第307話 訪問者の名
リリナは、ソレイス夫妻の家へ戻ってきた。
仕立て屋の扉をくぐった瞬間――
慌てた様子のミレナが駆け寄ってくる。
「エル……!」
その切羽詰まった声に、リリナは思わず足を止めた。
「ミレナさん?」
両肩を掴まれ、顔を覗き込まれる。
「昨夜は帰って来なかったのね。
……焔の舞手と、一緒だったのかい?」
一瞬だけ迷い、リリナは素直に頷いた。
ミレナは、はっきりと安堵の息をつく。
「……そう。無事で、よかった……」
その反応に、胸の奥がざわついた。
「どうしたんですか?」
ミレナは周囲を確かめるように視線を巡らせ、声を落とす。
「昨日ね、エルを訪ねて、人が来たんだよ」
「……え?」
胸が、ひくりと鳴る。
――ここに、私がいると分かる人。
限られているはずだった。
「その方は……誰ですか?」
「アゼル様だよ」
聞き覚えのない名に、リリナは首を傾げる。
「……存じ上げません」
「ソレイダ王国の、典礼官だよ」
「えっ……!?」
思わず声が上がる。
「ど、どうして、そんな方が……?」
ミレナは首を横に振った。
「私たちにも、はっきりした理由は分からないよ。
でもね、エル」
その手が、強くリリナを抱きしめる。
「あなたを“歩く宣伝”みたいにして、危険な目に合わせてしまったのかもしれないって……」
「昨日、帰って来なかっただろう。
アランと二人で、胸が潰れそうだった……」
突然の抱擁に、リリナは戸惑う。
(……危険、なの?)
「エル、ここから離れた方がいい」
「え……?」
ミレナは、はっきりと言い切った。
「表向き、アゼル様は
“たまたま街で見かけた美しい娘”として、
王宮の宴に招きたいと言っただけだよ」
一拍置き、声が低くなる。
「でもね……それを、そのまま信じていい相手じゃない」
「王の宴を取り仕切る“炎宴官”。
『王ならこう望むだろう』って、自分の判断で人を動かす人だ。
……目をつけられたら、逃げられないよ」
リリナの喉が、わずかに乾く。
「この国の王は“陽宴王”。
……意味は、分かるでしょう?」
ミレナは、静かに肩へ手を置いた。
「私たちは、エルのことは何も話してない。
親戚の子が遊びに来ている、とだけ言った。
でも……それでも、安心できないんだよ」
王宮での宴。
――今夜、レイヴが舞う。
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
ミレナは引き出しから、一枚の招待状を取り出した。
「これが、その招待状だよ。
どうするかは……エル自身が決めなさい」
そして、少しだけ声を低める。
「もし、焔の舞手が囲ってくれるなら……それが一番安全だ。
アゼル様でも、アレスタ家には簡単に手を出せない」
一気に押し寄せる情報に、頭がくらりとした。
リリナは、そっと鍵を差し出した。
「……お返しします」
「持っていていいのよ」
ミレナはすぐに言ったが、リリナは首を横に振る。
「ごめんなさい。
私、ふたりのご厚意に甘えてしまって……
でも、これ以上ご迷惑はかけられません」
アランが、黙ってリュックを差し出した。
「衣装がたくさん入ってる。
もう、“宣伝”なんて言わない」
「……ありがとうございます」
深く頭を下げる。
「このご恩は、忘れません」
ミレナは微笑み、静かに言った。
「いいのよ。
エルは、私たちの命の恩人なんだから。
もう、十分にもらってるわ」
身支度を整え、リリナは戸口に立つ。
振り返ると、ミレナとアランが並んで見送っていた。
胸の奥に、温かさと不安が同時に込み上げる。
そうしてリリナは、ソレイス夫妻の家を後にした。
――その夜が、王城へ続く運命の扉になることを、
まだ知らないまま。




