第十八錠 二人の誕生日
花火大会の日に思いを伝えてから、二人は会う日が増えた。何せ葵達の通う学校は三学期制のためすでに期末テストも終わり、楽しい夏休みに入っている。
日中は図書館やお互いの家を行き来して夏休みの宿題に取り組む。恋の魔法のせいなのか、いつぞやの中間テストのようにさっさと勉強道具を片付ける事もなく、石井も真面目に取り組んでいる。
二人並んで勉強し、石井がわからない所は葵が教えていた。教え終わると「ありがと」の一言と共にキスを要求される事がある。本人は御礼のつもりかもしれないが、目を閉じて葵の方へキス顔で迫る。葵もまんざらではなく、顔を綻ばせながら応じる。あの日と違って、ソフトに。
お互いの思いを確かめ合ってから、石井は積極的になった。二人で出かければ手を繋いだり腕を組んだりと距離は近い。腕を組む度に伝わる柔らかな感触。自分にもかつてあったもの…石井はこの感触を、相手がどのように受け止めるのか理解しているのだろうかと葵は少し心配になる。変な気を起こすつもりはないが、この柔らかさが心地よく、なぜか心落ち着いた。
出かけず部屋にいる時でもその姿勢は変わらず、対面ではなく隣り合って座り、ソファでテレビを見ている時でも腕を組んできたりと、スキンシップが増えてきていた。
葵も石井と触れ合うことに抵抗はなく、安心感を覚えるため応じている。まるで、小さい頃から求めていた親子の愛情の代償とするかのように。そうする事で、お互いの心がより満たされていると感じていた。
七月も終わろうとしていたある日。今日もいつものように石井の部屋で服を借り、夏休みの宿題をこなしている。今回はパフスリーブのブラウスとミニスカートを選ぶが、これもActiveには載っていなそうな組み合わせだ。毎回、着替えて早々に写真は撮られるが、あの頃と違い自然と笑顔を向ける事ができるようになっていた。カメラマンが石井だから、かもしれないが。そうして一時間ほど勉強した後の休憩時に石井が声をかける。
「ねぇ、アオイって来週の土曜日暇?」
「暇というか、予定は何もないけど」
「じゃあさ、昼間うちに来てくれない?私の誕生会やるの」
「あれ?誕生日、その日じゃないよね?」
「うん、そうなんだけど…お姉ちゃんと私って、誕生日二週間しか違わないんだ。だから、間の週に二人一緒にお祝いしてるの。お姉ちゃんは亡くなっちゃったけど、それだけは今も続けてて」
「お姉さんも大切な家族、だもんね」
「うん…だから、アオイにお祝いに来てほしいなって。パパもママも、カレシがカノジョの誕生日お祝いに来るの、喜んでくれると思うし、人数多い方が楽しいと思うから」
「私はカレシか」
「今は、ね。そのことでお願いがあるの…」
石井は相談事を葵に耳打ちする。両親は仕事で留守のため聞き耳を立てる者などいないが、やはり秘密裏に進めたいことなのだろう。石井が話を終えるまで葵は意見する事なく、相槌を返していく。
「…って思ってるんだけど、どうかな?」
「…由香、本気?」
「私は本気だよ。私はアオイと前を向いて、胸を張って生きたいの」
「…失敗したら?」
「その時はその時考える!」
石井の目は真剣そのものだった。失敗した場合を想定せず、逃げ道を作らずに成功させることしか頭にないようだった。
(言っても聞かないのはいつものことだし)
意志の強さに感服し、葵も腹を括る。
「いいよ、やろう。いつかは通らなきゃいけない道だと思ってたから」
「いいの…?」
「うん、私も協力する。というか、これだと何がメインだか分からないね」
「それは…ね。でも、どれも大切なことなの」
「わかるよ。当日は誠心誠意、対応するから」
「ありがとう」
「ううん、なんか、逆に背中押してもらった気がする。お互い、頑張ろう」
こうして、葵と石井は秘密の計画を実行に移すことを決めた。この計画がうまくいけば、色々な問題が解決する。石井には成功の二文字しか見えていなかった。
計画を立ててから時が経つのは早く、あっという間に誕生会当日を迎えた。ある程度の流れと展開を予想してどう切り出すかを検討はした。それでも、お互いに原稿や台本を作るようなことはしなかった。作られた綺麗事の台本より、辿々しくても内から出た言葉の方が気持ちが乗ると、言葉に出さずとも感じていた。
