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「何も起きていない」が私の仕事でした――解雇された女性文官の話  作者: よみなぎ


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最終話「遅すぎた領主代理ローデリック」

ローデリックの机には、報告書が積み上がっていた。


北街道。


第三倉庫。


西部三村。


ここ数か月で起きた問題の報告書だった。


北街道では、橋の損傷によって大型荷馬車が通れなくなった。


第三倉庫では、西壁から水が入り、小麦百二十袋が廃棄された。


西部三村では、山道の崩落によって薪の出荷が滞った。


どれも別の問題だった。


原因も違う。


場所も違う。


それなのに。


ローデリックは、ずっと引っかかっていた。


席を立つ。


棚から一冊の帳簿を取り出した。


赤い帳簿。


あの日。


くだらないことばかり書いてあると、自分が笑った帳簿だった。


開く。


北街道――荷馬車通行数、三か月連続減少。要調査。


机の報告書を見る。


橋の損傷。


大型荷馬車の通行不能。


商人の流出。


赤い帳簿の日付は、それよりずっと早い。


次。


第三倉庫――乾燥用炭の交換頻度増加。西壁確認推奨。


西壁からの浸水。


廃棄された小麦、百二十袋。


次。


西部三村――薪出荷量減少。市場価格上昇。原因確認推奨。


山道の崩落。


修繕申請は出ていた。


薪の出荷量も、市場価格も記録されていた。


全部あった。


誰も、つなげなかった。


ローデリックは三つの記録を見た。


どれも、大事件になる前に書かれている。


予言ではない。


何かが、いつもと違う。


エレナは、それを見ていた。


ページをめくった。


南部水路――前年同期比で流量低下。原因不明。


ローデリックの指が止まった。


これだけは。


まだ何も起きていない。



翌日。


ローデリックは南部にいた。


水路には水が流れている。


その両側には畑が広がっていた。


作物も枯れていない。


農民たちはいつも通り働いている。


ローデリックは水路のそばに立った。


「水が減っているそうだな」


呼ばれた水路番が答える。


「去年よりは」


「いつからだ」


「夏の初め頃からでしょうか」


三か月ほど前。


赤い帳簿の日付と、ほぼ同じだった。


「原因は?」


「今年は雨が少なかったですから」


ローデリックは水路を見る。


水は流れている。


少ないと言われても、普段の量を知らない彼には違いが分からない。


「これで足りているのか?」


水路番は少し考えた。


「足りている、と言えば足りています」


「どういう意味だ」


「水を入れる時間を延ばしています」


「時間?」


近くにいた農民が口を挟んだ。


「去年なら午前中で済んだ畑でも、今年は昼過ぎまで水を入れています」


「それで足りるのか」


「何とか」


農民は畑を見た。


「順番を入れ替えたり、夜まで水を回したりしてます。みんな今年は雨が少ないから仕方ないと思ってました」


別の農民が笑う。


「枯れてるわけじゃありませんから」


確かにそうだった。


作物は青い。


水も流れている。


農民たちは、足りない分を時間で補っていた。


だから。


何も止まっていない。


ただ、去年と同じことをするのに、去年より時間がかかっている。


「作物への影響は?」


「少し出来は悪いでしょうな」


「どれくらいだ」


「それは収穫してみないと」


農民は肩をすくめた。


「まあ、全滅するようなものじゃありません」


ローデリックは赤い帳簿を開いた。


南部水路――前年同期比で流量低下。原因不明。


エレナにも原因は分かっていなかった。


ただ。


いつもより水が少ない。


それだけだった。


「上流を調べる」


水路番が目を瞬いた。


「上流を、ですか?」


「水が減っている原因を調べろ」


「ですが、かなり長い水路です。全部見るとなると――」


「何人いる」


「今いる者だけでは足りません。水利に詳しい者も必要です」


「呼べ」


水路番が困った顔をした。


「そこまでする必要がありますか?」


ローデリックは答えなかった。


必要があるか。


分からない。


何も見つからないかもしれない。


本当に雨が少なかっただけかもしれない。


人を集めれば金がかかる。


農繁期に人を取れば、別の仕事が遅れる。


三か月前。


同じことを言われたなら。


自分は何と答えただろう。


ローデリックは、北街道を思い出した。


第三倉庫を。


西部三村を。


「調べろ」


水路番はまだ迷っている。


「何も見つからなかったら?」


ローデリックは水路を見た。


「その時は、何もなかったと報告しろ」



調査は翌日から始まった。


水路番。


近隣の農民。


領都から呼んだ水利技師。


そして、今年の作柄と収穫見込みをまとめる担当文官。


上流から順番に、水路を確認していく。


一日目。


何もなかった。


二日目。


何もなかった。


水は少ない。


だが、流れている。


目立った亀裂もない。


詰まりもない。


三日目。


午後になっても、原因は見つからなかった。


「やはり雨では?」


同行した文官が言った。


「今年は川の水量そのものが少なかった可能性もあります」


ローデリックもそう思った。


もう十分ではないか。


