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第十五話 ホットケーキと制服と

 石井の家を訪れてから、葵は石井と過ごすことが増えた。学校では相変わらずだが、休みの日には遊びに出かけたり、石井の家にお邪魔していた。

 その度に石井の両親は快く受け入れてくれて、晩ごはんをご馳走になる時もあった。

 最初のうちは葵の両親にも「石井の家に行ってくる」や「石井と遊んでくる」とだけ言っていた。

 石井と会う機会が増えると、さすがに気になるのか「どういう子なの?今度、うちに連れてきてよ」と言われることが度々あった。

 季節は巡り、五月になってすぐの放課後、葵はある提案をすることにした。

「ねえ由香」

「何?」

「一緒に帰ろう」

「え、一緒にって、方向違うじゃん」

「途中までは一緒だよ」

「そうかもしれないけど、遠回りにならない?」

「運動だと思えば大したことないって」

「でも…」

「一緒に帰るの、やだ?」

「嫌じゃないけど…」

「けど?」

「遠回りさせるの、悪い気がする」

 石井は普段、人をからかうような態度を見せる事が多いが、相手に負担をかけるような時や気を使わせてしまうような場面ではしおらしくなることがある。

「じゃあさ、今日だけ一緒に帰ってみようよ。それで俺が無理って思えば今日限りだし、大丈夫ならこれからも帰ればいいし。もちろん、由香がよければ、だけど」

「んー、それならいいかな」

「よし、じゃあ決まり。行こう」

「うん、行こう」

 一度だけなら、石井が思うような負担も少ない。靴を履き替え、並んで歩く。校門を出た所でいつもは別れるため、同じ方向に歩いていくのは今回が初めてだ。葵は車道側を歩くようさりげなくポジション取りをする。中身は女でも体は…制服は男。世間的に男が取るべき行動をするが、何より可愛らしい石井を守ってあげたい気持ちの表れでもあった。

「でもさ、なんで急に一緒に帰ろうなんて言い出したの?」

「特に理由はないけど…強いて言えば学校じゃあんまり話せないし、スマホのメッセージより会って直接話した方が楽しいじゃん」

「そりゃあねえ」

「一緒にいて話したいから帰ろうって誘っただけだけど、何か理由あった方がよかった?」

「んーん、別に。あ、私のこと、そんなに好き?」

「好きだけど?」

「ほんとにー?うれしー」

 石井は笑っている。心なしか、足取りも先ほどより軽そうだ。

「俺のことは?」

「何が?」

「…なんでもない」

「そうしょげないでよ。はいはい、好きですよー、アオイのこと、だーい好きだよー。これでいい?」

 両手を口元で合わせて、大声で叫んでいるような仕草をする。とは言っても仕草だけで、肝心の声はわざとらしく声に丸みを持たせるている。

「はいはい、どうも」

「にしし、照れてやんの」

「う、うるさいなぁ。好きなんて言われたら照れるじゃん」

「お、可愛いやつ。これからはこうやっていじるか」

「やめてよ、人に見られたら恥ずかしい」

「素直じゃないなぁ、もう」

 明らかに、楽しんでいる。石井は上機嫌で、終始ニコニコしている。

 そうこうする内、葵にとっての限界点が近づく。これ以上同じ方向に進むと来た道を戻ることになる。もしくは進み続けてさらに大回りする必要がある。

「悪い、由香。一緒に帰れるのこの辺までなんだけど、いいかな?」

「うん、大丈夫。家まで遠くなってない?」

「ここまでなら平気かな。時間的にもそんなに変わらないと思うし」

「そっか、よかった。じゃあ、また明日ね」

「うん、また明日。…明日はどうする、一緒に帰る?」

 んー、と少し空を見上げて石井は考える仕草をする。この仕草も妙にわざとらしい。

「いいよ、一緒に帰ろう。特に用事もないし」

「じゃあ、また明日。気をつけて帰ってね」

「うん、アオイもね」

 こうして、葵と由香の下校は続いていった。予定がある日は断るが、お互いこれといった予定もあまりないため次第に校門で待ち合わせて、自然と並んで帰った。愛にとっては女の子になれる唯一の時間で、日々の楽しみになっていた。