葵を誕生会に招くことについては両親にも快諾されている。何度か共に食事をしているし、友達ではなく恋人としてお付き合いしているのも了承済みだ。お互いが通じ合っている上、葵の人柄もあって親公認の仲となっている。父親だけは少し複雑そうだったが、葵の誠実な態度に首を縦に振ってくれていた。
ピンポーン。
石井家のチャイムを鳴らすと、まもなく石井が出迎えに来る。もう、何度も通っているためバス停からの道案内は不要となっていた。
「おはよ」
「おはよ。雨大丈夫だった?濡れてない?」
「うん、大丈夫。いよいよ、だね」
「うん」
「精一杯、やれるだけのことをやろう」
「そうだね」
「緊張、してる?」
「うん、ちょっと…」
「由香でも緊張することがあるとは珍しい」
「な、何よ、人をなんだと思って…」
「由香〜、玄関で話してないで、早く上がってもらいなさい。濡れてたらタオル渡してあげて」
「はーい!それじゃ、またあとでね」
石井はパタパタとキッチンへ駆けていく。今ので緊張が解けたならいいけど、と葵は思いつつ、リビングへ向かう。今日は八月だというのに季節外れの雨が降っていた。土砂降りでは無くシトシトと降り続いている。
「お邪魔します」
「おお、アオイ君、雨の中よく来てくれたね」
「今日はお誕生日会に招いていただきありがとうございます」
「いやいや、一人でも多い方が楽しいだろうからね。由香も来週で十五歳だもんなぁ。早いものだなあ」
ダイニングテーブルは準備中のため、リビングのソファへ通される。L字型に配置されているため二人は直角に、膝を突き合わせるように腰掛ける。
「早いもの、ですか?」
「うん。生まれたばっかりだと思ってたらいつの間にか歩くようになって。幼稚園に入ったと思ったら小学校。気がついたらもう十五歳の中学生なんだもんなあ」
「そう、ですね」
父はキッチンで母親と準備する由香のことを見つめる。父の脳裏には、これまでの由香との日々が思い出されているのだろう。
「こうして、元気に大きくなってくれて、素敵な彼氏もできて。ちょっとずつ親離れしちゃうのかなぁ」
「やっぱり、寂しいものですか?」
「そりゃあねえ。今までは『パパー、パパー』っていつも来てたのに。それが今じゃアオイ君にべったりだからなぁ」
「すみません…」
「いや、いいんだよ。遅かれ早かれこうなることはわかっていたからさ。それでもいざこうしてその時を迎えると、ね」
父は目を細めて準備に勤しむ由香のことを変わらず見つめていた。愛の頃は父親とも仲が良かったため、そんな寂しい思いはさせなかったと振り返りつつ、葵の親子関係はどうなんだろうと考え込んでしまう。いつも仕事で忙しくしている父、父よりはまだマシだが何を考えているかよくわらない母親。どうして、うちは石井の家とは違うのだろうか、自分の両親も親離れが寂しいのだろうかと思いを巡らせるが、考えた所で結論は出ない。
「お待たせしました、準備できましたよ」
「お、待ってました」
石井の母に声をかけられ、二人連れ立ってテーブルに着く。今回も豪華な料理が並び、中央には誕生日ケーキが置かれている。白いイチゴのショートケーキの真ん中に、ハッピーバースデーと書かれている。
「豪華だねぇ。それじゃ、始めますか…」
「ちょっと待って」
誕生会を始めようとした父を由香が遮る。
「あのね、パパ、ママ。聞いて欲しいことがあるの」
「どうした、由香。改まって」
「今日、私の誕生会でもあるんだけどさ、前は…お姉ちゃんも一緒にお祝いしてたよね。亡くなってからはしてないけど、写真くらいは出しててさ」
由香の発言に、両親は表情が固まる。
「由香、何もこんな日に…アオイ君だって来てるんだから」
「今日だからだよ!前は、私たちの誕生日だったんだから…」
静まり返る部屋には雨音だけが聞こえて来る。父も母も視線を落とし、少し間をおいて由香が語り出す。
「私、知ってるの。お姉ちゃんが亡くなってからお母さん、時々夜中に一人で泣いてるの。お父さんだって見せないようにしてるけど、お姉ちゃんの写真持って、じっと眺めてることがあるのも。それでお酒の量が増えてることも、知ってる…」
「由香…」
