。最初は驚いたけどさ、栞ほんとにいい子なんだよね」
「そうだったんだー。想いが通じてよかったね、栞ちゃん!」
「ありがとう、由香ちゃん」
「一つ聞きたいんだけどさ、抵抗感とか…ないの?」
葵は恐る恐る聞いてみる。認知は広まりつつあるが、ネガティブな視線を向けられがちなこの関係。特殊事例とは言え、自分もそちら側に分類されるわけだから興味がある。
「ないねー。たまたま好きになったのが女の人だった、ってだけだと思うからさ。好きになったら男も女も関係ないんじゃないの?」
「うんうん。二人だけの世界だもんね」
「…そういうものかね?」
「そういうものなの!二人はお互い愛し合ってるんだから。周りがとやかく言う必要はないの」
「ありがとね、由香。遠藤、そういうことだからさ、あんたも勉強ばっかりやってないで、もうちょっと視野を広く持った方がいいよ。こう」
春美は手をゴーグルの様にして視界が狭いような仕草をして見せる。
「はいはい、わかりましたよ」
「わかればよろしい。んじゃ、私たちは花火の場所取り行くからまたね」
「うん。またね」
「あ、栞と私のこと、みんなには言わないでね。私は構わないんだけどさ、栞に何かあっても嫌だから」
「はいはい、りょーかい」
「遠藤もありがとね。あんたが女物の浴衣着て由香と花火大会来てたなんて、絶ーっ対言わないから。絶対、ね?」
「春美ちゃん、それじゃ言うって言ってるようなもんだよ…」
「大丈夫、栞。この二人が私たちのことを言いふらしても、あなたは私が守るから」
「春美ちゃん…」
「栞…」
「はいはい、わかりましたよ。コントはいいから、早く行きなって。言わないでいてくれることに期待してるよ」
「はは。安心しな、言わないでおくよ。言ったら最後、遠藤、あんた男子たちにボコられるよ。それじゃ、また。ほんとにお似合いだよ、お二人さん」
石井と春美は手を振り合う。栞も小さく手を降り、人混みの中に消えていった。
「意外だな」
「ねー。でも、カッコよかった」
「…あそこまで言い切れるとはね」
「うん、素敵」
「ってか、なんで俺がボコられなきゃいけないの?」
「んー、私、可愛いしモテるから」
「え、そうなの?」
「うん、この前告られた」
「マジか!知らなかったな…」
「言ってなかったから。相手、気になる?」
「いや、別に」
「えー、なんでよ、つまんないのー」
予想に反する葵の態度に、面白くないと膨れて石井は詰め寄る。
「断ったから、今日俺と来てるんでしょ」
「そう、だけど…」
「なら、それで十分だよ」
「…うん」
どこか納得しない様子の石井を尻目に葵は続ける。
「俺たちも行こう。花火、始まっちゃう」
「うん。案内、してくれるんでしょ?」
解いた手を再び握り合う。はぐれないようにと繋いだ手。この人混みに、少しだけ感謝した。このまま、こうして石井に触れていたい。人混みよ、途切れないでくれと願いつつ、葵はあの言葉を思い出していた。
「たまたま好きになったのが女の人だった、ってだけだと思うからさ。好きになったら男も女も関係ないんじゃないの?」
春美の言葉だった。
真理をついている、そう感じていた。
体は男でも、心は女。
自分は男なのか。女なのか。
恋愛対象は、体の関係は、婚姻届は、戸籍は…どれもこれも「性別」が縛り付けてくる。深く、重く。
それを春美の一言が、自分自身を縛り付けていた鎖をぶち壊してくれた、そんな気がした。
(自分に素直になれって、母さんも言ってたしな)
母親と春美の言葉。どちらも深く、重い。
この想いは伝えても良いものなのだろうか。
それでも。伝えなければ前へは進めないと、心は叫んでいる。
「ねえ、由香」
「何?」
「花火、見たい場所があるんだ」
「え?ここじゃないの?」
「うん。少し歩くんだけどすごくいい場所。そこ、行ってもいい?」
「うん、いいよ。アオイに任せる」
