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第十四錠 優しいたぬき

 痴漢事件後の翌週、葵は清川工業団地行きのバスに揺られていた。警察署で石井の母と話した、お礼という名目で石井家に招待されたためだ。

 目的のバス停に着くと、石井が待っているのが見えた。石井家最寄りのバス停で待ち合わせをして道案内をしてもらう。

 宣言通り、彼女はこの前買ったサマーニットを着ていた。インナーに黒のタンクトップをまとい、ちょっと濃いめのデニムのショートパンツを合わせている。

 透け感があるため胸元は前回よりも強調されているし、色気も出ていて可愛いが、あれに懲りたのかニーハイで肌色の面積を狭めている。ニーハイとショートパンツの間に覗く絶対領域をチラリと見やるが、これでは逆効果だと葵は思う。確かに可愛いが、雄達はこれを求めていることを石井は知らないようだ。

「おはよう」

「おはよう。来てくれてありがとう。なにそれ?」

 どちらからともなく挨拶を交わす。

 石井は葵が手に持つ紙袋に興味ありげだ。

「うちの両親から由香のご両親にって。お邪魔するんだからせめてこれくらい渡して来てって」

「そんなの、気を遣わなくてもいいのに」

「そうもいかないみたいだよ。これが大人の事情ってやつなのかね」

「ふーん」

「サマーニット、似合うね」

「えへへ、ありがとう」

 バス停から二人、色々と話しながら石井家を目指す。工業団地の近くにある、住宅街の一角。区画整理されて碁盤の目のようなその土地は、一度来ただけでは目的の場所を覚えられず、迷子になってしまいそうだった。

「あのね、アオイ。もうすぐ着くんだけど…ちょっといい?」

「ん、どうした?」

「うちのお姉ちゃんのことなんだけど…」

「ああ、俺と字が同じでアオイって読む」

「うん。パパとママには本当はマモルって読むことも、あだ名としてアオイって呼んでることも話してはあるから。パパ達も、「明日アオイ君が来るんじゃ掃除しなきゃ」とか言ってたから、多分アオイって呼ばれると思う」

「俺は大丈夫だよ。そっちの方がいいし」

「うん。ありがとう。アオイはお姉ちゃんの代わりじゃないんだけど…アオイって呼べると、嬉しいと思うから」

「…名前くらいで喜んでもらえるなら、アオイに改名しようかな」

「そうなの?」

「正直、名前にこだわりはないからね」

「じゃあ、たぬきって呼んでいいの?」

 たぬ…なぜに「たぬき」と葵は一瞬固まる。

「たぬきはちょっと嫌だな。なんでたぬき?」

「えー?だって可愛いし、アオイってたぬきっぽいんだもん」

「…どの辺が?」

「学校じゃクールなのに、私の前では素が出てるっぽいし。なんかそこがたぬきっぽいなって」

「由香のがたぬきっぽいぞ」

「 えー、なんでよー?」

「だって、人のことからかって喜んでんじゃん」

「そんなことないよー?ねー、たぬきさん?」

「だから、たぬきはよせって」

 たぬきのくだりはどうでもいいとして、名前の呼び方については多少気にしていた。

 由香は実家でもアオイと呼ぶだろう。でも両親からはマモル、もしくは遠藤君と呼ばれるものと思っていた。由香の姉の名が(アオイ)だから。アオイの名が出れば、再び心の傷をえぐることになるのではないか。そんなことを懸念していたが、石井の話から取り越し苦労に終わったことに安堵する。

 ほどなくして、石井が自宅を指差して教えてくれる。家の玄関前には軽自動車とミニバンが停まっている。

 聞くところによると、石井の父は東京に本社がある会社で働いていて、転勤を機にこちらに家を建てたそうだ。この春に引っ越してきたので、外観も庭もとても綺麗だ。

「ただいまー、アオイ、連れてきたよー」

 石井がそう言うと、奥からエプロン姿の母親が出てくる。初めて会った時は警察署のロビーだったし、こうなるとは思っていなかったのであまりよく見ていなかったが、若くて綺麗な女性だ。

