第264話 アズレアの導き、小川と村の気配
アズレアの鼻息が、ふっと荒くなった。
前足で地を軽く踏み鳴らす音が、静かな草原に響く。
エリオンが、はっと振り返る。
その動きにつられて、リリナもアズレアへ視線を向けた。
馬は反対方向をじっと見つめ、落ち着かないように耳を揺らしている。
「……アズレア、何か伝えていますか?」
馬のことは分からない。
けれど――胸の奥に、そんな感覚がふっと浮かんだ。
エリオンは目を細め、静かに微笑む。
「分かりますか?」
その言葉に、リリナは瞬きをした。
エリオンはそっと手を離し、足元の安定を確かめてからアズレアへ歩み寄る。
「この先の小川に行きたいのでしょう」
「小川があるんですか?」
ぱっと顔を明るくするリリナに、エリオンは頷いた。
アズレアの首筋を撫で、手綱を引くと――
馬は嬉しそうに鼻を鳴らす。
リリナがそっと近づき、覗き込む。
つぶらな瞳が、ぱちりと瞬いた。
次の瞬間――
鼻先が、リリナの手の甲にふれた。
「……っ、かわいい……」
思わず指先が震え、胸の奥があたたかくなる。
「賢くて……可愛いですね」
自然と、笑みがこぼれた。
エリオンも、穏やかに微笑んだ。
「こんなに近くで馬を見るのは初めてですか?」
「はい……こんなにも表情が分かるなんて」
そのとき、アズレアが再び鼻を鳴らした。
ふたりは思わず顔を見合わせ、小さく笑う。
張りつめていた空気がほどけ、
肩の力が、ふっと抜けていく。
⸻
アズレアは尾を揺らし、
まるで「早く行こう」と急かすように前足を鳴らした。
ふたりは顔を見合わせ、ゆっくりと歩き出す。
少し進むと――
緑の合間に、小さな集落が見えてきた。
「……えっ、村がある……?」
思わず声を上げると、エリオンが静かに答える。
「オルナ村です。
アクエリシア領ですが、国境が近いので独自の暮らしをしています」
どこか楽しそうに、エリオンは微笑んだ。
「ここの人たちは、僕のことを知りません」
「えっ……エリオンを……?」
驚いて見上げると、エリオンは肩をすくめる。
「“たまに来る都会の男”くらいの認識でしょう」
その言い方が妙に可笑しくて、
リリナは思わず吹き出した。
ふたりの笑い声が、やわらかな風に乗って広がっていく。
「来る者は拒まず、去る者は追わず――
そんな村なんです」
その言葉に、リリナの頬に自然な笑みが浮かんだ。
「……素敵ですね」
朝の光の中。
ふたりと一頭の小さな旅は、
静かに、その先へと続いていく。




