第8話:お市包囲網と、キザ男の宣戦布告
「……というわけでな、市。
近江への輿入れについて、正式な使者を送る手筈が整った。
来月には発つ。よいな」
翌朝、清洲城の奥の間。
朝日が燦々と降り注ぐ清々しい朝だというのに、
織田信長お兄様から告げられた言葉は、
私の絶望を決定付けるに十分な冷酷さを孕んでいた。
お兄様は豪奢な椅子に深く腰掛け、手にした扇子でトントンと机を叩いている。
その規則的な音が、まるで私の処刑へのカウントダウンのように聞こえた。
「ま、待ってください、兄上! 先日、権六が稲葉山城で一番乗りの手柄を立てた時、
縁談はしばらく棚上げにしてくださると……!」
私は必死に食い下がった。
昨日、秀吉から「明日の朝がタイムリミットだ」と警告されたあと、
一晩中、どうすればお兄様を説得できるか考えたが、名案など浮かばぬまま朝を迎えてしまった。
(せめて、半兵衛に相談できていれば……。
でも、こうなったらゴネてなんとかするしかない)
「棚上げだと言ったはずだ、市」
信長お兄様は、荒々しく波打つ赤い長髪をかき上げ、氷のような瞳で私を射抜いた。
「『しばらく』は棚上げにしてやると言った。その『しばらく』が、今朝終わった。
それだけのことだ。権六の働きは確かに一度は余を感嘆させたが、あやつの忠義などその程度。
それ以降、また余の目を盗んでコソコソと動き回っておるようではないか。
そんな男に、余の大事な妹であるお前を預けられるか」
(終わった。
いや、終わったどころじゃない。
勝家様と密会してたの、完全にバレてる……!?)
さすがはヤンデレ魔王お兄様、情報網が早すぎる。
あるいは、秀吉がお兄様に耳打ちしたのか。
どちらにせよ、言い訳の余地などなかった。
室温が一気にマイナス四十度まで下がった気がした。
「さあ、話は終わりだ。下がって支度を――」
「フッ……ちょっと待ちたまえ、信長殿。
その美しいシンデレラに涙に濡れたドレスを纏わせるのは、僕の美学が許さないな(キラン)」
「――は?」
重苦しい部屋の空気を力業で引き裂いたのは、あまりにも場違いな、
耳をふさぎたくなるようなキザな声音だった。
ピシャリと無駄にいい音を立てて襖が開く。
そこに立っていたのは、青空のように鮮やかな青髪を朝風になびかせ、片手で羽織を肩にかけた男。
――徳川家康だった。
彼は推理ドラマの探偵のように眉間を指でトントンしながら入ってくると、
私に向けてキラリと白い歯を見せた。
(で、出たあああ!! 昭和のトレンディドラマからやってきたキザ男!!)
私の心は共感性羞恥でぐちゃぐちゃにされる。
しかし、相変わらず、ときめきメーターは一ミリも動かない。
本当にゼロだった。
しかし、家康はそんな私の限界冷めた視線を「感動しすぎて声も出ない」と
超絶ポジティブに脳内変換したようで、さらにウィンクまで飛ばしてきた。
「遠江から戻ったばかりの僕の耳に、君の哀しい嘆きが届いたのさ、お市ちゃん。
僕という真夏の太陽がいながら、近江の冷たい湖へ嫁ぐなんて、
そんな悲しいお芝居はここで終わりにしよう」
「家康、貴様……余の許可なく立ち入るなと言ったはずだが」
信長お兄様の声が、地を這うような低さになる。
しかし、家康はまったく怯む様子もなく、むしろ堂々と胸を張って室内へ歩を進めた。
「信長殿、ここは一つ、互いに得のある話をしよう。
……僕に、お市ちゃんをくれないか?」
「何だと……?」
「朝倉との戦に浅井家との同盟が不可欠だというなら、僕が代わりに朝倉を叩き潰してあげてもいい。
あるいは、僕の徳川家がお市ちゃんを娶ることで、織田と徳川の絆は永遠のものとなる。
フッ……どうだい? 信頼できない家老の柴田殿や、堅物な浅井殿より、
熱いパッションを持つこの僕の方がふさわしいと思わないかい。
さあお市ちゃん、僕の胸に飛び込んでおいで!」
家康は両腕を広げ、完璧なカメラ目線(※カメラはない)でポーズを決めた。
(来ないで!! 1ミリも嬉しくない上に、お兄様の逆鱗をクリティカルヒットしてるから!!)