 ゴールデンウィークも過ぎて少しした頃。石井の顔が浮かないことに気づく。みんなといる時は普段通りだが、帰り道では少し元気がなさそうだ。

「なんか、浮かない顔してるけどどうした?」

「うん…もうすぐ中間テストじゃない?今から憂鬱だよ…」

 学校では間もなく中間テストが行われる。葵自身は石井と会う時間が増えたとはいえ勉強もこれまで通り行っていたし、塾にも通っているので特に追い込みをかける必要はない。

「由香はあんまり勉強得意じゃない?」

「得意じゃないよー。壊滅的じゃないけど、毎回頑張んないとなぁ…。アオイは東大目指してるんだからこのくらい余裕なの?」

「うん、まあ。復習くらいはするけど」

「復習くらいって、すごいな。あ、それだけ余裕あるならさ、私に勉強教えてよ」

「いいよ、それくらいお安い御用だよ」

「一人余裕なのがムカつくけど、お願いね。今度の土曜日かなー」

「今からでいいよ」

「え?今から?」

 予想だにしない提案で石井は驚く。今から勉強と言われてもそんな気分じゃない。あー、でも家帰っても勉強しないだろうし…でもしないと成績が…といくつもの思いが交錯する。

「勉強って言ったって、図書館は反対だし、学校また戻るのも…」

「俺んち来ればいいじゃん」

「…本気?」

「うん。ここからならまだ通学路にも戻れるし、そんなに離れてないから。うち来るの、嫌?」

「嫌じゃないけど…」

「けど?」

「今日、勝負下着じゃないし…」

「なんだよそれ。由香、普段から派手じゃん」

「あー、こないだのしっかり見てんじゃん。やっぱりアオイはえっちだなー」

「何言ってんだよ、そっちから振っといて。で、どうする?来る?」

 この前…葵の部屋でタンスを開けた時の一幕を思い出す。見たのは一瞬でも、下着の濃い色が目に焼き付いている。自分では選ばない色…。葵は冗談を言う石井を軽くあしらい、選択を迫る。

「今から行っていいなら、行こうかな。葵の部屋も見てみたいし」

「何もないからつまんないと思うよ」

「そうなの?ベッドの下にえっちな本とか、本棚の裏にはDVDとか」

「ないってば。興味ないの知ってるくせに」

「あれ、そうだっけ?その割には下着の色覚えてるし」

「あれだけはっきりした色なら忘れられないよ。ほら、行くよ」

 まったく、由香はいつも下ネタに振るんだから…と内心思う。笑いを、場を和ませようという由香なりの配慮なんだなと葵は感じていた。実際、これ系の話をしていても男とは違っていやらしい感じも、本気で言っているとは思えないから楽しむことができた。

 石井には中身が女の子であることを勘付かれてはいるものの、まだ「体は男だけど、心は女なの」と打ち明けてはいない。それを言うに値する存在ではあるが、気持ちの面で踏ん切りがつかないでいた。

