第302話 鎮める水、残る香
結局、その夜は泊まることになった。
「どうしても、自慢の湯場に入ってほしくてさ」
そう言われて、リリナはひとり、湯場へ向かっていた。
屋敷の奥――
灯籠の淡い光に導かれたその先に、湯場はあった。
厚い木扉を押し開けると、
ほんのりと硫黄と香草が混じった匂いが、静かに鼻をくすぐる。
蒸気の向こうには、地熱を活かした岩風呂があり、
湯気がゆるやかに立ちのぼっていた。
天窓から落ちる月光が、湯面に銀の揺らめきを描く。
壁際には“湯花”と呼ばれる赤茶の鉱石が沈み、
湯は淡い琥珀色を帯びている。
(……きれい……)
脱衣所でバスタオルを巻き、
そっと湯に身を沈めた。
「……はぁ……」
熱すぎない湯が、じわりと身体を包み込む。
汗も、火祭りの熱気も、
緊張や高鳴りも――
すべてが、少しずつ溶けていく。
火の国では、この湯を
“火を鎮める水”と呼ぶのだと、
レイヴが言っていた。
左胸に視線を落とす。
魂の印。
――レンセリオン様。
――エリオン。
今ごろ、どうしているだろう。
突然姿を消した自分を、
無責任だと怒っているかもしれない。
ふたつの印を、指でなぞる。
――胸に刻まれた、ふたりの痕跡。
小さな波紋のような感覚が、
胸の奥に残っている。
それが何を意味するのか、
まだリリナには分からなかった。
しばらく、湯に身を委ねていた。
⸻
湯場を出て、客間に戻る。
「お先でした。湯場、すごく良かったよ」
そう声をかけると、
レイヴが少し目を細めてこちらを見た。
「……すぐ戻るから。先、休んでて」
頷き、リリナはソファに腰を下ろす。
用意されていたシーツを身体にかけた、そのとき――
ふわりと、匂いが立った。
甘さを含んだ、異国の香り。
ソレイダ特有の、
火と香料が混じったような匂い。
(……?)
シーツを軽く引き寄せ、鼻先に近づける。
……どこかで、覚えがある。
似ている。
けれど――
記憶の中のそれより、ずっと薄くて、曖昧だ。
(……あのとき……?)
鏡台。
異国風の小瓶。
そして――
ふいに舞った、冷たい霧。
胸元に残った、
あの“危険な香り”。
リリナは立ち上がり、
テーブルの端で静かに煙を上げている香へ顔を近づけた。
これは違う。
こちらは、乾いた木の香だ。
やっぱり――
シーツから香るものは、それとも違う。
けれど、確かにどこかで嗅いだ匂い。
考え込んでいた拍子に、煙を吸い込んでしまって、
「っ……!」
思わず咳き込んだ、そのとき。
「……何してるの?」
背後から声がして、
リリナは驚いて振り向いた。
湯場から戻ったばかりのレイヴが、
少し可笑しそうに立っている。
「え……は、早い……っ」
咳き込みながら言うと、
彼は小さく笑い、背中に手を添えた。
「大丈夫?」
「うん……ありがとう。
ちょっと、気になる匂いで……」
そう言って、シーツを持ち上げる。
レイヴも軽く鼻を寄せ、首を傾げた。
「……分かんないな。
俺には、いつもの匂いだけど」
長くここで暮らす者の感覚なのだろう。
彼には、特別な違和感はないらしい。
「……甘い匂いがするの」
そう言うと、
レイヴはくすっと笑った。
「へぇ」
視線が重なる。
「もっと嗅いでいいよ。
俺の匂い、忘れるなよ」
冗談めいた声と、挑発するような目。
胸が跳ねて、
リリナは慌ててシーツに顔を埋めた。
「ちょ、エル――」
シーツを引かれ、
「きゃっ……!」
小さな悲鳴がこぼれる。
「何その声。エル、こっち向いて」
指が顎に触れる。
くすぐったくて、思わず笑ってしまう。
「あー……もう……」
けれど、次の瞬間。
顎を取られ、距離が縮まった。
「……続き、する?」
そう囁かれて、
リリナは真っ赤な顔で、首を横に振った。
レイヴは一瞬だけ見つめてから――
それから、あっさりと身を引いた。
「……そっか」
距離を取り、ソファに座り直す。
その潔さに、
リリナの胸は、また静かに高鳴った。
(……優しい……)
火は、確かにそこにあった。
けれど今は――
無理に燃え上がらせなくてもいい。
シーツに残った、
正体の分からない微かな香りが、
胸の奥に残り、かすかに揺れていた。