この会話の後、ほぼ無言のまま歩き続けて辿り着いたのは、高台にある神社だった。街灯ひとつない河川敷の土手を登り、さらに進んだ先にあるこの神社は花火を見る場所としては穴場だった。橋も川も、屋台も遠くに見える街並みも。全て大空の下凝縮されていた。
この場所は愛が生きている頃、友達が彼氏に連れてきてもらった場所だと、最後の夏に聞いた。葵になってからは居住地が近いこともあり、思い出してからは何度か訪れてはいた。
ここなら、二人きりになれる。
話すなら、今しかない。
「結構会場遠くに見えるけど、意外と近いんだね。ここからなら全部見えるし。アオイ、よくこんな場所知ってたね。もうそろそろ時間だけど、どこから上がるんだろ?」
石井が言い終えた時、一筋の光が空へと高く舞い上がる。一瞬消えたかと思った直後、大輪の花が夜空に咲き誇る。屋台の対岸から、次々と光の筋が空へと登り、漆黒の空を彩っていく。
「うわー、すごーい!きれー」
「由香。聞いてほしいことがあるんだ」
一人はしゃぐ石井に、葵は真っ直ぐに向き合って声をかける。花火に照らされた葵の表情が真剣なものであることは明らかで、石井もその空気を読み取り葵をまっすぐに見つめる。
「なーに?改まっちゃって」
声のトーン、しゃべり方はいつもと同じ。先ほどの春美達との会話の後、無言のまま歩き続けて辿り着いた二人きりになれる場所。何の話かは状況から察しがつく。それでも、自分も真面目に対応をしては葵の緊張を高めてしまいかねないとの思いから、努めて平静を装う。
「由香は薄々…ていうか、わかってるとは思うんだけど」
葵の鼓動が早まる。既知の事実を打ち明けるだけだというのに。暑さのせいではなく、緊張から汗が流れる。軽く息を吐き、呼吸を整えて想いを語り出した。
「私ね、心も気持ちも女の子なの。由香にはバレバレだと思うけど…」
「…うん」
葵がずっと内に秘めてきた想いを石井は静かに、ただ真っ直ぐに聞いている。
「私ね、物心ついた時には体が男で男の子の服を着て、男として育てられてきたの。仕方ないよね。男の子として生まれたんだから。だけど、生まれながら心の中はずっと女の子だったの」
そして、十七歳の高校二年生、愛の生まれ変わりなの、と心の中で叫ぶ。この話は、また別の機会にしようと思った。話が複雑になるし、今はそれよりも伝えたいことがあった。
「うちはさ、何かと厳しいから『体は男だけど心は女なの』って言った所で受け入れてもらえないだろうしさ。実際、プールの時ラッシュガード着られなかったし。死ぬほど体を見られるのが嫌だった」
「…うん」
「本当は可愛い服着たいし、髪も伸ばして女の子として生きたいけど、ずっと隠してきた。本当は女の子なんだって誰にも言えなかった」
「…うん」
「誰も本当の私を見てくれない。みんな、うちの親のことや勉強ができるから、態度が真面目だから、優等生だって。私は本当はそんなんじゃない。男の、遠藤葵じゃない」
これまで蓋をしてきた思いが堰を切ったように溢れ出す。葵の目には涙が滲んでいた。
「私はみんなとは違うから、一緒に生きられないから、ずっとひとりぼっちだった。最初はそれでも良かった。でも、寂しかった…。この十年、ずっと…ずっと一人で自分の気持ちを出せたことなんてなかった」
初めは、それでも良かった。小学校の低学年なんて、十七歳と六歳では世界が違いすぎる。それでも愛が、葵が歳を重ねれば周りも同じように歳を重ねていく。中学にもなれば、ある程度落ち着きは出てくるから例え上部だけでも交流はできるはずだったが、本心を出せずに人を避ける「遠藤葵」が構築されてしまった以上、それもままならなかった。
そして何より、愛の頃の思い出が枷となっていた。両親に愛され、友達にも恵まれて短いながらも幸せだったあの頃。それに対比される遠藤葵の人生。戻らない日々を思っては現実に胸を痛め涙を流していた。
