第298話 香る火、重なる影
火祭りのざわめきが遠のいたあと、
ふたりが辿り着いたのは、街の中心から少し離れた高台に建つ屋敷だった。
夜の帳の中、石造りの門が月光を受けて淡く浮かび上がる。
灯籠が並ぶ小道の先に、重厚な扉が静かに佇んでいた。
太陽神の紋章が刻まれた古い屋敷。
けれど、どこか人の気配は少なく、静かだった。
「ここ。神官の家って言っても、今は俺しか住んでないけどね」
レイヴが扉を押し開けると、
内側から、ふわりと香の匂いが流れ出した。
「……いい匂い」
案内されたのは、屋敷の一角にある小さな客間だった。
厚手の絨毯、低いテーブルとソファ。
壁際には小さな暖炉があった。
「ご家族は……?」
飲み物の入ったグラスと、ぶどうの皿をテーブルに置きながら、
レイヴは短く答えた。
「ソル=アルテにいる」
――ソル=アルテ。
火山〈ヴァルカノ〉に近い、聖炎都市。
名前だけは知っている。
けれど、そこに暮らす人々の感覚までは、まだ実感がなかった。
リリナは、そのまま黙って聞いていた。
「俺は、この街が好きなんだ。
家にいると、どうしても父親の目が届くからさ」
なるほど、と頷く。
そういう事情なんだ。
「それに……父親とは、一緒に暮らせない」
それ以上は語らない声だった。
「……色々あるんだね」
そう言うと、レイヴは可笑しそうに少しだけ笑った。
「座りなよ」
先にソファに腰を下ろすレイヴ。
リリナも少し間を置いて、その隣に座る。
レイヴはテーブルの端に置かれた小皿に手を伸ばし、
木片のような香に、ふっと息を吹きかけた。
次の瞬間――
香が、ゆらりと煙を上げる。
「え……? どうやって火をつけたの?」
驚いて身を乗り出すリリナに、
レイヴはくすっと笑う。
「……残り火、あった」
本当だろうか。
見上げると、彼は肩をすくめた。
そのまま、ぶどうを房からひと粒取ると、
ひとつは自分の口へ。
もうひとつを、リリナの唇の前へ差し出した。
「……先日もらったんだ。甘いよ」
一瞬、動けなくなる。
恥ずかしさに頬が熱くなりながら、
そっと口を開けかけて――
結局、慌てて自分の指で受け取った。
レイヴは何も言わず、その様子をじっと見ている。
目を合わせられず俯いた瞬間、
距離が、ぐっと縮まった。
香の匂いが近い。
部屋の匂いなのか、レイヴの匂いなのか――
分からなくなるほど。
レイヴは、空いた手でリリナの手首に触れ、
預けたままのブレスレットに指先を滑らせた。
「あ……これ、返さないと……」
外そうとしたリリナの手を、そっと止める。
指が絡み、離れなくなる。
心臓の音が、うるさい。
「……持ってて」
その声は、低くて静かだった。
顔を上げた瞬間、
視線を逸らす間もないほど、距離が近い。
レイヴの呼吸が、すぐそこにある。
息が、触れそうで――
視線が、絡む。
次の瞬間――
影が重なり――
唇が、触れた。
やさしく。
けれど、確かな熱を帯びて。
「……っ」
胸の奥が跳ね上がり、
リリナは思わず目を閉じた。
香の匂いと、彼の温度に包まれて――
その一瞬は、確かに“火”だった。




