第6話 霧の峡谷と水の王子*挿絵
リリナとマルナを乗せた馬車は、ルクヴェルへ向かう道を進み、
王都〈セレ=リス〉を背に、ゆるやかな丘を越えた。
朝露を帯びた風が、花の香を運びながら流れていく。
窓の外には、黎光の野が広がっていた。
振り返るたび、朝日に照らされた王都〈セレ=リス〉の屋根並みと、
黎光の大樹が、少しずつ遠く、小さくなっていく。
すべてが、朝のやわらかな輝きに包まれていた。
リリナは馬車の窓から、その景色を見つめていた。
父の言葉が、胸の奥で静かに蘇った。
――光は遠くにあるものじゃない。
お前の呼吸とともに、ここにある。
リリナは小さく息を吐き、微笑んだ。
――覚えておこう。
遠ざかっていく大樹も、
頬に触れた、このやさしい香りも。
そう思うと、少しだけ怖さがやわらいだ。
馬車はしばらく、セレフィアの野を抜ける街道を進んだ。
やがて花の香は薄れ、一行はルクヴェルへ向かう東の合流路へ入っていった。
⸻
霧の峡谷――
そう呼ばれる道に差しかかった途端、あたり一面に白い霧が立ちこめていた。
道は狭く、湿った石畳に馬の蹄がこつりと響く。
前方で止まった馬車の影が、霧の中でぼんやりと揺れていた。
霧の奥では、音が距離を失い、
馬車の軋む音さえ遠く感じられた。
「どうしたのかな?」
リリナが窓から外を覗くと、マルナが答えた。
「前の馬車が、動けなくなっているようですね」
「困っているなら、私たちも行こう」
そう言って、リリナは迷わず扉を開けた。
霧の冷気が流れ込み、頬に当たる。
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馬車の前では、三人の男たちが車輪のそばに立っていた。
その中で、ひときわ目を引いたのは、長身の青年だった。
銀を溶かしたような髪が、霧の中に淡く光っている。
その人のそばだけ、霧が水面のように淡く揺れていた。
彼らは沈んだ車輪を確かめながら、静かに話していた。
「ぬかるみに沈んでいますね。押せば、戻せるかもしれません」
落ち着いたその声には、不思議と人を安心させる響きがあった。
その声に、リリナは思わず歩み寄った。
青年が振り向き、リリナを見て、少し驚いたように目を見開く。
そしてリリナもまた、その瞳を見上げる。
――水面のように澄んだ灰青の瞳。
その奥で、何かが“触れた”気がした。
「あの……一緒に押しましょうか?」
とっさに口にすると、青年は小さく微笑んだ。
「お気持ちだけで十分です。
ですが、姫様にそのようなことをさせるわけにはいきません」
“姫様”という言葉に、リリナは思わず目を瞬かせた。
(どうして……分かったの?)
そのとき、後ろから声がかかる。
「殿下、我々で押しましょうか?
それとも、新しい馬車を手配いたしますか?」
リリナは小さく息を呑む。
殿下……?
マルナがそっと耳元で囁いた。
「アクエリシアの第二王子、エリオン様でございます」
「エリオン……様……」
小さく呟いた声に、彼が振り返る。
「どうやら出発日が同じだったようですね。
リリナ姫様も、ルクヴェルへ学びに行かれるのでしょう? 僕もです」
霧の中の微笑みは、静かな水面に落ちる光のように柔らかかった。
その穏やかな眼差しに、リリナの胸の奥が、ふっとほどけていく。
なぜか、その人のことをもっと知りたいと思った。
「……同じ道を行くのなら、
私も、少しでもお力になりたいです」
リリナがそう言うと、エリオンは一瞬だけ迷うように沈黙した。
けれど、彼女の瞳を見て、静かに微笑む。
「……では、お願いします。
無理だけはなさらないでください」
リリナが小さく頷くと、
マルナも袖を押さえながら馬車の後ろへと回った。
「それでは、皆で押しましょう」
それを見た侍従セリオが、落ち着いた声で応じる。
「助かります。お気をつけて――足元が滑りますので」
セリオは軽く頭を下げ、車輪のそばのぬかるみを示した。
マルナが微笑んで頷く。
「はい、ありがとうございます」
エリオンも手を添え、リリナもその隣に並ぶ。
「せえの!」
――ぬかるみの水が跳ね、霧の中に光がきらめいた。
車輪は一度、重く軋んだ。
けれど皆がもう一度力を込めると、
ゆっくりと回り始め、ぬかるみを抜けて道へ戻る。
その瞬間、霧の粒が陽光を受け、
淡い金色にきらめいた。
リリナとエリオンの視線が、ふたたび重なる。
――まるで、世界が息をしたかのように。
⸻
リリナは馬車の窓辺から、前方を走る馬車を見つめていた。
霧の中での出会いが、まだ胸の奥に温かく残っていた。
霧の向こうへ消えていく馬車を見送りながら、
リリナは、もう一度だけその名を胸の中で呼んだ。
気づけば、窓辺に手を置いたまま、
しばらく動けずにいた。
「姫様、どうかされましたか?」
マルナの声に、リリナは我に返り、
小さく首を横に振った。
けれど、視線はまだ霧の向こうを追っていた。
「……素敵な王子様だなって」
ぽつりとこぼすと、マルナは優しく微笑んだ。
「エリオン様、とても優しそうな方でしたね」
リリナは小さく頷いた。
それから窓辺から身を離し、向かいに座るマルナへと少し身体を向ける。
指先で、そっと自分の頬をなぞった。
「ここに、小さなほくろがあったの。……それが好き」
マルナが小さく吹き出す。
「そこにお気づきになるとは、さすが姫様です」
「……笑わないで」
少し恥ずかしくなって、リリナは指先で自分の頬に触れた。
「私にも、好きになってもらえるところ、ある?」
リリナの問いに、マルナは力強く頷いた。
「もちろん、ございます」
「どこ?」
「――笑顔です」
少し残念そうに眉を寄せるリリナに、マルナは続けた。
「笑顔は、誰でも素敵なものです。
でも姫様は笑ったときだけ、口の端に小さなくぼみができるんですよ。
だから、それは姫様だけの光です」
リリナは試しに、にっこり笑ってみせた。
マルナが「ここです」と指を差し、
ふたりの笑い声が馬車の中に響いた。
リリナは窓に映る自分の笑顔を見つめながら、ふと呟く。
「……たくさん笑って、たくさん学んで帰ってくるね」
マルナは頷き、外の空を見やった。
馬車の先には、陽光が霧を割って差し込んでいる。
――黎光の国を遠く離れても、
少女の心には、
あたたかな余韻が、確かに残っていた。
それが、やがて胸の奥で、
初めての想いに変わっていくことを――
リリナはまだ、知らなかった。
⸻
『霧に沈む峡谷で、その名を知った』