「いらっしゃい、アオイ君。この前はありがとう。さあ、上がってちょうだい」

「お邪魔します。本日はお招きいただきありがとうございます。こちら、つまらないものですが両親から…」

「いいのよ、そんなに固くならなくて。それにこんな、たいそうなものまで…。気にせず自分のうちだと思ってゆっくりしていって、ね」

 紙袋を手渡し玄関を上がる。

 たいそうなもの…中身を聞いていたわけではないが、紙袋を見ただけでわかるということはそれなりの品を用意したんだなと葵は思う。

「ただいまー、アオイ、連れてきたよー」

 石井に続いてリビングに入る。引っ越して間もないが家の中は綺麗に片付いている印象だ。逆に、物があまり出ていないとも言える。

「おかえり。早かったな」

 ダイニングテーブルには石井の父親がついていた。

 眼鏡をかけ、標準的な体型で穏やかそうな人だった。母親と違わず四十代前後くらいに見てとれる。

「君がアオイくんか。そんなところに突っ立ってないで、ささっ、入って入って。由香から話は聞いてるよ。助けてくれてありがとう」

「いえ、未然に防げなくてすみません」

「いやいや、誰にでもできることじゃないよ。僕だったら犯人に追いつけなくて転んじゃいそうだし」

「パパ、最近お腹出てきてるもんね。そんな体じゃ走れないよ」

「な、由香、なんでそれを…」

「隠したってバレてるんだからね。お酒、控えなよ」

「いいじゃないか、ちょっとくらい」

「だーめ、飲み過ぎは体に良くないし、おデブなパパなんて見たくないし」

「今夜からお酒、控える?」

「ちょっと、ママまで。もう、勘弁してよ」

 会話に石井の母が加わる。仲睦まじい、絵に描いたような家族。

(理想的…だな。うちとは大違いだ)

 葵がそう感じるのは、葵が石井家とは完全な他人だから。愛にとっては遠藤家の両親は他人だが、葵にとっては肉親にあたる。そのギャップが、両親との心の距離を生み出していた。

 葵がもっと歩み寄った方が家族の形としても良いことはわかっている。それでも、愛としては心からお父さん、お母さんと呼べない。人柄もそうだし、過去色々とあった。何より、愛にとっての両親は生前の二人しかない。そこが大きく引っかかっていた。

「もうすぐ準備できるから、席について待っててね。由香もちょっとは手伝ってよ」

「はーい」

「アオイくんも座って座って」

「はい、失礼します」

 石井の父が目の前の席に座るよう促す。ダイニングテーブルに座席は四つ。テーブルに真新しさはなく、少し使い込まれた感じも見受けられる。

(この席はきっと…)

 由香のお姉さんの場所なんだな、と一人思う。部屋を見渡せばテレビボードの一角にいくつかの写真が飾られている。触れてはいけないことだろうからと、敢えて目にしないようにする。