「ちなみに、何が苦手なの?」

 家に着くまでの間、どこが苦手か確認しておく。苦手な科目と分野が分かれば、家についてすぐ勉強に取り掛かれる。

「数学ー」

「数学のどこ?」

「全部」

「全部って…授業、聞いてる?」

「聞いてるよー?後ろで見てんじゃん」

 そりゃ見てるけど…っと言いかけたが、理解力は人それぞれだよなと言葉を飲み込む。

「全部ね。りょーかい。家着いたら一から教えるよ」

「ほんと?お願いね〜」

「わかるまで付き合うから、覚悟しといてね」

「うぐ。お、お願いします…」

 本気で勉強を教えられる、と石井は感じた。ちょっと家に上がって、部屋を見て。教科書広げながらお話ししていればいいという幻想は崩れ去った。

 葵も葵で、時間がかかりそうな事は予見できた。つまづきそうなポイントはどこか、どう教えればいいか、これまでの授業内容を思い出しつつ家路についた。



「ただいまー」

 玄関に入り、いつも通り声をかける。

「おかえりー」

 リビングで仕事をする母の声が聞こえて来る。これもいつもの通りのこと。そしていつも通り靴を脱いで揃え、リビングのドアを開ける。

「ただいま。友達、連れてきたよ」

「友達ー?」

 いつもなら「おかえり」と返事が帰って来るが今日は違う。驚きの表情と共に返される。

「はじめまして。石井由香です。以前、痴漢から助けていただいた者です」

「あ、あなたがあの時の!」

「あの時は大変お世話になりました。お礼にも伺えず申し訳ありません」

「いいのよ、そんな事。葵、あなた、こんな可愛い子と付き合ってたの?」

「付き合ってないよ、友達。勉強教えるから部屋行くね」

「お邪魔します」

「あ、うん、どうぞ」

 驚きを隠せない母はその場で固まるしかなかった。葵はさっさと二階へ上がり、石井を部屋に案内する。

「ここ、俺の部屋だから」

「お邪魔しまーす」

 ドアを開け、石井を招き入れる。石井の眼前にはシンプルだけど広い部屋が広がっていた。入ってすぐに部屋を見渡せるように配置された学習机。それと向かい合うように壁際にはテレビが置かれている。窓はネイビーの布地に星柄がプリントされたカーテンを有し、その袂にはベッドが据え付けられていた。

 その他にはローテーブルと本棚があるくらいで質素なものだった。

「広っ」

「ものがないだけだよ」

「ううん、おうちも大きくて立派だし、うちとは大違い」

「大きければいいってもんではないよ」

「そうかな〜」

「そうそう、掃除もその分大変だし。さあ、勉強しよう」

「はーい」

 気乗りしない声の石井を尻目に、葵はローテーブルに着くよう促す。

(ひとまず、どこができてどこができないか把握しないとな)

 教科書とノートを広げ、練習問題をいくつか解かせてみる。

 思ったよりはできる。が、連立方程式の文章問題が出て来ると手が止まることがあった。

 葵はそれらを丁寧に教えていく。気がつけば1時間近く経っていた。

 コンコン。

 不意にドアがノックされるが、この時間だと母親しかいない。

「はーい、どうぞー」

「お邪魔しまーす。勉強、頑張ってるのね。ホットケーキ焼いたんだけど食べる?」

「ホットケーキ⁉︎」

 石井が顔を上げ、目をキラキラさせている。

「由香、食べる?」

「食べる!」

 即答だった。ホットケーキ食べたさもあるが、勉強から解放されたいと顔に書いてある。

「ふふ。じゃあ、葵、手伝ってくれる?」

「はーい」

 母親について階段を降りる。キッチンに近づくにつれて甘い香りが強くなる。

「ホットケーキなんて、急にどうしたの?珍しいね」

「葵が急にお友達連れて来るんだもの、お茶菓子なんて用意してなかったから。ホットケーキなら家にあるもので作れるし。最近作ってなかったけど、上手に焼けてるわよ」

 そう言ってトレーにホットケーキ二皿を乗せる。

「由香ちゃんだっけ?飲み物は何がいいかしら」

「カフェラテよく飲むから、それでいいんじゃない?コーヒーと牛乳ある?」

「もちろん、いつもの場所にあるわよ」

 戸棚からカップを取り出す。葵はノリタケのフィッツジェラルドを。石井にはヘミングウェイを用意する。このカップなら紅茶の方が絵的には合うな、と思い、手にかけていたコーヒーを戸棚に戻す。ポットで沸かしたお湯をティーポットとカップに注ぎ、温める間茶葉の用意に取り掛かる。

(母さんのホットケーキは甘いから…)

 昔食べた時の記憶を辿り、少し渋みのあるダージリンを選択する。

 ポットとカップのお湯を捨て、茶葉をポットに入れて再度湯を注ぐ。フォークやナイフ、茶漉し類は母が用意していた。

「ありがとう」

「いいえ。母さん、夕飯の買い物と仕事の書類出しに郵便局行って来るね。暗くなる前に帰るのよ」

「わかってるよ。ちゃんと送ってくし」

「そう。帰り、大変だったら車出すからね」

「うん、わかった」

「それと、これからお友達来る時は言ってね。お菓子とか飲み物くらい用意しておくから」

「はーい、次からは気をつけるよ」

「うん。それじゃ、行って来るわね」

「いってらっしゃい」

 トレーを持ち、玄関先で見送る。

 カタンとサムターンが回り、人影が見えなくなる。

(今から買い物と郵便局に行くとなると…1時間半は帰ってこないだろうな)