「私だってお姉ちゃん好きだし、忘れたくない。大好きだよ。だけど…お姉ちゃんも本当はハタチになるんだよ。もうそろそろ、私たちも自分達の幸せを探してもいいと思うの。お姉ちゃんだって、そう願ってるよ」
「由香…」
やめて…と母の目は懇願していた。今まで見せたことのないくらい、悲しい顔をしている。両腕を抱き、悲しみを堪えているかのようだった。
「由香の気持ちもわかる。わかるけど…こればっかりはどうしても…な」
父も眼鏡を外し、目元を押さえる。
「わかってる。私だってお姉ちゃんのこと忘れたことないし、今でも会いたいよ。生き返って欲しいし、夢でもいいから会いたい。会いたいけど、もう会えないんだよ…。だから、私は、私らしく生きることをお姉ちゃんに見ててもらいたいの」
「由香…?」
「私は…お姉ちゃんがいなくなってから、お姉ちゃんの代わりになろうとした。死んだのがお姉ちゃんじゃなくて私なら、パパもママも、こんなに悲しまなかったんじゃないかって苦しかった。だから、私がお姉ちゃんみたいになれば、二人ともまた元気になって、笑ってくれるって、そう思ってた」
「由香、それは違うよ」
「でも、パパもママも、私の事は見てくれないで、ずっとお姉ちゃんのこと思ってた。私は、それが悲しくて苦しかった。」
由香の目には涙が浮かんでいる。今にも溢れ出しそうな程。
「辛い思いをさせてしまってすまない。十五年間、一緒に暮らしてきた娘を突然奪われたんだ。ママも辛かったし、パパも辛かったんだ。だけど、由香は明るく元気に過ごしているから大丈夫なんだと思ってしまっててね…。ごめんよ」
「…パパも、私も辛かった。それでも、葵じゃなくて由香が死ねばよかったなんて、ママもパパも、思ってない。本当なら…ずっとずっと、四人で暮らしたかった」
姉じゃなくて、自分が死ねばよかった。その一言は葵の胸にも刺さっていた。あの時。花火大会の日に語られた石井の言葉にはなかった。誰かのために、誰かになろうとした。でもなりきれずに自らを苦しめていた。姉の代償にもなれない、両親も自分を見てくれない。その悲しみと絶望は自らの存在をも否定してしまうほど辛かったんだなと心の中で思う。沈黙の中、両親が目の前にいなければ抱きしめてあげたいと、「私は由香がいてくれてよかった」と、心も体も抱きしめてあげたいと思っていた。
「パパはね。由香も葵も大好きなんだ。だから、由香が元気にしている姿を見ると安心して元気をもらえてたんだけど…ずっと、無理させていたんだね。気づかなくてごめん」
「ごめんね、由香」
「パパもママも、時間はかかるかもしれないけど、由香の思いは伝わったから。もう、寂しい思いをさせないよ」
「みんなで、葵の分まで生きよう」
「…うん」
「パパもママも、二人のことは大好きだし、忘れた事はない。二人とも、大切な娘なんだ」
「ママもよ。短かったけどこの四人で共に過ごした時間はかけがえのないものなの。すごく、大切で幸せな思い出なの。だけど、もう葵の影を追いかけなくていいから。由香の思うように、生きたいように生きよう」
「…うん」
大好き…その言葉を耳にした時、石井の頬を涙が伝う。溢れ出る涙が止まらなかった。ずっと求めていた言葉。あの日から…姉・葵が亡くなった日からずっと耳にしていない、聞きたかった言葉。乾いていた大地を雨水が潤すかの如く、石井の心が満たされていく。
「由香」
「…うん、ありがと」
葵からハンカチを受け取り涙を拭う。ひとしきり拭き終えたあと、石井はチラリと葵のことを見やる。葵は無言で頷き、応じる。作戦、第二段階開始の合図だ。
「ありがとう。二人の気持ちが聞けてよかった」
「私たちもよ。そんな風に思っていたなんて気づかなくてごめんね。親、失格だわ」
「そんなことない、私もパパのこともママのことも、大好きだから。二人の子供で、お姉ちゃんがいるこの家に生まれてよかった」
言い終えると葵にハンカチを返し、アイコンタクトをとる。葵の瞳も由香同様に決意に満ちていた。
「あのさ、パパもママも私たちが付き合ってるの、認めてくれてるでしょ?」
「そりゃあ、もちろん…」
「だから、お願いがあって…お姉ちゃんの服、少しアオイにあげたいの」
「ちょ、待て由香。なんでアオイ君に葵の服をあげるんだ。いくら恋人だからって…」