「はーい、失礼しまーす」

 キッチンでささっと手を洗った石井が箸や小皿を並べていく。

「アオイは何飲む?お茶、烏龍茶、コーラ、オレンジ…色々あるけど」

「えっと、烏龍茶で」

「あ、由香、パパは…」

「お酒はダメだからね」

「な、いいじゃないか、今日はお礼を兼ねての席なんだし」

「昼間からはダメです〜!そういう悪いこと考える人はお水で十分!」

「厳しいなぁもう」

 父親の目の前に水入りグラス、しかもミネラルウォーターではなく水道水を注いだものが置かれる。

 葵にはご丁寧に珪藻土のコースター付きで烏龍茶のグラスが用意された。

「何か手伝おうか?」

「いいよ、座ってて。今日はお客様なんだからゆっくりしてて」

「そうそう、色々お話聞かせてもらいたいし」

 石井の父と、準備が整うまで少し話をする。とはいっても「どのあたりに住んでるの?」といったことやアオイと呼ばれている訳を直接聞かれた程度で準備は整ってしまう。

「じゃあ準備もできたことだし、始めましょうか」

「うん、今日は由香のピンチを救ってくれたアオイ君に感謝の気持ちを込めてお礼の席を…」

「パパ、堅い堅い。普通でいいよ」

「そ、そうか。じゃあ…アオイ君、由香を助けてくれてありがとう。ささやかだけど楽しんでいってほしい。それじゃ、乾杯!」

「乾杯!」

 四人でグラスを合わせ、烏龍茶を一口飲む。

「それじゃ、いただきます」

「いただきます」

「アオイ、サラダ食べる?嫌いなものとかない?」

 隣に座る石井が声をかけ、葵の小皿を手に取る。

「大丈夫、なんでも食べるよ」

「なんでも食べるなんていいわねぇ。どこかの誰かにも見習ってもらいたいわ」

 葵はチラリと石井の方を見やる。あっちあっち、と石井は父親の方へと視線を向ける。

「ん、んん。パパはあれだ、アレルギーがあってだな…」

「嘘つけー!単に好き嫌い多いだけじゃん」

「あら、そんな話初めて聞いた」

「由香!それにママも…」

 みな、笑みが溢れる。

 いいなぁ、こういう温かい家族って。そう思いながら、葵を囲んだ食事会は続いた。先日の痴漢事件のこと。空手を幼稚園の頃からやっていたこと。勉強をしたくて習い事を辞めたこと。やりたいことはまだ見つかっていないが、東京の大学に行きたいこと…色々と話した。その度に石井の両親は感心し、うちの子にも爪の垢を煎じて飲ませてほしいとか、こんな人が由香の旦那さんになってもらえたら…といった話題も広まった。

 由香の旦那に、と話が広がったとき、石井の父親は一人ぎこちなく会話していてみんなそれを面白がっていた。葵もその場の雰囲気が楽しく、「お義父さん、よろしくお願いします」などとふざけてみた所、ますます慌てふためく様子で皆笑っていた。

 食事の締めはコーヒーと母娘合作の手作りガトーショコラだった。

 父親は一人「由香とママの愛情がこもったケーキは美味しいなぁ」とこぼすが「これはアオイのためのケーキだから、パパへの愛情は入ってないよ」とすぐさま返されていた。それでも本気ではないとみんながわかっているから笑いに包まれる。

(美味しい)

 売っているケーキと遜色ないおいしさ。先ほどまで食べていた料理もほぼ石井とママさんの手作りだから料理は得意なのだろう。

 手作りのケーキを見て、食べて、葵は幼い頃母親と一緒に作ったホットケーキを思い出していた。

 混ぜるたびにこぼしてしまったこと。うまくひっくり返せずベシャっと伸びてしまったこと。火加減を間違えて焦がしてしまったこと。そこを食べて苦い思いをしたこと…。

(なんで今、こんなことを)

 石井の家族に囲まれて、楽しく過ごしていたはずなのに。

 なぜ、今仮初の家族のことを思い出してしまうのか葵にはわからなかった。

 心の奥底にある、家族の絆への渇望。

 理想的な石井の家族。

 対比される、「自分」を出せないこの肉体の家族。

 かつて、共に過ごした「愛」の家族…。

 光と影のように真逆な関係。そこでの気持ちが対比され、惨めな気持ちになっていた。

「アオイ、どうしたの?」

「ううん、なんでもない。ちょっとお腹いっぱいになっちゃって」

「お腹いっぱいになってくれたならよかった。男の子ってどのくらい食べるかわからないからちょっと作りすぎちゃって」

「苦しかったらそこのソファで休んでてもいいぞ」

「食べてすぐ横になるから、そんなお腹になっちゃうんだよ。それに、みんないたら落ち着いて横になれないでしょ。アオイ、食べ終わったら私の部屋に行こう。見せたいものがあるんだ」

「見せたいもの?」

「そう、別にいいでしょ?」

 石井はチラリと母親を見やると静かに頷く。

「そんなぁ、もう少しお話ししてようよ」

「パパ、若者は若者同士の方が楽しいのよ」

「いえ、たくさんお話しできて楽しかったです」

「じゃあ、これ食べたら行こうね」

 石井は味わいながらも食べるペースを上げる。便宜上満腹を装ったが、男の体である以上もう少し食べられたが、葵もなるべくペースを合わせる。お客様だからとはいえ、多少遠慮はしていた。

「ご馳走様」

 石井は先に食べ終えると食器をキッチンへと運ぶ。

「ご馳走様でした。どれも美味しかったです」

「お粗末さまでした。あ、そのまま置いといていいから、気にしないで」

「すみません、ありがとうございます」

「それじゃ、また後でね」

 石井は両親にバイバイと手を振る。母親はにこやかに手を振りかえすが、父親はやや寂しそうだった。共に食卓を囲み、信頼に値する人だと思われたようだった。葵自身、そうするよう努めてきたし、男女の貞操を乱すようなことをするつもりも葵にはなかった。中身が女の子であると勘付いている石井もその点を疑う余地はなかった。