 郵便局の混む時間は心得ていた。これを食べたら次は文章題をいくつか拾って解かせてみようか…などと考えながら部屋の扉を開ける。

「お待たせ、って…」

「おー、きたきた!おいしそー」

「何やってんの」

「何って、えっちな本がないか探してるの」

「だから、ないって」

 ホットケーキ…もとい葵がなかなか戻ってこないことに暇を持て余した石井は部屋の本棚を眺めていた。いくつか本を手に取ったり、気になる漫画を手にしている。

 さっきまでテーブルの上に広げてあった勉強道具は一切見当たらず、ご丁寧に葵の分まで鞄にしまわれていた。

「…まあいいけど、冷めないうちに食べよう」

「うん」

 トテトテと小走りで駆け寄り席に着く。その間、葵は紅茶の用意ををする。茶葉が入らないよう茶漉しを添えて、均等にカップに注いでいく。

「うわー、おいしそう。てか紅茶ってそうやって淹れるんだ。私、ティーバッグでしか淹れたことない」

「俺も普段はそうするけど、せっかくだからおいしいの飲んでもらいたいし」

「ふふ、ありがとう。カップもオシャレだね」

「両親の趣味でね。これは俺も気に入ってる」

 紅茶で満たされたカップを手に繁々と眺める。ホットケーキと紅茶の香りに包まれ、石井は待ちきれない様子だ。

「それじゃ、いただきます」

「いただきまーす!」

 ナイフでバターを取り、ホットケーキの上に乗せて溶かしつつ、食べやすい大きさに切っていく。溶けたバターに軽くつけ、口へと運ぶ…と、石井の目が丸く見開かれる。

「んいひー」

「食べ終わってから言えし」

 石井の反応はわかりやすい。手作りのホットケーキを食べておいしいと言われて少し嬉しい。

「めっちゃフワフワだし甘くて美味しいんだけど!」

「口に合ったみたいでよかったよ」

「これ、手作りなの?」

「そうだよ。小さい頃はよく一緒に作ってたな」

「へー、いいなぁこんな美味しいの食べられて」

「最近は全然焼いてないけど。由香がママさんと焼いてくれたガトーショコラも美味しかったよ」

「へへ、ありがとう」

 紅茶を挟みつつ、葵もホットケーキを頬張る。

(懐かしい)

 あの頃…薄れゆく小さい頃の記憶。あの頃食べた味と変わりはない。懐かしいような、少し寂しいような。少し複雑な気持ちになっていた。

「ふー、美味しかった。ご馳走様」

「お粗末さまです。紅茶、もう少し飲む?」

「うん、いただくー。これもちょっと渋いけど、甘いホットケーキには合うね」

「うん、甘いの知ってるからこれにしたんだ」

「アオイのチョイスなんだ」

「まあね。コーヒーも飲むけど、紅茶も好きだし」

「へー、アオイってなんか大人ー」

「そうでもないって。これ、片付けて来るね」

「うん、いってらっしゃい」

 紅茶のカップを残してそれ以外をキッチンに運ぶ。さて、この後は何をしようか。石井はすでに勉強する気がなさそうだ。とはいえ部屋にテレビゲームもなければブルーレイやDVDデッキの類もない。強いて言えばBSやCSで映画でも見るくらいか…と考えながら部屋に戻る。

