第70話 静かな約束
講義が終わると、小講堂には――
黒板を消す音だけが残っていた。
エリオンは静かにチョークの粉を払い、
何事もなかったかのように片付けを進めている。
その背へ、落ち着いた声がかかった。
「エリオン殿。……素晴らしい講義でした」
振り向くと、レヴィアンが穏やかな笑みを浮かべ、
胸に手を添えて礼をしていた。
「この王立学院を修了したら――
ぜひ一度、アクエリシアへ足を運びたいと思っています」
飾りのない言葉。
そこにあるのは、ただ純粋な敬意だった。
⸻
エリオンは小さく目を細める。
あの、静かな湖のような微笑み。
「ありがとうございます、レヴィアン殿。
帰国しましたら招待状をお送りします。
静水祭もありますので……
ぜひ、お待ちしております」
「静水祭……」
レヴィアンは、素朴な喜びをにじませた。
「聞いたことはありますが、
実際に見るのは初めてになりそうです」
その言葉に――
リリナの指先が、ぴくりと止まった。
(……静水祭……)
以前、エリオンと語り合った“光と水の祈り”。
あの夜の、やわらかな記憶が
胸の奥にふっと灯る。
顔を上げる。
その瞬間――
黒板消しを置いて振り返ったエリオンと、目が合った。
静かな揺らぎを湛えた瞳。
それが、そっと胸の奥に触れる。
⸻
「……リリナ姫様も、よろしければ」
声は穏やかで、やさしい。
まるで、湖面へ光がそっと落ちるように。
「静水祭は、アクエリシアにとって
“水と光”を迎える大切な祭です。
姫様にも……ぜひ、見ていただきたい」
胸が、きゅっと温かくなる。
(……行ってみたい)
(エリオン様の国。
そして――静水祭)
「……はい。行きます……!」
思わず、言葉がこぼれた。
「あの……ずっと、行ってみたかったので……」
エリオンの瞳が、一瞬だけやわらかく揺れる。
リリナの耳まで、ほんのり熱くなる。
エリオンは、ふっと微笑んだ。
「その時は、必ずお迎えに参ります」
ふたりの視線が、そっと重なる。
その一瞬、光と水の気配が静かに溶け合った。
⸻
静水祭。
光と慈愛を交わす、古い祈りの祭。
そして、エリオンと交わした小さな約束。
胸の奥に、
静かに、確かに灯るものがあった。