「変だよね。自分の気持ちを出せないなんて言うくせに、自分から周りと距離をとってさ。わからなくなっちゃったんだよ。一人でいるのが長すぎて。みんなと何を話したらいいのか、そもそも私は誰なのか。男なのか、女なのか、それすらわからない。私はみんなとは違う。みんなと一緒には笑えないし、生きられないんだよ。だから…」
「もういいよ、アオイ。もう、頑張らなくていいんだよ」
そっと、石井が葵を抱き締める。片手は腰を、もう一方の手はそっと頭を抱き寄せる。
「何、して…」
「つらかったよね。ずっと、一人で。誰にも、本当のこと言えなくて」
涙に濡れた葵の頬に石井はそっと自身の頬を寄せる。冷たくも温かさが伝わってくる。
「私にも、わかるよ。自分を出せなくなって、自分が誰だかわからなくなったことあるから…」
「え…」
石井の意外な一言に、葵は自分の中でぐちゃぐちゃになっていた感情が一瞬で吹き消されたようだった。
「私ね、十歳の時にお姉ちゃんが死んじゃったの。すっごく悲しくてずっと泣いてた。パパもママも泣いてて、家の中も、みんなすごく暗かったの。だけどね、その時思ったの。泣いてもお姉ちゃんは帰ってこない。私がお姉ちゃんみたいになって、パパとママを元気にしてあげるんだって。また、みんなで笑って暮らしたいって思ったの。だから、お姉ちゃんだったらどうするかなって、一生懸命考えてやったの、色んなこと。でも、うまくは行かなくて。私は何がしたいんだろう、どうして、お姉ちゃんみたいになれないんだろうって思って、苦しくなっちゃったの」
優しく抱かれた葵は石井の言葉に聞き入り、心打たれていた。ああ、この子も同じなんだ。誰かのために自分じゃない「誰か」になろうとして、結局「誰か」になれずに苦しんでいる。自分と同じじゃないか、と。
親から、周りから「男の子」でいることを強要されてきた葵。内に秘めた愛の存在をひた隠しにして生きてきた十五年間。
亡くなった姉の影を追い、家族のために自分を偽り、あの頃の幸せを再び手にすることを夢見て翼をもがれた由香。
環境は違えども、「誰かのために」自分を犠牲にしてきた事は同じだった。
「初めて会った時はそうでもなかったけど、会って話す内に、アオイも私と同じなんじゃないかなって感じてさ。なんか、みんなと空気違うからわかっちゃうんだよね。何かを抱えてるな、って」
「そう…なんだ…」
「うん。最初はなんか壁みたいなのを感じたのと、女の子のことに興味あるだけかなって思ってたの。でも、そのうちもしかしたら中身は女の子だけど誰にも打ち明けられてないんじゃないかなって、感じるようになって。だから、壁作ってるのかなって。それで色々カマかけたりしてたんだけどさ」
「なにそれ、ひど」
泣きながら、葵は石井の言葉に笑みをこぼす。
「うちに来て女の子の服着て泣いてた時はびっくりしちゃったけど、やっぱり、心は女の子なんだなって思ったよ。それでさ、女の子が男の子として生きるのってどうなんだろうって思って…それで制服交換したの」
「そう、だったの…?」
「うん。私はちょっとしか着てないけど、女の子があれを毎日着てる男の子でいるのって、なんか嫌だなって思った。だから、葵はすごいなって思っちゃった」
「なんで…?」
「だって、物心ついた時から男の子として振る舞ってきたんでしょ。ずっと、自分を偽って。私だったら、耐えられない」
「そんなこと、ないよ。由香は強いと思う」
「何が?」
石井は葵が落ち着きを取り戻してきたことを感じ、そっと腕を解く。花火に照らされる葵の涙は少し、乾いていた。
「だって、由香は今も演じてるんじゃないの?学校でも、家でも。子離れできないなんて言ってるけど、本当はすごく心配してるんでしょ?」
