第293話 火を選ぶ距離
こちらを見ていた男が、ゆっくりとこちらへ歩みを進めてきた。
その動きだけで、胸の奥がひやりとする。
リリナは反射的に一歩下がり、次の瞬間には反対方向へ走り出していた。
――目が合うだけで、意味を持つ国。
交熱の文化が、脳裏をよぎる。
あの視線は、火ではない。
近づけば、奪われる類のものだ。
少し走ってから振り返ると、
男の姿はもう人混みの中に溶けていた。
胸を押さえ、息を整える。
ほっとした途端、喉の渇きに気づいた。
手にしていた飲み物を口に運ぶ。
――一口。
――二口。
空だった。
「えぇ……」
思わず小さく声が漏れる。
せっかくミレナさんからもらったお駄賃。
これじゃ、飲み物代で消えてしまいそうだ。
仕方なく、また屋台の列に並ぶ。
人探し――
どうすればいいのか、分からない。
手がかりも、ない。
考え込んでいると、
「ひとつください」
そう言いかけた声に、低い声が重なった。
「……二つ」
その声に、
胸の奥の火が、ふっと揺れる。
振り返ると、そこにいた。
「レイヴさん……!」
思わず声が出る。
まさか、こんな時間に会えるとは思っていなかった。
屋台の人が飲み物を二つ差し出す。
レイヴは迷いなく代金を払うと、そのまま一つを手渡してきた。
「あ、あの……私の分は……」
慌てて財布に手を伸ばすと、
「いいよ。俺のおごり」
さらりと、当たり前のように言われた。
「あ……ありがとうございます」
自然と笑顔になる。
その表情を見て、レイヴの口元もわずかに緩んだ。
彼は屋台のすぐ横、建物の影になった場所に腰を下ろした。
――ここ……。
さっき、あの男が立っていた場所だ。
一瞬、足が止まる。
思わず周囲を見回す。
いない。
胸の奥に残っていた冷たい感覚が、ようやくほどけていく。
「座りなよ」
見上げた先で、レイヴがそう言った。
「あ、うん」
隣に腰を下ろす。
思ったより距離が近くて、少し緊張した。
目が合う。
レイヴが微笑む。
つられて、リリナも笑った。
「エルって、どこの子?」
身なりを見て、何気なく聞いてくる。
「えっと……仕立て屋の娘、です」
咄嗟にそう答えた。
嘘。でも、レイヴは疑う様子もなく頷いた。
「ずっと屋内で縫い物してた?」
「え……?」
「ほら……」
視線が、二の腕に落ちる。
「肌が、白いから」
触れられてはいないのに、
視線でなぞられたような気がして、思わず腕を引いた。
「えっ……あ、うん!」
照れ隠しに笑い、そっと腕を押さえる。
「レイヴさん……これから本番、だよね?」
話題を変えると、彼は頷いた。
「うん。……レイヴでいいよ」
戸惑いながらも、頷く。
「レイヴ……」
近い距離で、視線が重なる。
「舞が終わるまで、待ってて」
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
「……時間、ある?」
「あるよ」
即答だった。
「……私、聞きたいことがあるの」
「聞きたいこと?」
(神獣に選ばれた印を持ってる人、何か知らないかな。
……少しでも、手がかりがあれば)
「だから……レイヴと、もう少し話したい」
彼は楽しそうに相槌を打つ。
「――今夜、一緒に踊ってみる?」
顔を覗き込むように言われて、こくりと頷く。
「お」
嬉しそうに笑うレイヴ。
リリナも、照れたように笑った。
――自分の中にある火。
それがどんなものなのか、知りたかった。




