第300話 貼られた家訓、揺れる火
姉は、部屋の壁沿いをゆっくりと歩いた。
そして、古い張り紙が貼られた壁の前で足を止める。
「……忘れたの?」
そう言って、指先を紙に添える。
その仕草につられるように、
リリナの視線も自然とそこへ引き寄せられた。
――アレスタ家訓。
交熱で人生を無駄にしない。
一瞬、部屋の空気が静まる。
胸が、ひくりと跳ねた。
それが、この家の言葉。
さっきまでの熱が、
ほんの一瞬だけ現実に引き戻される。
ちらりとレイヴを見ると、
彼は気まずそうに視線を逸らし、立ち上がった。
姉の前まで歩み寄り、
張り紙を勢いよく剥ぎ取る。
「……いい加減にしてくれ。
俺はもう、子供じゃない」
その声は低く、
けれど少しだけ荒れていた。
(……姉弟喧嘩)
そう思った瞬間、
リリナは居場所を失った気がして、
そっとグラスに手を伸ばす。
一口飲み、テーブルに戻そうとした、そのとき。
「――っ!?」
姉が、ためらいなくレイヴの片耳を引っ張った。
「い、いてて……!」
腰を屈めるレイヴ。
グラスを倒しかけたリリナは、
慌てて両手で支える。
姉はそのままレイヴを引きずるようにして、
リリナの前まで歩いてきた。
そして、ぱっと指を離す。
耳を押さえ、顔まで真っ赤にするレイヴ。
リリナは、完全に固まっていた。
(……お姉さん、強い)
「失礼しました」
一転して、姉は落ち着いた声で頭を下げた。
リリナも慌てて立ち上がり、姿勢を正す。
「ミラ・アレスタです」
「わ、私は……エル・ソレイスですっ」
とっさに、ソレイス夫妻の姓を口にした。
「ソレイス?」
探るような視線が向けられる。
「……はい」
少し間があってから、
ミラはにっこりと微笑んだ。
「“舞酒場アグニア”の焔羽ではなさそうね?」
焔羽――?
聞き慣れない言葉。
けれど、その言い方だけで分かる。
(……何か、疑われてる)
意味は分からないまま、
リリナは苦笑するしかなかった。
「もういいだろ。用がないなら、帰ってくれよ」
レイヴがそう言いながら、再び隣に腰を下ろす。
ミラは、ふたりをゆっくり見比べた。
その視線が、
リリナの手首――レイヴから預かっているブレスレットに留まる。
一瞬の沈黙。
やがて、ミラは小さく頷いた。
「……分かったわ。今日は帰る」
出口へ向かいかけて、
思い出したように振り返る。
「エル。灰鍋亭に遊びに来てね。
お詫びに、料理を振る舞うわ」
優しい微笑みに、
リリナは思わず頷いていた。
よく分からないけれど、
何か誤解されていたらしい。
「弟の“秘密”、教えてあげる」
「秘密?」
首を傾げた瞬間――
「行かないでくれ。
エルが行くようなところじゃないだろ」
レイヴが焦ったように口を挟む。
「あら、そんなことないわよ。
料理目当てのお客さん、たくさんいるんだから」
ミラはくすっと笑い、
「じゃあ、またね」
そう言って、部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、
不思議と、さっきより大きく響いた。