案の定、信長お兄様の周囲に、目に見えるほどの黒いオーラ(殺気)が渦巻き始めた。
お兄様の手の中で、扇子がミシミシと音を立てている。
「家康……貴様、余の目の前で、余の妹を品定めするかのような口を……」
「あ、いや、上様! 徳川殿もお市様への思いがあふれ、
少々熱くなられただけにござりますれば!」
この一触即発の空気に、ひょっこりと割って入ったのは、
いつの間にか部屋の隅に控えていた羽柴秀吉だった。
極彩色の着物を揺らし、揉み手をしながら、頭を何度も下げる。
「しかし、上様。徳川殿の仰ることも一理。
お市様を巡って、家中の柴田殿、そして同盟大名の徳川殿、
さらには近江の浅井殿までもが、このように熱を上げておられる。
これでは、誰を選んでも遺恨が残りかねませぬなァ……」
秀吉の愛嬌のある小さな瞳が、一瞬だけ私の方を向き、ニカッと笑った。
(秀吉……! あなた、この状況すら利用して、話をさらにややこしくする気ね!?)
彼の狙いは明白だ。
勝家様と私の仲を完全に引き裂きつつ、同時に家康や長政をも巻き込んで、
織田家内での自分の立ち位置を有利にしようとしているのだ。
「フン……面白い。めざわりな男どもめ」
信長お兄様は不敵に口角を上げた。
だが、その目は依然として獲物を狙う鷹のように冷たい。
お兄様は手にした扇子を机に叩きつけ、立ち上がった。
「余の決定に異を唱えるか?」
「滅相もない! 滅相もないことにござりますが……!」
秀吉が大袈裟に平伏する。
家康は髪を掻き揚げながら「フッ、実力で奪い取るのも、悪くないね」と不敵に微笑んだ。
信長お兄様は私を見下ろし、それからギラリと目を輝かせた。
「ならば、賭けを広げようではないか。
市、貴様の『推し』とやらが、本当に天下無双の傑物であるというなら、証明してみせよ」
「……え?」
「次なる戦、越前・朝倉の討伐を行う。
これに、浅井長政、徳川家康、そして権六を遠征させ、競わせる!」
信長お兄様はマントを翻し、高らかに宣言した。
「この遠征において、
誰よりも武功を挙げ、
余を最も愉しませた者に、市をやる!
長政が勝てば予定通り浅井へ輿入れ。
家康が勝てば徳川へ。
そして、もし万が一にでも権六が他の二人をねじ伏せ、
余を心底から感嘆させる働きを見せれば――
……市の戯言、叶えてやらんこともない!」
(出た……!
金ヶ崎イベント!
裏切り、密告、選択ミスで推し死亡の地獄イベント!!)
「ただし」
信長お兄様は私の顎をクイと持ち上げ、顔を至近距離まで寄せた。
ヤンデレお兄様の冷徹な圧が、脳天を突き抜ける。
「権六が他の二人に遅れを取り、無様を晒したその瞬間、あやつの首は即座に撥ねる。よいな?」
「……はい。必ず、勝たせてみせます」
私は喉の渇きを堪え、力強く頷いた。
これしか、勝家様が生き残り、私と結ばれる道はないのだ。
信長お兄様の部屋を辞し、廊下へ出た途端、私はあまりの緊張感に膝が震え、壁に手をついた。
(終わった。
いや、むしろ始まってしまった。
推しの命と未来を賭けた、戦国デスゲームが)
そこへ、足早に近づいてくる大きな足音が聞こえた。
「お市様……! 聞きましたぞ、信長様が我らに次なる戦での競い合いを命じられたと!」
現れたのは、勝家様だった。
その顔は焦燥に満ちていたが、これまでのように私から逃げようとする気配は一切ない。
「権六……! 申し訳ありません、私のせいで、またあなたの首を賭けるような戦いになってしまって……」
「何を仰いますか!」
勝家様は私の前に堂々と跪き、大きな手で私の手をそっと包み込んだ。
ごつごつとした暖かい感触が、私の不安を瞬時に溶かしていく。
「昨夜、お市様からあれほどの勿体なきお言葉をいただいたのです。
この柴田権六、もはや迷いはございませぬ!
浅井殿がどれほど聡明であろうと、徳川殿がどれほど華やかであろうと、
お市様を想う心、お市様をお守りしたいという執念だけは、断じて誰にも負けませぬ!」
「権六……」
「猪武者の意地、必ずや信長様に見せつけてご覧にいれます。
ですからお市様、どうか某を信じて、吉報をお待ちくだされ!」
不器用に眉を寄せながらも、しかし真っ直ぐに私を見つめる勝家様の瞳には、一点の曇りもなかった。
絶望的な難易度の戦功レース。
けれど、この人と一緒なら、歴史の強制力さえも捻じ曲げられるかもしれない。
私の「推し存続計画」は、織田・徳川・浅井が入り乱れる、
命懸けの最大決戦へと突入しようとしていた。
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