「お待たせ」

「うん、おかえり」

「このあとどうする?うち、ゲームとか遊ぶものないし。母さんもいないからリビングでテレビでも見てるくらいしかないけど」

「そうなんだ。私、やりたいことあるんだよねー」

「何?勉強の続き?」

 そんな答えが返って来るはずはないと承知の上で勉強に誘う。その言葉を意に返さず石井はニヤニヤしている。何か企んでる、いつもの顔だ。

「制服交換しようよ」

「はっ⁉︎」

 葵は思わず大きな声をあげてしまう。制服交換って、それはつまり…。

「アオイが私のセーラー服着て、私がアオイの学ラン着るの。私ね、東京にいる頃はブレザーだったんだ。男女共通の」

「そ、それはそうだとしてもなんで交換?」

「単に着てみたいからだけど…ダメ?アオイだってセーラー服着てみたいでしょ?」

「いや、それは…そうだけど…」

「じゃあいいじゃん、交換しようよ」

 気持ちとしてはセーラー服を着てみたい。あの時…石井の部屋で初めて女の子の服をきた時はワンピースを選んだが、実は隣にかけられたセーラー服も気になっていた。学生である女の子の象徴。かつて自身も着ていた、あの頃の思い出。それが再現できる。だが、葵には一つ引っかかることがあった。

「でも…それじゃ石井も脱ぐことになるじゃん」

「そうだけど、何?アオイ、私のこと襲う気?」

「そんなことしないってば」

「ならいいじゃん。気になるならお互い背中合わせになってすれば」

 この子は何を言ってもダメだ。自分がこう思ったらこう、と周りの意見に耳を傾けることはしないのだろう。現に、胸元で結ばれたスカーフに手をかけ、解いている。

「脱いだらさ、自分の右足元に置くってのはどう?それなら見えないでしょ?」

「…わかったよ」

 葵も制服のボタンに手をかけ、上着を脱いで手渡す。石井もまた、スカーフを葵に手渡す。

「じゃあ、また」

「ああ、また」

 制服を受け取り、お互いが背中合わせになる。ただ無言で服を脱いでいく。ふぁさっという脱いだ服を床に置く音。ワイシャツを脱ぐ際のシュルっという衣擦れ。ベルトのカチャカチャとなる金属音。スカートのファスナーを下げる音。お互い、音しか聞こえていないのに相手がどのような状況か容易に想像がつく。それだけで胸の鼓動が早くなる。単にセーラー服を着るという行為よりも、早く。

「脱いだよ。服、取れる?」

「私も。じゃあ、着替えるね」

(きっと今は…)

 石井を見ないように視線を落としてセーラー服の位置を探る。中身は女とは言え、下着姿の女の子を見て喜ぶ趣味はない。と、視線の先に制服を見つけた。仕方ないことだが、その隣にある石井の脚が目に映る。白い。今まで見たことのないくらい間近に彼女の脚がある。細く、毛穴ひとつ見えないすらりとした脚。自分もこうなれるのだろうかと思いつつ、葵は制服を手にする。後はこなれたものだった。愛の頃は中学、高校とずっとセーラー服を着ていた。多少デザインは違うが、着方は同じ。苦労することなくスカート、インナー、上着、スカーフと順に身につけていく。スカートの丈は愛が着ていたものより若干短く、膝が出ている。

 石井の方は音からしてズボンを身につけてはおり、ワイシャツに袖を通している所のようだ。

「こっちは終わったよ」

「え、早くない?私はもうちょっと…このボタン、止めづらくない?」

「ああ、男女でボタンの止め方逆だからね」

 私も最初は苦労したな、と思いつつ、袖を通したセーラー服の感触を懐かしんでいた。これで女の子の服を着るのは二回目。嬉しさが込み上げ、腕を伸ばして袖口を眺めたりするが、もうあの時のように涙は流していなかった。それでも口元には笑みが溢れている。

「うう…難しい…。ねぇアオイ、ボタン止めてよ」

「うん、いいよ」

 セーラー服の余韻に浸りつつ、特に考えもなしに振り返ると、制服のズボンを履き、キャミソールの上にワイシャツを羽織った石井がそこにいた。

「え、ちょっ、待って」

 その姿を見て慌てて背を向ける。

 セーラー服を着て懐かしくなり、愛としての感覚でいてしまったが、石井を見て現実に引き戻される。

「どうしたの?」

「いや、なんでもない。てか、ボタンくらい自分で止めてよ」

「えー、いいじゃん。できないし、もう見ちゃってるし」

「いや、そういう問題じゃ…。由香は嫌じゃないの?男にその…下着姿見られて」

「嫌だったら、こんなことしないよ。寒いから早くして」

「…わかった」

 視線を落とし、振り向く。石井の顔を見ることができなかった。彼女はどんな顔をしてるのか。自分はどんな顔をしているのか。見たくも、見られたくもなかった。

 そっと両手を石井の襟元に添えて上からボタンを止めていく。すでに葵の心臓は止まってしまうのではないかと思うくらい脈動していた。

(なんで、こんなにドキドキするんだろう)

