第299話 火は、まだ名を持たない
交熱――
それはソレイダの風習であり、
同時に、彼ら自身の鼓動が選び取る“証”だった。
火は、人が決めるものではない。
心臓が、先に知る。
今、ふたりの鼓動は、同じ速さで跳ねている。
それでも――
それだけで終われるほど、火は静かじゃなかった。
「……っ」
息を呑んだ、その瞬間。
レイヴはもう一度、深く唇を重ねてきた。
ためらいを含んだ優しさではなく、
火が火を呼ぶような、まっすぐな熱。
頬に添えられた彼の手は熱を帯び、
指先がそっと、耳の後ろへと滑る。
そこに刻まれる感覚が、
まるで印のように残っていく。
「……レイヴ……」
名を呼ぶ声は震えていた。
けれど、拒む響きはどこにもなかった。
視線の奥には、確かに火がある。
力が抜けていく身体を、
レイヴは逃がさないように抱きとめる。
その腕の中は、
焔に包まれているみたいに、熱かった。
「……君を、手放せる気がしない」
耳元で低く落とされた声が、
胸の奥をじりじりと灼く。
――けれど。
次の瞬間。
レイヴの身体が、わずかに強張った。
「……?」
首元に顔を埋めていた彼が、
ふっと息を止める気配が伝わる。
何かを感じ取ったように、
レイヴの視線が扉の方へ向いた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
視線が重なる。
レイヴの瞳には、
さっきまでなかった――
警戒と動揺が、はっきり浮かんでいた。
「……どうしたの?」
火が揺らぐように、リリナの心もざわめく。
そのとき――
廊下の奥で、
床がきしむ、微かな音。
次の瞬間。
「レイヴー!!」
張りつめた空気を裂くように、
強い口調の女性の声が響いた。
はっとして、レイヴが身体を起こす。
同時に、リリナの手を取って、彼女の身体も起こす。
――遅れるように、扉が開いた。
驚きに息を呑むリリナ。
レイヴは乱れた髪を直すように、
無意識に頭へ手をやっていた。
入ってきたのは、
背が高く、艶やかな黒髪を持つ、グラマーな女性。
迷いなく部屋へ足を踏み入れ、
まずレイヴを見て、
次に――ゆっくりと、リリナへ視線を移す。
目が合った瞬間、
リリナは慌てて会釈した。
女性は、視線を下から上へなぞるように、
じっくりと見定める。
そして、静かに微笑んだ。
「噂になってるのは……あなたのことね」
「……え?」
噂?
思わず言葉を失う。
ついさっきまで、火焼き鳥を食べていただけなのに。
そんなことで?
噂の早さに、胸がざわつく。
――この人は、一体……。
リリナは思わず、レイヴを見る。
視線が合った。
レイヴは両手を軽く広げ、
「知らないの?」とでも言うように、肩をすくめる。
「……えっと」
戸惑うリリナの前で、レイヴが口を開いた。
「俺の姉さんだよ」
「……え?」
「お姉さん……?」
再び女性へ視線を戻す。
彼女は、変わらず静かな微笑みを浮かべている。
けれどその目は、確かに――見定めていた。
「初めまして」
一拍置いて、
彼女は楽しげに付け足した。
「……ゆで卵ちゃん」
「ね、姉さん……!」
「ゆで卵……?」
そんなふうに呼ばれたのは、
生まれて初めてだった。