そう言いかけた父の言葉を遮り、由香がスマホの写真を見せる。
「これ、見て。私とアオイの写真」
「これ…葵の…」
画面には由香の服…もとい、姉・葵の服を借りて撮った写真が表示されている。葵が初めて着た白のワンピースで撮ったツーショット写真。
その他にも由香の部屋に遊びに来た時に借りて着た服や、夏祭りの浴衣…。葵一人のポートレートもあるし、由香とのツーショット写真もある。これまでActiveとは系統が違うと思っていた服は全て由香の姉、葵のものだった。ちょうど十五歳で亡くなっているため、服のサイズも同じくらい。それを由香が着ていて、葵もそうとは知らずに選んで着ていた。
「アオイくん、由香、これはどういう…?」
由香の両親は状況が理解できていなかった。なぜ、娘の服を彼氏が着ているのか。確かに似合ってはいるけれど、そういう趣味の持ち主なのかと、これまでの関係を疑ってしまう。
「これは俺から話すよ」
これまで押し黙っていた葵が口を開き、姿勢を正す。
「実は俺…いや、私、トランスジェンダーなんです。体は男だけど、心は女っていう、あれです」
「そ、そうなの…?確かに、中二にしては幼いし、可愛らしい子だなとは思っていたけど…」
「黙ってて、隠してたみたいでごめんなさい。でも、私たち、真剣なんです。由香さんのおかげで生きることが楽しくなって、大切な存在になって。できることなら、このまま一生を添い遂げたいと思っています」
「私も、アオイが好き。お姉ちゃんがいなくなって寂しくてつらくて。でも、それはパパも、ママも同じで。お姉ちゃんの代わりになろうとしたけど、私には無理だった…。どうしたらいいかわからなくてずっと苦しかったけど、アオイと出会って、考えが変わって…。私たち、お互いがお互いを必要としてるの。だから…」
「だから、改めてなんですが、交際を認めてください。こんな、私ですが…。今は男の体ですけど、もう薬も長いこと飲んでいるからお孫さんの顔を見せてあげられないし、将来のことを考えると今の制度では結婚もできなくなると思います。それでも、私たちは二人で、前を向いて生きたいんです。よろしくお願いします」
葵と由香は席を立ち、深々と頭を下げる。やれる事は全てやった。これでどのような返答が来ようと後悔はなかった。石井の両親は顔を見合わせ、視線を交わした上で頷く。
「二人とも、顔を上げて」
しばしの間の後、父親が声をかけ、葵と由香はゆっくりと向き直る。
「まあ、座って。ちょっと驚いたけど、二人の気持ちは伝わったよ。話してくれてありがとう。アオイ君…じゃないね。アオイちゃんも、由香のことを大切に思ってくれてるし、由香にとってもアオイちゃんは大切な存在なんだね」
石井の父は驚きを隠せなかったが、努めて穏やかに話す。
「今は男だけど将来は…っていう事は、やっぱり手術を?」
「はい。心は女性なのに、男の体でいる事に違和感を…と言うか、嫌なんです。これは本当の自分じゃない感じがして」
「そう…か。うん…」
天井を仰ぎ見ながら、石井の父の脳裏には色々な事が駆け巡る。大切な娘に彼氏ができた。良い人そうだし、中学生なのに東大へ行くとか考えがしっかりしているし、将来は安心かな。その内孫ができて一緒に遊んだりお年玉を渡したり…という未来を思い描いていた矢先、それが全て崩れ去ってしまった。自分には関係のない問題と考えていた性的マイノリティ。当事者になったものの、当人の気持ちを考えると二人の意思を無下にはできない。
「このことを、ご両親は?」
「いいえ、知りません。今は話すつもりもないです」
「話さないまま、手術を受ける?そういう病院は通っているの?」
石井の母も口を挟む。手術を受けるとなれば子供の意思だけでできるほど、簡単なものではない。
「病院は通っていません。保険証は親が持っているし、勝手に使うとバレるので…。薬は個人輸入して飲んでいます。ホルモン療法も手術も、どちらにせよ二十歳を超えないと受けられないので…。手術は将来お金を貯めて受けようと思ってます。親にも、由香さんにも迷惑はかけません。私は、本来のなりたい姿になりたいだけなんです」
