第320話 内環聖火殿
アゼルは静かに踵を返し、内環聖火殿へと足を向けた。
この場所は、いつ訪れても無駄がない。
音は抑えられ、光は制御され、
熱だけが――必要な分だけ、そこに在る。
外環大宴殿の準備は滞りなく進んでいる。
卓も、炎壺も、動線も、すべて想定通り。
唯一、予定から外れていたのは――
聖火の到着だけだった。
祭壇中央に据えられた炎壺は、まだ封を保っている。
だが、近づけば分かる。
火は、眠っているのではない。
――待っている。
(……今年も、よい火だ)
ミラ・アレスタが壺から手を離すのを見届け、
アゼルは殿内へと足を踏み入れた。
「今年も見事な火ですね。
ただ、到着が少々遅れたようで……」
静かな声音が、殿内に溶ける。
「典礼上、少し気を揉みましたが――ご無事で何よりです」
ミラと、その背後の男が振り向く。
焔の舞手、レイヴ・アレスタ。
二人は一瞬、言葉を探すように目を伏せ、
やがて揃って頭を下げた。
そのとき。
アゼルの視線が、留まる。
――左手。
布が、ない。
印を、隠していない。
些細な違い。
だが、この場においては――決して些細ではない。
「いやはや……今宵は、格別な舞が見られそうですね」
わずかに口元を緩める。
「どのような心境の変化でございましょう?」
レイヴは一瞬、手の甲へ視線を落とす。
無意識に角度を変えかけ――やめた。
「余計な温度は、舞台に持ち込まぬように」
アゼルの声が、わずかに低くなる。
「あなたの火は、今夜、王のために燃える。
それだけを考えていればいい」
沈黙。
炎壺の中で、火がかすかに揺れた。
(……応えているな)
舞は、王の前で完結すればいい。
それ以外の意味は――不要だ。
「聖火は、こちらで預かります。
舞の準備を」
近侍に視線を送る。
レイヴが控室へ導かれていくのを見届けてから、
アゼルはミラへ向き直った。
「ミラ様」
声音は穏やかで、礼を欠かない。
「先日、サリエル様がおいでになった際、
ご息女様もご一緒でしてね」
一拍。
「あの年頃の子は、実に目まぐるしく変わるもの……」
ミラは微笑む。
「まだまだ至らない娘でございますのよ。
……目をかけてくださり、ありがたく思いますわ」
「とんでもございません」
アゼルはさらりと返す。
「あの子がミラ様に似て、
きっと美しく育たれることを――皆が確信しております」
その言葉に、わずかな沈黙。
だがミラは、揺れない。
「本日は立ち見でのご案内となりますが、
料理も十分にご用意しております。
どうぞ、ゆっくりとお楽しみください」
――役目を終えた者には、それに相応しい場所がある。
アゼルは、そう結論づけた。
さて――。
近侍に向け、掌を差し出す。
言葉はない。
折り畳まれた紙が、静かにその上へ置かれる。
座席一覧。
王族、賓客、各国の要人――
整然と並ぶ名と席。
やがて、指が止まる。
エル・ソレイス
(……セレフィアの姫様)
口元が、わずかに歪む。
(良い仮名をお使いで)
その隣に記された席を見て、
ほんのわずかに、笑みが深まった。
――ナイトクロウ商会と、同席。
(……なるほど)
偶然ではない。
すでに“そうなるように”整えられている。
誰にとって幸いかは――別として。




