第十六錠 母の浴衣
制服を交換したその日から、葵と石井は勉強に明け暮れた。葵の家だったり、石井の家だったりと、場所は様々だった。
葵の教え方が良いのか、石井の飲み込みが早いのかはわからないが、当初苦手としていた問題は克服できた。そして迎えた試験は、石井にとって初の五教科で四百点越えとなった。平均点を超え、葵が集中して教えた数学では九十点台をマークするなど本人が一番驚き、葵と喜びを分かち合った。今回の結果を受けて石井の両親も大いに喜んでプチ感謝祭を催すなど、ちょっとしたお祭り騒ぎとなった。
テストは終えた後も二人は互いの家を行き来し、共に時間を過ごした。石井家では葵が石井の服を借りて着たり、Activeを読んだり。葵の家ではテレビを見たり話して過ごすことが多かった。秘密を共有する二人の仲が親密になるのに時間はかからなかった。
時が過ぎるのは早く、あっという間に七月を迎える。女子は半袖の白いセーラー服に、男子はワイシャツにと制服も衣替えとなった。間も無く夏休みということもあり、クラスでは少し浮ついた気分になっている者も多い。現に葵の目の前、石井と女の子達は夏の計画を練っている最中のようだ。
「ねえねえ、由香って清川花火大会って知ってる?もうすぐやるんだけど」
「花火大会?」
「そう、清川の河川敷から花火を打ち上げるんだけど、みんなで行ってみない?屋台も出るし、めっちゃ綺麗なんだよ」
「へえ、花火かぁ。いいなぁ」
「あ、ごめん、うちはパスー」
「えー、なんでよ。春美、毎年楽しみって言ってたじゃん」
「ふっふっふ〜。今年はね、恋人と行くんだ〜」
「恋人〜⁉︎」
「え、春美彼氏いんの⁉︎」
後ろで聞いていた葵も思わず顔を上げてしまう。恋人と呟いた意外過ぎる人物。お世辞にも、可愛いとは言えない子…と認識していた春美だ。
「嘘でしょ…?」
「本当だよ、この前できたんだから」
「うわー、マジかー。ねぇ、相手は誰?誰なの?」
「えー、ないしょー」
「教えてくれたっていいじゃん」
「いやー、それは口が裂けても言えないので。花火大会の会場で会ったら声かけてね」
「うう…。ねえ、由香、由香は大丈夫だよね、一緒に行けるよね?」
「あー、うん、ごめん、ちょっと考えとく」
「え…まさか由香もなの…?もー、なによみんなしてー」
これは、今日の帰り道に話があるなと葵は悟った。どうして言ってくれなかったの、と問い詰められる姿が容易に想像できる。少しだけ、今日の帰りは気が重かった。
下校時刻となり、いつも通り校門前で待ち合わせる。葵に少し遅れて石井が合流する。
「お疲れ〜」
「お疲れ様。帰ろっか」
「うん、今日、アオイんち行ってもいい?」
「ああ、いいけど」
「じゃ、行こう」
お互いがお互いの家に頻繁に訪れるため、もはや「友達連れて行く」の連絡は不要になっていた。親も親で、もう一人家族が増えたような感覚になっていた。
「ねえ、アオイは今日の話聞いてた?」
「話って、なんの?」
「何って、清川花火大会のこと。葵、知ってたでしょ。なんで言ってくれなかったの?」
「毎年あるのは知ってたけど、今年の日程、もう出てたんだ」
新聞や広報誌を見ている葵が知らないはずはなかった。それでも、あえてとぼけて見せる。
「うん、今月の二十三日だって。空いてる?」
「空いてるも何も、由香に誘われたら予定空けるよ」
「本当に?夏と言ったら花火だし、一緒に行こうよ」
「ああ、いいよ。行こう」
「やった!楽しみだな〜」
(花火大会なんて、久しぶりだな)
