第9話 噴水の願い
交わった視線は、すぐにはほどけなかった。
琥珀色の瞳はまっすぐで、けれど、不思議と怖くはなかった。
そして――
「……あの」
戸惑うリリナの前へ、レンセリオンが静かに歩み寄った。
その足取りはゆるやかで、けれど不思議と、光の中に一本の道が生まれていくようだった。
「お会いできる日を、心より待ち望んでおりました――セレフィアの姫君」
低く澄んだ声が、噴水の水音に静かに重なった。
礼を尽くした響きの奥に、揺らがない芯がある。
リリナは衣の裾を指先で押さえ、丁寧に一礼する。
「お会いできて嬉しいです」
顔を上げると、白い石畳に反射した光が、レンセリオンの輪郭をやわらかく包んでいた。
「……ルクヴェルの光って、やわらかいんですね」
レンセリオンの静かな表情に、ほんのわずかな柔らかさが差した。
「……そう感じていただけたなら、嬉しく思います」
一度、彼は噴水へ視線を移した。
白い石畳に跳ねる光が、水音とともに揺れている。
「あなたの国の黎光には及びませんが――
ルクヴェルの光もまた、照らすためだけのものではありません。
誰かを護るために在るものだと、私は信じています」
リリナは、噴水に揺れる光を見つめた。
護るための光。
その言葉は、セレフィアで聞いてきた“与える光”とは、少し違う響きを持っていた。
けれど、不思議と冷たくはない。
レンセリオンの声に宿る静かな強さが、その言葉をやわらかくしているようだった。
「……素敵です」
リリナは自然に微笑んだ。
ふたりの挨拶が終わったのを見届け、エリオンが穏やかに口を開いた。
「レンセリオン殿とは、友人でありまして。
到着してすぐ、リリナ姫様にお会いしたいと仰っていたんです」
「エリオン……!」
レンセリオンの眉がわずかに動く。
彼は咳払いでごまかし、エリオンへたしなめるような視線を向けた。
「……そうだったのですね」
リリナは少し照れながら、視線を落とした。
けれど、エリオンとレンセリオンのやり取りはどこか温かくて、
胸の緊張が、ほんの少しだけほどけていった。
⸻
白金の都ルク=セリアの中央――来賓館のすぐそばに広がる噴水広場は、
真昼の光を受けて白い石畳がまぶしく輝いていた。
噴水の水音が風と混ざり合い、
白い石畳の上に涼やかな響きを広げていた。
その噴水の縁に、三人は並んで腰を下ろした。
水面は太陽を受けてきらめき、時折、小さく波紋を描いている。
リリナはその水面にふと目を留め、前屈みになって覗き込んだ。
水底には、いくつもの小さな光――
銀貨や銅貨が陽の光に反射して揺れていた。
「……どうして、こんなところに硬貨が?」
小さな声で呟くと、レンセリオンがその声を拾うように視線を向けた。
「この噴水には、古くからの言い伝えがあります。
背を向けて、上段の縁に硬貨を投げることができれば――
願いが叶う、と」
リリナは水底に揺れる硬貨を見つめた。
「では……これは、願いの数なんですか?」
ただの銀貨や銅貨ではなく、
誰かがそっと託したものなのだと思うと、胸の奥が静かに温かくなった。
反対側で、エリオンが小さく微笑んだ。
「そう考えると、とても優しい場所に見えますね。
誰かが、何かを願ってここへ来た。その跡が、こうして残っている」
レンセリオンは水面へ視線を落とした。
「願いは、形にしなければ残りません。
この硬貨は……その願いを、目に見えるものとして置いていった証なのでしょう」
リリナは、もう一度水底を見つめた。
銀貨も、銅貨も。
ひとつひとつが、誰かの願いだったのだと思うと、
ただの光とは違って見えた。
「……素敵ですね」
小さく呟いたリリナに、レンセリオンが懐へ手を入れた。
「では、ひとつ試してみますか」
レンセリオンはそう言って、そっと懐から一枚の銀貨を取り出した。
「迷信かもしれません。
ですが、願いを形にしてみたくなる気持ちは、私にもわかります」
そう言って、彼は立ち上がり、
数歩下がって噴水に背を向けた。
ひと呼吸おいて、
軽やかに銀貨を投げた。
弧を描いた銀のきらめきが、静かに空を切り――
ぴたり、と上段の縁に収まった。
「……成功、ですね」
その静かな告げ方に、リリナの瞳がぱっと輝いた。
「すごい……!」
リリナの視線は、噴水の上段で光る銀貨に吸い寄せられていた。
そして、そっと隣のエリオンを見上げる。
「次は……エリオン様も、やってみますか?」
小さく首を傾けて問いかけると、エリオンは微笑んだ。
「ええ。リリナ姫様がそう仰るなら」
立ち上がったその動作は、水面に落ちる葉のように静かでしなやかだった。
彼はそっと手のひらを開き、小さな銀貨を太陽の光にかざす。
その横顔には、どこか遠くを見つめるような静けさがあった。
数歩下がり、噴水に背を向ける。
一瞬、指先に意識を集めたそのとき――
風が止まり、水面がわずかに揺れた。
彼は何も言わず、銀貨をそっと空に放った。
銀貨は高く舞い上がり、穏やかな弧を描いて――
そして……ぴたり、と上段の縁に落ち着いた。
「……成功ですね」
エリオンは柔らかく微笑んだ。
「見事だな、エリオン殿」
レンセリオンが低く、静かにそう言う。
リリナは目を輝かせ、拍手を送った。
「すごいです……!」
レンセリオンが、リリナへ視線を向けた。
「では、次は……リリナ姫の番ですね」
噴水の音が、ほんの一瞬だけ遠のいた。
差し出された掌には、先ほどと同じような銀貨が一枚、優しく乗っていた。
「手を離すときを見極めることが大事です。
背筋をまっすぐに、目を閉じて――風の音を聞いてみてください」
どこまでも理知的で、整えられた“教え”だった。
リリナは頷き、そっと銀貨を受け取った。
「僕からも、少しだけ」
エリオンが穏やかに声をかけ、リリナの手元を見るように、そばへ身を屈めた。
その手が、リリナの手首にそっと添えられる。
「手首を、少しだけ傾けて……そう。力を入れすぎないように。
風は、味方してくれますよ」
「……はい」
ふたりから丁寧に教えられ、リリナは少し戸惑いながらも頷く。
――そして、目を閉じる。
噴水の音が、静かに耳の奥へ沈んでいく。
鳥のさえずりも、春の陽のぬくもりも、
少しずつ遠くなっていった。
残ったのは、掌の中の銀貨の冷たさと、
胸の奥に浮かんだ、ひとつの願いだけだった。
両隣に立つふたりの気配が、静かに寄り添っていた。
(……叶う、かな。
みんなが笑っていられる未来が――)
リリナはそっと息を吸い込み、
くるりと後ろを向いた。
そして――
祈るように、銀貨を放った。
息を止めた、その一瞬。
かつん、と小さな音がした。
リリナが振り返ると、
水面に小さな波紋が広がっていた。
「……あ」
思わず、リリナの声が漏れた。
エリオンがすぐに微笑んで励ます。
「惜しかったですね。でも、願いが届かなかったわけではありませんよ」
「そう……ですね。大切なのは、願うことです」
ほんのわずか。
ふたりの言葉が、同じ場所を見つめながらも、違う角度で届く。
その小さなズレが、まだ誰にも気づかれぬまま――
噴水の水音にまぎれ、
ゆるやかに空気へと溶けていった。