 二階に上がり、石井の部屋に通される。新築の綺麗な八畳程の部屋に机とベッド、本棚、姿見などがあり、カーテンも暖色系でシンプルなものだった。南面には大きな引き違い窓があり、ベランダに出られる。部屋の隅には段ボール箱がいくつかあった。

「まだ片付け終わってないんだけど、まあゆっくりして」

「うん、ありがとう。お邪魔します」

 葵が入るとパタンと扉が閉められる。どこに座ったらいいか検討がつかず、ひとまずベッドを背に腰掛ける。少し離れて、その横に石井も腰を下ろす。

「由香って、いつもあんな感じなの?」

「あんな感じって?」

「お父さんいじったり」

「うん、だいたいね。子離れできないからちょっと遊んであげてるの」

「こわ」

「なんでよ。いいじゃん、みんな楽しくやってるんだから」

「そうだね。俺も一緒にいて楽しかったよ」

「本当?それならよかった。緊張して疲れちゃったんじゃないかなって思ってさ」

「俺は大丈夫だよ。気を遣ってくれてありがとう」

 石井の優しさが嬉しかった。葵としてはあのままみんなと過ごしても大丈夫だったが、由香と二人の方が気が楽だとも感じていた。

 不意に扉がノックされる。

「由香、ちょっといい?」

「はーい、開けていいよー」

 母親が扉を開け、その場で話を続ける。

「パパとママ、ちょっとお出かけしてくるね。パパ、来週出張だから」

「出張?そうだっけ?」

「この前も言ったでしょ、ちゃんと聞いておいてよ」

「ごめーん」

「アオイ君、そんなわけで私たちは外すけど、予定もあるだろうから無理に待ってなくて大丈夫だからね。ゆっくりしていってね」

「はい、今日はありがとうございました。お料理、みんな美味しかったです」

 立ち上がりお礼を述べる。石井の母はにこやかな笑みを浮かべて続ける。

「ありがとう。うちなんかでよければいつでも来てね。転校したてでこんなに仲のいい人ができるなんて思ってもみなかったから。これからも由香と仲良くしてあげてね」

「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」

「それじゃ由香、出かけてもいいけど戸締りと火の始末だけはお願いね」

「はーい、ママ達も気をつけてね」

 そう言って手を振ると扉は再び閉められ、階段を降りる足音が聞こえてくる。程なくして車のエンジン音が聞こえたかと思うと次第に小さくなって聞こえなくなった。

「パパさん、出張なんだ」

「うん、こっちに転勤はしたけど、向こうでやらなきゃならない仕事があるんだって。だからしばらくは行ったり来たりになるみたいだよ」

「そうなんだ。大変だね」

「まあ…忙しい方がいいんだよ、きっと。それよりさ、アオイに見てもらいたいものがあるの」

 石井は立ち上がり、クローゼットの方へ足を運ぶ。扉を開けると、ハンガーラックにかけられた洋服と可愛らしいタンスが現れる。

「アオイも来て」

 促されて石井の隣に立つ。女の子らしいワンピースやロングカーディガンなど、色々なタイプの服がある。もちろん、この前石井が着ていたりActiveに載っているような服の割合が多いが。

「アオイさ、この中に着てみたい服、ある?」

「え…」

 突然の石井の申し出に、葵の思考が固まる。目の前にあるのは全て女の子の服。見えているだけでも、好みの服はいくつかある。

「この前、stepでも他のお店でも一緒に服見てたじゃない?楽しそうだったから、興味あるのかなって。背も私とそんなに変わらないし、着られるんじゃないかなって思って」

「でも…」

「あ、着替えは見ないから安心して」

「いや、そうじゃなくて…」

 着たい。内心着たくてしょうがない。目の前にある、女の子の服を。きっと、タンスを開ければ綺麗に仕舞われているスカートも、シャツもあるはずだ。でも…。

「でも…俺、男だから」

 男。この体が男である以上、許されないことだと思っていた。

 女装…。近年でこそ、男の娘のように女装には性的な欲求を満たすためだけのものではないという認知も広まってきているが、多くの人はネガティブな印象を抱きがちだ。葵も実はその考えがあって、女の子の服を着たいという思いを内に秘めたまま過ごしてきた。