葵は幼い頃に行った花火大会の記憶を思い出していた。母と浴衣を着て屋台を見て回り、河川敷の土手に座って花火を眺めたこと。父は仕事の関係上、花火大会運営側なので共に花火を見たり屋台で食べ歩いた記憶はない。愛の記憶が戻ってから二回程は会場に行った記憶はあるが、それ以降は行っていない。愛が生きていた頃も家族や友人と毎年花火を見たものだが、漆黒の暗闇に浮かぶ色鮮やかな花火を見るたびにあの頃を思い出してしまう。取り戻したくても、もう戻らないあの日々が重なる。愛として生きていれば、あの頃と変わらず大切な人たちと共に夜空を眺めていたはずなのに。それが愛の心をズキズキと痛ませ、花火大会から足を遠のかせていた。
「ねえ、アオイ、聞いてる?」
「あ、ああ。ごめん、なんだっけ?」
「だから、浴衣着て行きたいって話。どうしたの?なんか上の空だったけど」
「ちょっと考え事。ごめん」
「ふーん、他の女の子のことでも考えてた?春美の彼氏とか」
「それは気になるけど、違うよ。浴衣ねぇ。いいね。由香が着てるとこ、見てみたい。似合うだろうな」
「アオイも一緒に着るんだからね」
「いいけど、浴衣持ってないから買いに行かないと」
「そうなんだ。私は去年着たやつがあるからそれにしようかな」
「家着いたら母さんに聞いてみるよ」
「うん、お願いね」
家に着くまでの間、花火大会について話をした。幅約四百mにも及ぶ河川にかかる橋をバックに打ち上がる三万発の花火。河川敷には屋台がずらりと並び、特設の観覧席からは視界に収まりきらない程の花火が眼前に広がる。
その話を聞くたびに石井は目を輝かせ期待に胸を膨らませていた。
「ただいまー」
「お邪魔しまーす」
玄関を抜けてリビングへ。今日も仕事をする母がそこにいる。いつもの光景だ。
「おかえり、由香ちゃんもいらっしゃい」
「いつもお邪魔しちゃってすみません」
「いいのよ。うちの葵と仲良くしてくれてありがとう。ゆっくりして行ってね」
「はい、ありがとうございます」
「母さん、ひとつ聞きたいんだけどさ、俺の浴衣ってある?」
「葵の浴衣〜?もうちっちゃい頃に着たやつしかないから無理かもね〜。浴衣なんて急に…。あ、もしかして花火大会に行くの?」
「うん、まあ。由香と行こうかなって」
「若いっていいわねえ。だったら買いに行かないと…でも、浴衣って結構暑いし、動きにくいけど大丈夫?由香ちゃんはあるの?」
「それは…頑張る」
「はい、私は持ってますので」
浴衣は涼しげな見た目の印象とは裏腹に、意外と暑い。そのため、着慣れていない人の中にはその暑さに根を上げてしまう人もいるそうだ。
「まあ、母さんがやってあげれば多少工夫はできるけど…。そうだ、葵、試しに着てみる?」
「父さんのでもあるの?」
「ううん、私の。父さんは花火大会の日仕事だから浴衣持ってないのよ。家で一回着てみれば浴衣がどんなものかわかるでしょ。ちょっと待ってて」
そう言うと母は以前着ていた浴衣を探しに二階の自室に向かう。その間、葵と石井はリビングに取り残される。
「アオイのお母さんって浴衣着られるの?」
「さあ…?でも、昔2人して浴衣着て花火見に行ったから着付けできるんじゃない?」
「そうなんだ。だったら私もアオイのお母さんに着付けしてもらおうかな。去年は友達のお母さんにやってもらったから」
「抵抗、ないの?」
「うん、悪い人じゃないし、全部脱ぐわけじゃないからね。アオイ、やっぱり変なこと想像してるでしょ?」
「してないってば」
「お待たせ〜」
トントントンと小気味よいリズムで階段を降りてくる葵の母。その手には浴衣と帯が抱えられている。
「これ、母さんが若い頃に着てたやつと、葵が小さい頃に着てたやつなんだけど、どっちもまだ着られそうね」
