第272話 静水の都で、ひとり泣く夜
アクエリシア王国――
南西に広がる静水の都、アク=ネリア。
水路沿いに並ぶ家々が月光を映し、
行き交う影鐘隊の影だけが、音もなく夜気を揺らしていた。
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リリナは、建物の陰に身を寄せていた。
そして――
堪えきれず、涙がこぼれた。
胸の奥が苦しくて、うまく息ができない。
理由は分かっているのに――
心が追いつかない。
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そのとき。
カラン……と、頭上で窓が開く音がした。
(……誰……?)
リリナは慌てて涙を拭い、
恐る恐る顔を上げる。
月明かりの中に現れたのは――
祈りの小径で出会った、あの旅人夫妻だった。
「ひ、姫様!? こんなところで何を……!」
妻が驚きに目を見開き、口元に手を当てる。
リリナもまた、驚きで言葉を失った。
「影鐘隊から逃げてたのかい? ひとりで……?」
妻は窓枠から身を乗り出し、
今にも手を伸ばしそうな勢いで覗き込んでくる。
その背後から、夫も顔を出した。
「お、おお……姫様!? 本物……!?
これはいけない、早く中へ!」
次の瞬間――
がしっ、と腕を掴まれる。
その力に引かれ、
リリナの体は、ふわりと室内へ引き入れられた。
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「ありがとうございます……」
深く頭を下げるリリナ。
妻はすぐにその頬をのぞき込み、
涙の跡を、そっと指で拭った。
「まあ……こんなに泣いて。
ああ、何があったの、姫さま」
やわらかな声。
その温もりに――
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
さっきまでの冷たい夜が、
まるで嘘のようだった。
「まさか、またお会いできるとはねえ」
妻はリリナをそっとソファへ座らせ、
冷たい飲み物を手渡す。
「喉、乾いたでしょう?」
「……ありがとうございます」
その優しさが、心に沁みる。
ぽつり、とまた涙がこぼれた。
「まぁまぁ……」
妻は隣に腰を下ろし、
やさしく頭を撫でる。
「影鐘隊も、ここまでは入ってこないよ。
夜明けまで、ゆっくりしておいき」
その言葉に――
リリナはようやく、小さく息を吐いた。
そして、そっと飲み物を口に運ぶ。
ひんやりとした水が喉を通り――
張りつめていた心の糸が、少しずつほどけていく。
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窓の外では、
水路に映る月が、静かに揺れていた。




