第5話 黎明、旅立ちの日*挿絵
黎明の風が、大樹の葉をやさしく揺らしていた。
王都〈セレ=リス〉は、まだ目覚めきらぬ朝の静けさに包まれていた。
けれど、王宮の庭、その最奥にある“黎光の庭”だけは、
祈りの気配が、淡く息づいていた。
リリナは黎光の大樹の根元にひざまずいた。
花弁の形をした護符を、
そっと胸元に重ねる。
昨日、王妃から渡されたものだ。
――あなたの胸の印と同じ形です。
道を照らす光になりますように。
その声が、今も耳の奥にやさしく響いている。
枝の上では、黎光鳥アウル・ルミナリエが羽を休めていた。
金の羽根が朝の光を受けて、ふわりと揺らぐ。
「行ってきます、アウル。……ちゃんと戻ってくるね」
リリナが囁くと、アウルは羽を一度だけ震わせた。
光の粒が降り、彼女の髪に静かに触れる。
「姫様、そろそろ……」
マルナが声をかける。
リリナは小さく頷き、旅装を整えたマルナとともに立ち上がった。
そのとき――
足元で、柔らかな鳴き声がした。
子犬〈ルナ〉が、尻尾を振ってリリナを見上げている。
首には小さな花飾りが結ばれていた。
「ルナ……」
リリナがしゃがみ込むと、ルナは彼女の指を舐めて、衣の裾を引いた。
まるで“行かないで”と言っているかのように。
「ごめんね、ルナ。少しのあいだだけ、学びに行ってくるの。
必ず戻るから……ここで、待っていてね」
マルナがそっと近寄り、ルナの頭を撫でる。
「学びを終えて戻られるころには、
姫様はきっと、今よりもっと立派になっておられますよ」
リリナはルナを抱きしめ、その柔らかな毛並みに頬を寄せた。
やがて立ち上がると、
黎光の庭の出口へと歩き出す。
⸻
朝の光が、白金の城を淡く染めていた。
セリウス王とユスティーナ王妃が、
馬車の前で娘を待っている。
「リリナ。
お前の光を、見失うな。
それは、お前自身を照らす灯であり、
いつか誰かの道を照らすものでもある。
どんな影に包まれても、
己の内にある光を忘れてはならぬ」
王の声は静かで、黎明の風のように澄んでいた。
ユスティーナは娘を抱きしめ、耳元で囁いた。
「学びの時を過ごすあいだ、
多くを見て……多くを感じてきなさい。
けれど忘れないで。
あなたの光は、この国の祈りに抱かれて育ったのです」
「はい。……忘れません。必ず戻ります」
リリナの声は少し震えていたが、瞳はまっすぐだった。
⸻
馬車が動き出す。
石畳を進み、王都の門をくぐる。
通りでは、民たちが集まっていた。
花枝を掲げ、声を合わせる。
「黎光の姫に、祝福を!」
その声に手を振りながら、リリナは笑った。
けれど、胸の奥がきゅっと痛む。
ふと振り返ると、ルナが走っていた。
小さな体で必死に馬車を追いかけている。
「ルナ……!」
窓から身を乗り出すと、マルナがそっと手を添えた。
「姫様、危のうございます」
その声に、リリナは唇を噛む。
けれど視線は、ルナから離せなかった。
そのとき、風がひとすじ吹き抜けた。
遠く、大樹の枝が揺れる。
そこから離れた一枚の葉が、アウルの光を受けて淡く金色に透けた。
風に運ばれるように舞い、
やがてリリナの膝へふわりと落ちた。
「……アウル」
リリナはその葉を胸の印の上に重ねる。
ルナは馬車を追う足を止め、
風に揺れる光を見上げるように、小さく吠えた。
その姿が、小さく遠ざかっていく。
⸻
馬車の中。
朝日が窓掛けの隙間から差し込み、足元に揺れる。
リリナはその光を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「ねえ、マルナ……少しだけ怖いの。
知らない国に行くのも、知らない人たちと過ごすのも」
マルナは穏やかに微笑んで、リリナの手を包んだ。
「大丈夫ですよ、姫様。
姫様の光は、知らない場所でもきっと誰かを照らします。
このマルナには、そう思えます」
リリナは小さく笑い、まぶたを閉じた。
「……ありがとう、マルナ」
馬車は陽光の中を進んでいく。
沿道の花びらが、風に乗って舞い上がる。
朝の光を受けたその一枚一枚が、
遠くルクヴェルへ向かう少女を包むように、淡く輝いて見えた。
それは――
希望の器が、
まだ知らぬ世界へと、
自らの意志で踏み出した朝だった。
⸻
『離れないで、と言えたなら』