 自分自身、なぜかはわからなかった。それでも、これを止め終えれば落ち着くはずだ、落ち着けと言い聞かせてボタンに手をかける。なるべく、その体を見ないように、触れないように、手を浮かせながら止めようとするも緊張のため手が震える。一つ、また一つと止めるたび、男にはない丘へと近づく。緩やかなカーブにより、次第にワイシャツと手の、石井の体との距離が縮まる。

「あ…」

 三つ目のボタンを止めようとした時、石井の胸元に手の甲が触れてしまった。キャミソールのサラリとした肌触りの向こうから伝わる温もりとふわりとした感触。キャミソールの隙間から覗く黒い肩紐にも目を奪われ、より鼓動が激しくなり体も熱を帯びる。

「いいよ。気にしないで続けて」

「…ごめん」

「大丈夫」

 この心音が聞こえてしまうのではないかと思いつつ、残りのボタンを手早く止めた。

「終わったよ」

「ありがと。よく止められるね、これ」

「もう慣れたよ、これくらい。はい、これ」

 最後に上衣を広げ、石井の背後に回る。

「手、下げて少し後ろにして」

「こう?」

 言われた通りに動かすと、それに合わせて葵は袖を通し、上衣を肩まで引き上げる。

「おおー」

 スムーズに着せられ、石井は感嘆の声を上げる。

「うまいね」

「小さい頃、着せられてたからね。なんとなく覚えてた」

 適当に答えつつ、石井の正面に周り、制服のボタンを止めていく。生地も厚く、下はワイシャツのため今度は落ち着いてボタンを止められる。

「ありがと。お着替え、できたね」

「うん」

「顔、上げてよ」

「なんか、恥ずかしい」

「なんでよ」

「だって、セーラー服着てるし」

「いいじゃん、私なんて学ランだよ。結構窮屈なんだね、これ」

「そう、だね」

「肩もなんか固いし、首元も苦しいし。だから男子はよく第一ボタン開けてるんだね。カッコつけてるだけかと思った」

「そういうやつもいるけどね。それに、思ってたより暑いし」

 石井は腕を上げたり体を捻ったりする。話しているうちに葵の心は落ち着き、色々と動く石井の姿を見るうちに自然と顔を上げることができた。

 学ランを着ていても石井は可愛かった。男の子というより、ただのコスプレにしか見えなかったが。

「だねー。アオイはセーラー服着てみてどう?」

「んー、やっぱりセーラー服はいいね。なんか懐かしい感じ」

「懐かしい?」

 また自然と愛の感覚が出てしまった。十五年ぶり…晩年はほぼ袖を通すことはなかったが、それでも中高と着ていたセーラー服には懐かしさを感じていた。

「うん、ほら。今はブレザーの制服が多いじゃない?だからセーラー服って逆に珍しいし、少し古風で懐かし感じがするなって」

「あー、確かにねー。東京にいた頃、私もブレザーだったし、他の学校の子もみんなそうだったからなぁ」

「でしょ?この辺でもセーラー服なんて他に見ないからね」

 会話をうまく逸らすことに成功するが、内心冷や汗ものだった。これで「実は十七歳の高校二年生の生まれ変わり」という事実まで知られるわけにはいかない。せっかく築いたこの関係が崩れてしまいかねないから。

「そういえばアオイ、この前の髪留め、使ってる?」

「ああ、一人の時に使わせてもらってるよ」

「ちょっと借りてもいい?」

「うん、いいよ」

 アオイはそう言うと机の引き出しからオレンジの髪留めを取り出す。毎日、部屋で自習する時には欠かさず着けている。百均で買った鏡で止める位置を確認したり、つけた様子を眺めたりしていた。例えこの体、この顔でも、女の子のものを身につけている時だけは女の子に…愛に戻れた気がした。

