第265話 小川のきらめきと、触れそうな距離
風に紛れて、水のせせらぎがかすかに聞こえ始めた。
アズレアは嬉しそうに首を振り、尾を揺らす。
やがて――
小川が姿を現した。
澄み切った流れは陽光を受けて銀色にきらめき、
まるで水そのものが光をまとっているかのようだった。
リリナはしゃがみ込み、両手ですくった水にそっと頬を寄せる。
「綺麗……本当に冷たくて、気持ちいいです……!」
はじけるような声が水面に落ち、淡い波紋が広がった。
アズレアは夢中で水を飲み、
エリオンもその隣にしゃがみ込む。
「ここは、セレナス湖に比べると随分自由なんですよ」
水に指先を浸しながら、エリオンは穏やかに続けた。
「湖面に触れるのは“魂の形を乱す”とされていて……
子どもでも泳ぐことは許されません。ですが、ここなら――」
ふと、目が合う。
「冷水浴くらいはできますね」
「……やりますか?」
「やってみますか?」
同時に言って、ふたりは思わず笑い合った。
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靴を脱ぎ、水へ足を入れる。
「きゃ……っ!冷たい……!」
一気に熱が引いていく。
「気をつけてください。苔で滑ります」
そう言うエリオンの足取りも、どこかぎこちない。
リリナは流れの中で、小さな石を拾い上げた。
「これ……青く光ってます。どうしてでしょう……?」
覗き込むと、エリオンがすぐそばまで歩み寄る。
「この岩の欠片です。濡れると青く、乾くと緑がかるんですよ」
「思い出に……持ち帰ってもいいですか?」
「ええ。では僕もひとつ」
同じ石に手を伸ばした、そのとき――
ふたりの指が、かすかに触れた。
胸が、跳ねる。
思わず顔を見合わせ、照れたように笑う。
その瞬間。
「あっ……!いまカニが!」
リリナは裾をつまみ、無邪気に駆け出した。
「リリナ、あまりはしゃぎすぎると――」
言い終わる前に、
ザバッ――
水が大きく跳ねた。
「え……?」
振り返ると、
エリオンが尻もちをつき、水を浴びていた。
「エ、エリオン……!」
駆け寄りながらも、思わず笑いがこぼれる。
「……足元をとられたのは、僕でしたね」
濡れた髪をかき上げるその姿が、どこか新鮮で――
リリナの胸がくすぐられる。
「大丈夫ですか? 私につかまってください」
差し出した手を、エリオンが取る。
そのまま引き上げようとした――その瞬間。
ふたりの動きが重なり、
唇が――
ほんの指先ほどの距離で、止まった。
世界が、止まる。
水音さえ、遠のいたような気がした。
リリナの頬が、一気に赤く染まる。
「……大丈夫ですか……?」
震える声。
エリオンはわずかに息を吐き、静かに答えた。
「ええ……あなたが支えてくださったので」
その言葉に、
ふたりは同時に目を伏せ――小さく笑う。
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少しの沈黙のあと。
エリオンが、ふっと呟く。
「……この村に、小さな別荘を持っているんです」
「別荘……?」
リリナが顔を上げると、
エリオンは濡れた衣を軽く絞りながら、やわらかく笑った。
「このままでは戻れませんし……
よろしければ、立ち寄りませんか?」
その声は穏やかで――
どこか、楽しそうで。
リリナの胸が、また小さく高鳴る。
「……はい」
頷くと、
エリオンの瞳がやさしく細められた。
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ふたりは小川を離れ、村の奥へと歩き出す。
その先に待つのは――
“ふたりきりの時間”が、静かに流れる場所。
小さな別荘だった。