「すごーい、可愛いー」
「物持ち、いいね」
「ふふ、母さん、こう見えても着物は好きだからね。幼稚園の卒園式や小学校の入学式、着物で出たの覚えてない?」
「あー、ごめん、あんまり覚えてないや」
「そうよね、まだ六歳だったし。あとで写真見てみようかしら。とりあえず合わせてみるだけだからどっちでもいいけど、葵はどっちがいい?」
そう言われてソファに広げられた浴衣を眺める。一着目は若い頃着ていたという、白地に濃紺で大きく描かれた紫陽花が特徴の浴衣。もう一着は紺色の浴衣に白や淡い水色で朝顔が描かれている。前者は爽やかな、後者は落ち着きの中にも品のある美しさを醸し出していた。
「どっちでもいいよ、試しに着てみるだけだし」
「あ、じゃあ私選んでいい?」
「どうぞ」
石井は二着を交互に見比べたり、手にしたかと思うと時折葵に向けて仮合わせしている。本来は自分で選びたい所だが、母の前なのでグッと堪える。本当はもっとワイワイやりたいと内心思う。
「うん、やっぱりこっちかな。ママさん、これでお願いします」
「はーい、朝顔の方ね。それじゃ、由香ちゃんはテレビでも見てて、向こうで着替えさせてくるから」
「はーい、お待ちしてます。がんばってね」
リビングを抜け、脱衣室へと向かう。浴衣を着ることは女の子らしさも風情も感じられるから楽しみだった。それが由香と一緒なら尚更。それでも、その過程…誰かに着付けをしてもらうことは苦痛を伴うことだった。見知らぬ人なら一回きりの関係だから我慢できる。だが、母親になると話は別だ。二次性徴の来ていない、成長が止まったこの男の体。この姿を見られた上で共に生活を続けるのは堪え難かった。この体を見てどう思うのか、不安で仕方なかった。
「とりあえず、制服とワイシャツは抜いた方がいいかな。下、ハーパン履いてる?」
「いや、履いてないけど」
「じゃあ持ってきてあげるから先脱いてて」
「うん、ありがと」
浴衣を置き、母は葵の部屋へと戻る。葵としてはその場で脱いで着せられるものと思っていたが想像と違った。母親なりの優しさなのだろう。十五歳の男の子が母親の前で下着姿になる。いつまでも自分の子供であることに変わりはないのだが、一人の男として自尊心を守ることを選んでくれていた。
「葵、ドア開けた所に置いておくから、履いたら呼んでね」
「すぐ履くよ」
母親が戻る間に制服脱いで畳み、ワイシャツは洗濯カゴへ。脱衣室の戸を開け、ハーパンを手早く身につけて母親に声をかける。程なくして母親は戻り、葵に浴衣を着せ始める。
「葵、あんたいい友達できたね」
「由香のこと?」
「そう、可愛いし良い子だし、今時あんな子いないわよ。付き合ってないの?」
「まさか。ただの友達だよ」
「そう?向こうはそう思ってないかも知れないけど」
「どういう意味?」
「さあね。もう少し、色々と素直になりなさいってことかな」
「ますますわかんない」
「その内、わかる時が来るわよ」
会話をしながら、母は葵に浴衣を着せていく。普段着ていないのに、手慣れたものだった。
「はい、出来上がり。葵、帯苦しくない?女物だから男の帯とはちょっと違うけど」
「う、ん。大丈夫だけど、結構苦しいね」
「でしょー?今は動いてないから大丈夫だけど、これ着て会場で歩いてたら結構暑いし大変だからね」
「かもね。ありがと」
「せっかくだから、由香ちゃんに見せてあげたら?」
「え、なんで?」
「だって、選んでくれたの由香ちゃんなんだし。ほらほら、いってらっしゃい」
背中を押された葵は脱衣所から追い出され、鏡を見る機会を失う。渋々リビングに戻ると石井はテレビを見ていたが、今はちょうどCMのようだった。