評価としては、最低だなと葵は思う。病院にも通わず個人輸入した薬を服用し、親には内緒にしたまま手術まで受けるつもりでいる。こんな自分勝手で身勝手なやつに娘を預けられるはずはない、と、言われることを話す前から予想していた。
「どうして、親に話さないの?何か訳でもあるのかな?じゃないとこんな大切なこと、1人で抱えたりしないよね?」
父が穏やかに語りかける。本来ならば、性別異和を覚えた時点で家族に相談があってもいいはず…ましてや、家族に言わずに薬を個人輸入など、普通の中学生のやることじゃないと感じていた。家庭事情や性に関することについては、センシティブすぎて話せないことの方が多いのだが、聞いておかなければならない。真の意味で、理解するためにも。
「うちは父が事業をやっていて、厳しいんです。物心つく前から空手にスイミング、学習塾と習い事が始まっていました。幼い頃、女の子の服を着たいと言った事はありますがお前は男の子だからと却下されて。他にも、お箸の持ち方や戸の開け閉めといった所作や話し方も厳しく指導が入って直されました。親の望むままに。だから、素の自分でいるよりも、親の理想の子でいなくてはならなくて。そんな調子なので、心は女の子なんだと言った所で受け入れてもらえないと思っています」
「そう、か…。うん…」
「こんなこと聞くのもなんなんだけど…アオイちゃんはご両親との関係はあんまり、その、よくないのかしら?」
「はい…。父は仕事で忙しくしていて、朝と夜に顔を合わせるくらいです。母とも、段々と疎遠になってしまいました」
「ママさんの方はアオイのこと、すごく好きなの伝わってきてるよ。私はママさんと仲良いし、アオイのことを心配したり大切に思ってるはずだよ」
会って、話をしたことのある由香だからこそわかることを飾ることなく援護する。それでも、前述の事項に加えて両親との関係も悪いのでは詰んだな、と葵は思う。上部だけ良いやつと思われても仕方ないと、自嘲するしかなかった。この親子関係は、自分自身で作り出したのかもしれないなと、話しながら思っていた。この体が、男で、心は女の子…愛だから、と。
「そうか…。お家のことを詳しく聞くのはこれが初めてだけど、なかなか大変だったんだね」
石井の父は変わらず穏やかに話す。
「おうちの人も、アオイちゃんに何かを期待して厳しくしてきたと思うけど…聞いていて思ったのは、アオイちゃんがおうちの方と距離を取ってるんじゃないかなって。気を悪くしたら申し訳ないけど、厳しくされて辛かったのはわかるけど、話す前に諦めるのは、ちょっと勿体無いかなって思う」
「そうね。親としては話してもらえないし、距離を取られてると感じると、どう対応したらいいか困ることもあるかもしれないし。一緒に暮らしてるアオイちゃんの気持ちを全て理解する事はできないけど、二人ともあなたのことを嫌いではないと私も思う」
「心と体の性の不一致については勉強不足だから申し訳ないけど…もしかしたらご両親はアオイちゃんから話してくれるのを待ってるかもしれないよ?」
「そう、ですか…?」
「うん…。たぶん。正直、アオイちゃんは男の子には見えにくい。浴衣や女の子の服を着ていればなおさら。たぶん、薬のせいだろうけど…声変わりもしていないし。たぶん、その辺りの変化には気づいているとは思う。けど、何も言わないのは話してくれるのを待ってるんだと思うよ」
「うちの、両親が…?」
待っている、と?どこか当たり障りのない、腫れ物を扱うような空気感のある家で、明るく振る舞っている母も仕事で家を空けがちな父も。自らの言葉で話しかけてもらうことを待っているとは葵には信じられなかった。仮に話したとしても、この気持ちを、心と体の性の不一致を受け入れてもらえるという感覚はない。幼き日の記憶が蘇る。「お前は男の子なんだから」と言われ、否定される姿しか思い浮かばない。
「ご両親に会ったことないのに、こう言っては失礼だったね。アオイちゃんの気持ちも知らずに。それでも、自分がアオイちゃんの親だったら、話してほしいかなぁ。こういうことって、そうかなって思ってても聞きづらいことだし」
「そうね。でもアオイちゃんにはアオイちゃんの考えがあるんだし、無理強いはしないわ。でも、親としては心配はしてると思う」
「…はい」
