第263話 丘の上の風、ふたりだけの遠出
ふたりは、馬小屋へと足を運んでいた。
木の扉を開くと、ふわりと干し草の香りが広がる。
朝日に照らされた埃が、静かに舞っていた。
澄んだ光の中で、エリオンが帽子を軽く傾ける。
白と淡青の衣装はよく似合い、まるで――“王子の休日”そのものだった。
彼が手綱を引くと、一頭の馬が姿を現す。
青黒い毛並みは水面のように光を反射し、気品に満ちていた。
「アズレアと言います」
優しく首を撫でると、馬はぶるるっと鼻を鳴らし、誇らしげに耳を立てる。
「綺麗な馬ですね……」
リリナの言葉に、エリオンは穏やかに頷いた。
「少し遠出をしたいのですが……
馬車では、ふたりきりになれませんから」
さらりと告げられた一言に、胸がどくんと跳ねる。
エリオンは鞍に跨がり、手を差し伸べた。
「アズレアに連れて行ってもらいましょう」
その手に触れた瞬間、身体が軽く引き寄せられる。
気づけば、自然とエリオンの背へと預けられていた。
「……僕に、しっかり掴まっていてください」
耳元に落ちた声は低く、あたたかくて――
思わず腕が彼の腰へと回る。
その手に、エリオンがそっと重ねた。
(……心臓が……落ち着かない……)
昨日あんなに触れたはずなのに――
どうして、こんなにも意識してしまうんだろう。
アズレアが地を蹴る。
風が頬を撫で、景色が後ろへと流れていく。
ふたりきりの、朝の旅路。
リリナは気づかない。
すぐ目の前で――
エリオンが、そっと微笑んでいることに。
⸻
やがて――
丘の上に広がる、柔らかな草原へと辿り着いた。
中央には一本の大きな木。
光を受けて、枝葉がゆったりと揺れている。
(……セレフィアの大樹みたい……)
「似ていますよね」
心を読まれたような言葉に、リリナははっとする。
アズレアを止め、エリオンが先に降りる。
そして再び、手を差し出した。
その手に触れた途端――
軽く抱き寄せられ、身体がふわりと宙に浮く。
「着地のとき、足がふらつきます。急に走らないように」
優しく笑われ、リリナは思わず俯いた。
(……子ども扱い……?
でも……こんなふうに、守られるのは――嫌じゃない……)
頬が、じんわりと熱くなる。
地面に足をつけた瞬間、わずかに体が揺れた。
そのまま――
エリオンの腕に、抱き止められる。
「……気をつけてください」
囁く声が近くて、また胸が跳ねる。
⸻
やがてエリオンは手を取り、大木のもとへと導いた。
「ここから見渡せるアクエリシアを、
リリナにも見てもらいたかったんです」
立ち止まり、空へ向けて手を広げる。
「言葉より、見ていただくほうが伝わりますから」
その先に広がっていたのは――
息を呑むほどの絶景だった。
「わぁ……!
すごく綺麗……あっ、あそこがお城ですね!」
巨大なセレナス湖が、鏡のように陽を映し出している。
その湖畔で白く輝くアクエリシア城。
エリオンは、湖畔の一角を指差した。
「……あれが神殿です」
白亜の柱が連なる、水の聖域。
「……あの場所で、共鳴を……?」
静かな問いに、エリオンは頷く。
「恐らく。ですが――
地誌を探しても、“僕だけが開ける扉”はどこにも記されていない」
「扉が……ない……?」
驚くリリナに、エリオンは微笑んだ。
「きっと触れるのは――“水”です」
「あ……」
その言葉が、胸の奥へすとんと落ちる。
「きっと、そうですね!」
ふたりは顔を見合わせ、笑った。
⸻
リリナは、あらためて景色を見つめる。
「……本当に、美しい国です」
胸が、じんわりと温かくなる。
――ふと、視線を横に向けると。
そこには同じ景色を見つめる、エリオンの姿。
陽を受けて淡い髪が揺れ、
灰青の瞳が、やわらかく細められていた。
「エリオンも……とても素敵」
ほんの小さな声のつもりだった。
けれど――
エリオンは、聞いていた。
ふっと、やわらかく微笑む。
見つめ合うふたり。
朝の風が、そっと頬を撫でた。