「お待たせ」
振り返って石井はおーっと歓声を上げる。
「うわ、めっちゃ可愛い」
「浴衣がね」
「いやいや、アオイ可愛いよ、これ」
「そりゃどうも」
母親の前なので、女物着せられてますよ、本当は女物嫌なんですけど、という態度を演技する。
「ママさん、どうですか?可愛くないですか?」
「うん、思ってたより似合うんじゃない?」
「母さんまで…」
「そうだ、これ」
石井はポケットから髪留めを取り出す。それは葵にあげた例の髪留め。二人が脱衣室で着替えてる最中に葵の部屋から持ち出したものだった。
「それ…」
俺の、と言いかけた言葉を飲み込む。言ったら最後、母親への言い訳が面倒臭いものになる。
「可愛いでしょ?こうやってつけると」
石井がこめかみの上へスッと差し入れる。初めて葵の体で石井の服を着た時、髪を伸ばした方が可愛いとアドバイスを受けていた。それを元に、葵は髪を伸ばしつつあった。まだ二ヶ月だが若干の成果は出ており、以前よりも髪留めが似合っていた。
「あら、由香ちゃんいいの持ってるじゃない」
「えへへ、似合うと思いません?」
「うん、確かに髪留めあるとスッキリしていいかも。葵、あんた似合ってるよそれ。母さんの若い頃を見てるようだわ」
「当日、これでもいいんじゃない?浴衣買いに行かなくて済むしさ、お母さんの浴衣着られるなんてなんか素敵」
「そうねー、私にも由香ちゃんみたいな可愛い娘がいたら、一緒に浴衣着て花火大会行くんだけどねぇ」
「ちょっと、勘弁してよ」
「どうせ年に一回くらいしか着ないし、こっちの方がいいものだし。何より一緒に行く由香ちゃんがいいって言ってるんだからいいんじゃない?」
この二人には何を言ってもダメだ、と内心諦めの境地に至る。ここは大人しく「はい」と言わざるを得ない。それに浴衣をフルセットで買うとなると、それなりの値がする。それをたった数回のために投資してもらうのには気が引けた。
「わかりましたよ、当日はこれ着て行きます」
「あ、素直になった。それでよろしい」
由香に頭をポンポンされる。今回は母の思いつきもあったが、女物の浴衣を着て花火大会に行くことになった。葵にとってこの事は嬉しい誤算だった。母が女物の浴衣を着ていくことに拒否感を示さなかった事は引っかかったが、考えても答えは出なかった。気まぐれなのか、葵の内なる心に勘付いているのか。その答えを知るのは、だいぶ先の話になる。
「ママさん、写真撮ってもらってもいいですか?」
「ええ、いいわよ」
「ちょ、何勝手に」
「いいじゃない、似合ってるし減るもんじゃないし。はい、チーズ」
石井に手渡されたスマホを向けて写真を撮る。石井はいつもの笑顔、葵はやはり表情は固めだった。
「葵ももうちょっと楽しそうにしなさいよ。はい、由香ちゃん」
「ありがとうございます。ママさん、私入っちゃってますけどこれ、いります?」
「あら、もらえるならぜひ。この子、写真撮らせてくれないから寂しくてねー」
「あー、それはいけませんねー。写真はたくさん撮っておきたいですね」
葵は完全に蚊帳の外だった。二人で仲良くメッセージを送り合う様をただ一人眺めるしかなかった。なんで、そこで徒党を組めるのかと葵は不思議だった。
写真は、好きではなかった。真実を写すと書いて写真。男である現実を突きつけられるから、写真は避けてきた。撮られたくないから、表情も固かった。だから、石井がなぜそこまで笑顔を作れるのか不思議でならなかった。
これが、男で生まれたこと、女で生まれたこと。愛の心を受け継いで生を受けてしまったことの違いなのかなと思うと、少し寂しくなった。