 一人称も、喋り方も、男らしくして。

「そりゃあ、男だけどさ、こっちきて」

 おもむろに腕を掴まれ、姿見の前に引き摺り出される。

「どう?男の子に見える?」

「…うん、見える」

「クラスの男子と比較しても?黒田とか」

「いや、黒田じゃ比較にならんしょ」

 黒田とは葵達のクラスにいる男子生徒で、柔道部の次期エースと呼ばれている逸材だ。そのため体格も良く、見た目も実に男らしい。

「じゃあ春美は?」

「…それ、俺の口から言わせる?」

「…アオイの方が可愛い」

「俺はノーコメントで」

 春美も同じクラスの女の子で、顔はお世辞にも可愛いとはいえないがひょうきんな性格で人気が高い。休み時間や昼休みには春美を中心に女の子たちが集まってワイワイやっているのが聞こえて来る。

「確かに体は男かもしれないけどさ、アオイは可愛い方だと思うよ。だから絶対似合うと思う」

「それって俺が丸顔で童顔だってこと?」

「そういう自虐的なこと言わない!…嫌ならいいけど」

「しょうがない、今日はお呼ばれしちゃったし、一回だけね」

 女の子の服を着るまたとない機会、逃したくはない。「でも、ここまで言われたら仕方ないよね」と自分を擁護する建前も整った。

 女装するんじゃない。由香の頼みで着るだけだ、と。

「よし、そうと決まればどれにする?好きなの選んでいいよ」

「んーと、そうだなあ…」

 ハンガーラックにかけられた服を一枚一枚ずらしながら見ていく。その度に、女の子のような甘い匂いがして脳の奥が揺さぶられるような気がしていた。この体が男だから、女の香りに敏感なのだろう。愛の頃は友達といても何も感じなかった。

 服を見ていくと、ハンガーラックにかけられているだけあってワンピースやロングカーディガンなど丈の長い服が多い。もちろん、学校の制服もそこにかけられていた。

「これ以外はタンス?」

「そうだよ。パーカーとかスカートはそっちかな」

 目星はついたが一応、どんな服があるか見てみるかと、取っ手に手をかける。この前一緒に見て回ったからなんとなくはわかるが、石井の服の趣味も気になっていた。自分と合わない趣味ではない、と感じていた。

「あ…」

 二人の声がハモる。引き出しを開けた葵の目に飛び込んできたのは赤や黒といった下着の数々だった。

「ごめん…」

 そう言ってそっと引き出しを戻す。

「アオイのえっちー」

「いや、不可抗力だから…」

「ほんとかなー?」

「当たり前じゃん、今日初めて入ったんだから」

 石井はいつもより笑みを浮かべて楽しそうだった。

「下着はちょっとごめんだけど、キャミくらいならいいよ」

「マジか」

「だって、男物のシャツの上にブラウス着たって雰囲気出ないじゃん」

「なんの雰囲気だよ」

「さあね〜」

 こいつ、楽しんでる。小悪魔的な反応を見せる石井に対して心の中でそう思う。やっぱりたぬきは石井だ、と。

(結構、下着派手なんだな…)

 今日の黒のタンクトップの下は何色なんだろうか…と、これも愛の頃は思いもしなかったことが一瞬頭をよぎる。そんなことを考えながらお目当ての服を探す。

「どう?見つかった?」

「うん、これにしようかな」

「お、いい趣味してるね。私もそれ、好きだよ」

 葵が手に取ったのはAラインの白いワンピースだった。襟がついてて丈は膝上くらい。襟元から裾までをボタンで止めるタイプだ。Activeには載っていなさそうな服で、過去二回見ている由香の服装とも少し違うようだ。

「あっち向いててあげるから、終わったら声かけてね。あ、キャミ着る?」

「…いいの?」

「もちろん。下着の隣に入ってるけど、自分で選ぶ?」

「いや、さすがにそこはもういいかな」

「じゃあ、テキトーに選んでもいい?」

「うん、いいよ」

 石井が取り出してくれる間、姿見の前でワンピースを体に合わせてみる。

(これを着るんだ。今から)