これ以上やっても、金と時間を使うだけではないか。


その言葉が喉まで出た。


だが。


「続けろ」


それだけ言った。


夕方。


水利技師が立ち止まった。


「待ってください」


古い分水施設だった。


川から取った水を、南部水路と別の支流へ分けるためのものだ。


外から見れば壊れていない。


水門も立っている。


水も流れている。


技師は水の中へ入り、石組みを調べ始めた。


しばらくして。


顔を上げた。


「人を呼んでください」



翌朝。


分水施設の周囲が掘られた。


水門の下。


見えない場所で、基礎の石組みが沈んでいた。


わずかに傾いた水門の下から、水が漏れている。


本来なら南部水路へ流れるはずだった水だ。


三か月。


少しずつ。


ずっと。


「直せるか」


「直せます」


ローデリックは息を吐いた。


だが。


技師は続けた。


「ただ、遅いです」


「何がだ」


「水門は直せます」


技師は南の農地を見た。


「今年の作物は、元には戻せません」


ローデリックは黙った。


「枯れてはいない」


「枯れないように、農民たちが水を回し続けていたんです」


技師は水路を指した。


「ですが、必要な時に必要なだけ水を使えたわけではありません」


近くにいた農民が、畑へ入った。


作物の一つを手に取り、実を確かめる。


「……やっぱり、小さいな」


ローデリックも近づいた。


「何がだ」


「実です。去年より小さい。数も少ない」


農民は隣の株も確かめた。


「枯らさないだけなら、何とかできました。でも、育てるには水が足りなかったんです」


ローデリックは畑を見た。


遠目には青い。


作物は立っている。


だが。


その一つ一つについた実は、去年より小さい。


数も少ない。


「今から水量を戻せば」


「これから育つ分には意味があります」


技師は首を振った。


「ですが、すでに実がついたものは戻りません。これまでの三か月も戻せません」


青い畑がある。


作物も立っている。


だから、何も起きていないように見えた。


だが収穫するものは。


もう、減っていた。


「収穫は」


「落ちます」


ローデリックは、同行していた文官を見た。


「どれくらいだ」


文官は畑へ目を向けた。


しばらく畑を見てから、答える。


「正確には収穫してみなければ分かりません。ただ、この実のつき方なら……平年の五割から七割程度かと」


「三か月前に水量が戻っていたら?」


文官は少し考えた。


「その頃なら、まだ影響は小さかったはずです。九割以上は見込めたと思います」


風が吹いた。


畑が揺れた。


九割。


今なら。


五割から七割。


「このまま何もしなければ?」


今度は水利技師が答えた。


「沈下は進んでいます。水量はさらに減ります」


文官が畑を見た。


「それなら……三割残れば良い方でしょう」


ローデリックは何も言えなかった。


赤い帳簿に書かれていたのは。


たった一行だった。


南部水路――前年同期比で流量低下。原因不明。


三か月前。


農民たちが、まだ水を回す時間を少し延ばすだけで済んでいた頃に。


「必要なものは」


技師が振り返った。


「何です?」


「修繕に必要なものだ」


「石工が六人。人夫は二十人ほど。石材と木材も必要です」


「期間は」


「応急処置なら三日。本修繕まで含めれば――」


「全部やれ」


「ですが、費用が」


「出す」


ローデリックは水門を見た。


「今から取れるものを、全部残せ」



秋。


南部の収穫が終わった。


ローデリックの机に、一枚の報告書が置かれた。


南部農地収穫量。


平年比、六十一パーセント。


ローデリックは赤い帳簿を開いた。


南部水路――前年同期比で流量低下。原因不明。


日付は、三か月前。


あの時なら、九割以上残った。


今動いたから、六割残った。


何もしなければ、三割以下だった。


ローデリックはページをめくった。


修繕済み。


確認済み。


交換済み。


対応済み。


次のページも。


その次も。


自分は、たった一件で四割を失った。


では、ここにあるすべてを放置していたら。


何十件。


何百件。


どれも大事件ではない。


なぜなら。


大事件になる前に、エレナが潰していたからだ。


ローデリックは両手で顔を覆った。


それを自分は。


仕事ではないと言った。



アーデル領。


領政事務所で、エレナは一冊の帳簿を受け取った。


新しい赤い帳簿だった。


「もう埋まったのか?」


領主が古い帳簿を見る。


「思ったより早かったです」


「なら、次も使えばいい」


エレナは新しい帳簿を開いた。


真っ白な最初のページ。


今日確認した数字を思い出す。


街道沿いに新しく作られた休憩所。


そこにある井戸。


最近、使用量が増えている。


人が増えただけかもしれない。


何か別の理由があるのかもしれない。


まだ分からない。


エレナは一行目を書いた。


街道東休憩所――井戸使用量増加。原因確認推奨。


領主が横から覗いた。


「問題なのか?」


「いいえ。まだ何も起きていません」


「なら、今のうちに調べよう」


エレナは、その言葉を聞いた。


そして。


「はい」


と答えた。


新しい赤い帳簿を閉じる。


今日もまだ、何も起きていない。



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