「まあ…ね。最近はパパもママも環境が変わったからある程度落ち着いてきたかな。むしろ、忙しくて前程沈んでる場合じゃないのかもね」
「無理、しないでよ?」
「ありがと。でも大丈夫。アオイが隣にいてくれるから、私は私でいられる」
「私…?」
「そう。居心地がいいんだ。アオイといるとさ、なんか自分が出せると言うか、自分らしくいられると言うか。似た者同士で親近感湧くのかな」
「なに、由香も体は女だけど心は男、みたいな」
「そっちじゃないし。わざと言ってるでしょ」
「あ、バレた?」
「そうじゃなくて。お互い、自分を出せなくてつらい思いをしてきたからさ。なんとなく落ち着くの。同じ仲間だって思えて」
「…うん。私も由香といると楽しいし、落ち着く」
「…ねえ」
「ん…?」
「私、好きだよ。アオイのこと」
返す言葉が出ない。不意打ちの告白にアオイは思考も体も固まる。
「前に、男でもない、女でもない。アオイとして見るって言った事は嘘じゃない。ただ…そばにいると落ち着くし楽しいし。会っていなくてもアオイは何してるんだろうとか、考えちゃって。返事来てないのにメッセージ送っちゃったりとか…なんか、アオイのことばっかり考えちゃってて…好き、なの」
「由香…」
いつかの帰り道に、ふざけて言った「好き」とは異なる空気感。葵は、石井の本気さを感じていた。
「こんなこと言われたって、迷惑だよね。アオイはきっと、それどころじゃないだろうしさ…」
言いかけた言葉を遮るかのように、葵は石井を抱きしめた。そっと腰と背中に腕を回し、優しく抱き寄せる。
「私も、好きだよ。由香のこと、手放したくない」
「…うん。ありがと」
石井はそっと目を閉じる。ずっと、求めていた言葉。
好きだよ。
愛してるよ。
姉が亡くなった時から、一度も耳にしていない、最愛の人の言葉。それを今、一番言って欲しい人の口から聞けた。石井の頬に一筋の涙が伝う。
「私も、由香といると本当の自分が出せるから。たぶん、他の人ではダメで、由香だからなの」
「…うん」
そっと、由香も葵の体を抱き締める。お互いがお互いの温もりを感じる。これまで、追い求めてきたけれど、誰にもしてもらえなかったことを。
「由香…こんな中途半端な私だけど、付き合ってほしい。話せてない事、まだまだあるから、ダメだと思うその時まででいいから。そばにいて」
「うん。私も、アオイのそばにいたい」
ぎゅっと、お互いが強く、それでいて優しく抱き締める。
二人の顔を花火のグランドフィナーレが美しく照らし出している。
「すごい音、だね」
そっと、石井は力を緩めて空を見上げる。
「ああ、花火大会、もうフィナーレなんだね」
「ほとんど、見られなかったなぁ」
「ごめん、せっかく楽しみにしてたのに」
「ううん、いいの。また来年も一緒に見よう」
「来年だけじゃなくて、その先もずっと一緒に、ね」
「うん」
石井は葵の方へと向き直り、そっと目を閉じる。葵はそれだけで察していた。自分に何が求められているかを。
普段は男として生き、自らの心を偽ってきた。
そうする事で、自分の本当の気持ちを隠していた。
この気持ちに気づかないふりをしていた。
言ってしまえば、認めてしまえばこの楽しく幸せな日々を壊してしまいかねない。幸せを知ってしまったから、失ってしまう事の恐怖には耐えられなかった。
それでも、もはや迷う事も考える必要もなかった。好きだと伝えた時点で、思いが通じた時点で心は決まっていた。
「ん…」
葵は石井の頭を優しく包むとそっと引き寄せ自らの唇を重ねた。
柔らかさと温かさが伝わってくる。
満たされなかった思いを、お互いに満たし合うかのように。
男も女も関係なかった。
好きになった人が、女の子だった。
好きになった人が、心は女で体が男だった。
ただ、それだけだった。
全ての演目を終え、辺りが闇に包まれて静けさを取り戻したことにさえ気づかず、二人は唇を重ね続けた。