「ありがと。これをこうして…」

「ちょっ」

 髪留めを受け取った石井は左のこめかみにスッと差し入れる。

「うん、やっぱりこっちの方が可愛い」

「…ありがとう」

 セーラー服を着ただけで満足していたが、石井のお陰でより女の子らしくなった。濃紺のセーラー服と黒髪に添えられた髪留めは女の子らしさと彩りを添えてくれた。

「ねえ、大きい鏡ってない?せっかくだから見てみたいんだけど」

「親の寝室にはあるけど…」

「入るとまずい?」

「うーん、勝手には…ちょっと」

 たぶん、入ってもいいんだろうけど、と葵は内心思う。それでも、両親の、しかも寝室に石井を入れるのには少し抵抗があった。一応、今日が初対面だし、自分の部屋ではない。

「じゃあさ、私のこと写真撮ってよ」

「え…」

「だって、そうしないと見えないじゃん」

「はいはい」

 テーブルの上のスマホを手に取り、カメラアプリを起動する。

「可愛く撮ってね」

 石井はピースをしたり、背中を向けて顔だけカメラに向けたりとさまざまなポーズをとる。どの写真も笑顔が眩しい。

「ありがとう。スマホ貸して、今度はアオイ撮るから」

「え、いいよ、恥ずかしいし見苦しいし」

「そんなことないって。可愛いし似合ってるよ。スマホ貸してくれないなら、私ので撮るけど」

 そう言ってテーブルの上のスマホに手を伸ばす。

「…これで頼む」

「はーい」

 石井のスマホに自分のセーラー服写真が残るのは流石に抵抗があった。それならまだ自分のスマホで管理した方がいいと石井に手渡す。

「じゃあ撮るね。ポーズ取らないの?」

「恥ずかしいし、いいよ」

「まったく、素直じゃないなー」

 そう言って正面から、後ろから、下から煽りながらと石井が動いて写真を撮る。シャッター音がやたらと多い。

「撮りすぎじゃない?」

「そう?可愛いからいいじゃん」

「もういいって、それ俺のスマホだし。あんまり撮ると後で消すよ」

「えー、もったいない」

 そう言って、石井は撮影をやめてスマホを返す。

「うわ、撮りすぎ。どんだけ撮ったのさ」

「んー、可愛いからいっぱい」

「…あとで消すわ」

「えー」

 画像フォルダを見て、自分のセーラー服姿を眺める。この体が女だったら。そう思わずにはいられなかった。恥ずかしさのためか、どれも表情は浮かない。

「…ねえ、由香」

「何?」

「一緒に撮らない?」

「もちろん、いいよ」

 二人で並び、肩を寄せ合う。インカメラに切り替えて腕を伸ばす。画面には笑顔いっぱいの石井と少し表情が固い葵の顔が映し出される。

 カシャ。

 自分の写りは悪いけどまぁ仕方ないかと、ある意味諦めの境地だった。この体では。いずれ、女の体になったときには笑顔になれる。そう、信じていた。

「ねえ、私のでも撮っていい?」

「うん、いいよ」

 今度は石井がカメラを向けて画角を決める。

「じゃ、撮るよー」

「ちょっ」

 カシャ。

 画面には笑顔の二人が写っていた。

「何するのさ」

「いやー、さっきのは表情固いから笑わせてあげたの。いい笑顔してるよー」

「やめてよ、もう」

「てへへー」

 撮影の瞬間、空いた片手で石井は葵の脇腹をくすぐっていた。固かった表情が一転、はにかんだような葵の笑顔を捉えていた。

「そのうちさ、自然と笑って撮れるようになるよ」

「だといいけど」

「笑えないなら、私が笑わせちゃうからね」

「そりゃどうも。でも、くすぐるのはやめてくれ」

「どーしよっかなー」

「…やりかえすよ?」

「きゃー、セクハラー」

 その言葉は棒読みで、ふざけているだけだと葵は感じていた。

「やりませんよ、そんなこと」

「え、そうなの?つまんないのー」

 石井はいつもの笑顔を向けている。

 それを見ている葵もふっと口元が緩んでしまう。この子といると楽しい。最初は友達の妹くらいの感覚だったのに。

 会うたびに、共に過ごすたびに葵の中での石井の存在は大きくなっていった。

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