 葵の鼓動は速くなっていた。女の子の服に袖を通すのは実に十五年ぶり…愛が亡くなったその日以来、初めてのことだった。

「はい、これ。それじゃ、ごゆっくり」

「うん、ありがと」

 水色のキャミソールを受け取ると、石井はデスクに向かう。そこはちょうど姿見が背中側に来るので、視界には入らない。手にしたキャミソールから、サテン調のサラサラとした感触が伝わる。

(懐かしい…)

 あの頃は…愛の頃は毎日のように着ていたもの。再び手にできる日がこんなにも早く来るとは思っても見なかった。思わず、涙がこぼれそうになる。

 そのことを悟られないよう、服を一枚一枚脱いでいく。

 部屋は静まり、葵が着替える音しか聞こえない。ベルトを外してズボンを下ろす。視界には見たくもないものが収まった下着が露わになる。視線を逸らし、上着のボタンに手をかける。男物のボタンの止め外しも、慣れたものだった。

 シャツを脱ぎ、これまでに脱いだ服の上に投げ捨てる。普段なら絶対にしないことだが、この日は違った。早く、このワンピースを着たい。ただ、その一心だった。

 石井に借りたキャミソールを広げる。

(着るんだ、ついに)

 思わず生唾を飲む。大きく息を吸い、呼吸を整える。まずは左腕から。

(あ…)

 考える必要はなかった。体が自然と動いてキャミソールを身につける。肩紐の感覚、胸や背中からサテン調のサラサラとした感触が伝わる。

(これを、求めてたんだ)

 葵の頬を一筋の涙が伝う。

 長かった。十五年年間待ち望んだ女の子の服に今、袖を通した。

 手の甲で涙を拭い、ベッドに置いたワンピースを手に取る。もう、迷いはなかった。全てのボタンを外し、サッと袖を通す。あの頃の感覚のまま。

 男女逆のボタンも、何一つ違和感なく、十五年のブランクを感じさせることなく止めていく。最後のボタンを止め終え、再び姿見に目をやる。

 静寂が二人を、部屋を包みこむ。

「終わった?」

 石井は声をかけるも返事はない。

「アオイ、悪いけどちょっと見ちゃうね」

 音の様子から着替えは終わっていると踏んでのことだが、振り返って驚きを隠せなかった。髪は短めなものの、そこには肩を震わせ、涙を流す一人の女の子がいた。

「ちょっと、アオイどうしたの、大丈夫?」

 葵は答えない。ただ、涙を流すばかりだった。

「ごめん、そんなに嫌だった?私、そんなつもりじゃなかったの、ごめんね」

 予想だにしない葵の反応に、石井は取り乱していた。彼女の言葉に、葵は首を横に振る。

「違うの。嬉しくて…」

 えぐえぐと、抑えきれない涙がとめどなく溢れ出す。

「ずっと…ずっと、着たかった…」

 そう言うと、葵はその場に泣き崩れてしまった。石井は隣に寄り添い、そっと肩を抱くことしかできなかった。


 ひとしきり泣いて落ち着いた葵はベッドに腰掛けていた。目はすでに泣き腫らして真っ赤になっている。

「落ち着いた?これ、よかったら」

「ありがとう」

 グラスに注がれた水を口に含み、緊張と涙でカラカラになった喉を潤す。

「振り向いたら泣いてるんだもん、ビックリしちゃった」

「驚かせてごめん、もう、落ち着いたよ」

「ならよかった。着てみてどう?」

 葵は一呼吸置いて答える。

「やっぱり、女の子の服っていいね。ずっと、憧れてた」

「そっか。無理矢理着せた感があったけど、アオイが喜んでくれたならよかった」

「ありがとう、由香」

「何が?」

「今日って、このために呼んでくれたの?」

「あ、バレちゃった?半分は正解かな」

「もう半分は?」

「うちの人がアオイに会いたいっていうのと、この前のお礼がしたいってこと」

「俺に?」

「そう、あの日家に帰ってパパにも話したら『娘の恩人だから会ってみたい』なんて言い出してね。ホントは友達と図書館に行くって言ってたのに、男の子といたんだもん。気になるよね、そりゃ」