評価はダダ下がりだなとアオイは思う。これで由香との交際も終わりだなと思い、心の中で謝る。できるだけマイルドに、丁寧に話したつもりだが、自分が間違っていたのかと、石井の両親の言葉が脳内でグルグルと回っていた。
石井の父は隣に座る母と視線を合わせて頷く。父はそっと立ち上がり、テレビの横から写真立てを持ってくる。
「アオイちゃんは見たことあるかな。由香の姉、葵だ。交通事故で亡くなってから五年。もう五年でもあるし、まだ五年でもある」
目の前に立てかけられた写真立てには、長い黒髪の女の子が写っていた。由香と似ているが、目が少し細く、月目のおしとやかそうな子だった。
「パパもママも、一日たりとて忘れたことはない。帰ってきて欲しいと今も願ってる。それが、叶わないことだとわかっていても。けど、頃合い、なのかな。由香も十五歳。葵も本当なら二十歳だ。早いものだな…」
父は由香の母と目を合わせる。母は言葉なく首を小さく縦に振る。
「私たちはまだ時間がかかるかもしれないけど…アオイちゃん、由香を頼むよ。二人が思う通りに生きてほしい」
「パパ…」
「どう…して?」
「どうしてって、正直に話してくれたし、アオイちゃんとご両親の関係に僕たちは口出しできないからね。思う所はあってもさ。それと、娘とその恋人の幸せを願う事はまた別の話だよ。パパもママも、由香のことを信じてる。だから、由香が選んだ人なら、大丈夫だと思うよ」
「たぶん、口には出さないけどご両親は気にかけてると思うわ。由香が遊びに行った時、喜ばれなかった?」
「あー、すっごい驚いてたけど嬉しそうだったかも」
「でしょ?親子関係は微妙かもしれないけど、人を愛せる子なんだなってわかって嬉しいと思うわ。アオイちゃんも、時間はかかるかもしれないけど…考えてみてね。将来のことも、ご両親のことも」
なぜ、こんなにもこの家族は温かくて優しいのだろうと葵は心の中で思っていた。むしろ、度を超えたお人好しなだけではないかと思い始めてもいた。
「うちの葵だって、みんなの幸せを願ってるだろうからね。優しい子だったから。たぶん、この場にいたらアオイちゃんと由香のことを応援してたと思う。パパたちも、前を向いて歩いて行くよ。だから二人も、自分達の幸せの道を歩んでほしい」
「パパ…」
「それと服だけど…ずっとしまわれているより、着てもらった方が葵も喜ぶと思う。いいよね、ママ?」
「そうね。葵の服だって、由香やアオイちゃんが着られるの、あと少しの間だもんね。着てあげてくれるかしら」
「はい、大切にします。由香さんも、葵さんのことも」
「アオイちゃん、ありがとう。辛い時でも困った時でも、なんでもいい。力になるから、話してほしい」
「はい…。ありがとうございます」
葵の目にも、うっすらと涙が滲んでいた。トランスジェンダー…と呼べる存在なのかと疑ってしまうが、心と体の性のことを受け入れてもらえた。その上で信用して交際を認めてくれた。それだけで、葵にとっての味方が増えたような気がしていた。自分のことを理解してくれている人がいる。そう思えるだけで心強かった。
「さあ、食べましょう!なんだか私たちに新しい娘ができたみたいね」
「そうだね。これからもよろしく頼むよ、アオイちゃん」
「はい…よろしくお願いします。あの、嫌じゃなければアオイで大丈夫です」
「そう?…うちの葵とはまた違けど、よろしくな、アオイ」
「はい、よろしくお願いします、お義父さん」
「う、お、お義父さん…」
「なにうろたえてんの。パパが言ったんじゃん。私をよろしくって言うってことはそういうことなんだからね?」
「そ、そうだよな。うん、よろしくな、アオイ」
「はい!」
涙に包まれたしめやかな空気から、いつもの石井家の空気に戻る。みんなの顔はどこか晴れ晴れとしていた。心のどこかに長年引っ掛かっていて、それでも取れないクサビが取れたようだった。取れた後もしばらく痕は残るだろう。ゆっくりゆっくり、時間をかけて癒えては行くが、完全にはなくならない。忘れるわけではなく、受け入れる事…そうする事でしか、この傷を癒すことも前を向くこともできない。
この日は葵と由香の交際再スタート記念となり、石井家再生の日となった。季節外れの雨はいつの間にか止み、空には虹がかかっていた。アオイとこの家族を祝福するかのように。