「言ってなかったの?」

「友達と行くとは言っておいたよ。でも男女までいう必要はないと思ってね。私を信用してほしいし」

「そう、だね」

「今日の様子だと、パパもママもアオイは合格だと思うよ」

「何に?」

「私の彼氏に」

「はあ、何言ってんの」

「あ、ヤダ?もっと可愛くて清純そうな子が好み?」

 石井はまた、いつもの笑みを浮かべて楽しそうにしている。

「そういうことじゃなくて…」

「わかってるって、ちょっといじわるしただけ。ごめんね」

「…俺のこと、からかって遊んでない?」

「遊んでないし。あ、そうだ。二人の時くらい『俺』っていうのやめない?無理しなくていいと思う」

 だから俺は…と否定したところでどうにもならないことは経験済みだった。

「…とりあえず、『俺』のままでいさせて。嫌だけど、他の人の前で『私』なんて言ったら最悪」

「そうだよね。使い分け、めんどくさそう」

「ありがとう、そう言ってくれて」

「ううん。ねぇ、せっかく着替えたんだし、立って見せてよ」

「ああ、いいよ」

 石井はベッド腰掛けたまま、葵を見つめる。立ち上がった葵は石井の正面に立ち、ヒラリと身を翻してワンピースの裾をはためかせる。

「へえ、うまく着こなせてんじゃん。初めてとは思えない」

「そりゃどうも」

 裾を摘み、おどけておじぎをして見せる。

「なにそれ、おもしろ」

「悪かったな」

「ねえ、ちょっと鏡見てみて」

 石井に促されるまま、姿見に向き直る。

「他に何か合わせたいものある?バッグとか」

「んー、今はこれで十分かな。ありがとう」

 言い終えた時、カシャっというシャッター音が静まり返った部屋に響く。

「なにすんのさ」

「何って、盗撮〜」

「盗撮って…」

「だって、写真撮らせてって言っても撮らせてくれないでしょ」

「当たり前だよ、消してよそれ」

「やだよ、綺麗なんだもん。ほら」

 いつの間にか隣に立ち、石井はカメラのシャッターを切っていた。不意の撮影に慌てる葵は画面を見せられて固まる。女の子がそこには写しだされていた。

「これ、俺…?」

「そう。鏡見てみて」

 肩を掴まれ、強制的に向き直させられる。

 写真と同じ服を着た、見まごうことなき自分がそこにいた。

「今は髪短いけど、伸ばせばもっと女の子っぽくなるかな。ウィッグ使う手もあるけど」

 葵は再び固まり、思い出していた。

 期待を胸にホルモン剤に手を出し、副作用に苦しんでいた日々を。全てを投げ出してしまいたいと泣いていたあの頃。女の子になりたいと願い、この体を呪っている日々。その一日一日が救われたような気がした。

「ありがとう」

「いいえ。ねぇ、ちょっといい?」

 石井は葵の横に並んでスマホを掲げる。画面には葵と石井が写っている。

「あ…」

 気づいた時には遅かった。

 石井と葵のツーショット写真がそこには収められていた。

「これなら、いいでしょ?私も写ってるから盗撮じゃないし」

「いや、勝手に撮ってる時点で盗撮だよ。ひどい顔してるし」

「じゃあ消しちゃう?綺麗に撮り直す?」

「…いや、いい。その写真がいい」

「じゃあ、送ろうか?」

「うん、お願い」

 葵のスマホのバイブ音が二回聞こえる。

「これなら、由香に女装させられて盗撮されて泣いたって言い訳ができる」

「そんな使い方、する?」

「いや、しない。しないけど…これは大切に取っておくよ」

「うん、それがいい。アオイの女の子デビュー記念だもんね」

「由香…」

「なに?」

「ありがとう」

「どういたしまして」

 今日、何度言ったかわからない感謝の言葉。

 泣き腫らした顔だが、葵は石井に笑顔を向ける。それは今まで生きてきた中で葵が、愛が見せた心からの笑顔だった。

(とんだたぬきがいたもんだ)

 しかも、とびきり優しいときている。

 彼女と出会ってからの葵は…愛は、心が救われて満たされているような気がしていた。

 それはまるで、色褪せて乾いた日々が色付き、潤うかのようだった。

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