第258話 扉越しの声、濡れた髪のエリオン
その夜。
温い湯に身を沈めながら、
リリナはぼんやりと天井を見上げていた。
(……エリオン様)
静水夜の儀で歌う彼の姿は、誰よりも美しく、
胸の奥に触れるような祈りだった。
――けれど。
儀式が終わってからのエリオンは、
必要最低限の返事しかせず、
視線すら合わせようとしなかった。
(嬉しかったって……ちゃんと言いたかったのに)
ティアラ王女の歌を継いだその声も。
静水祭のすべてが美しかったことも――
胸いっぱい、伝えたかったのに。
――話したいことが、たくさんあるのに。
⸻
湯から上がり、髪を拭きながら歩き出す。
(このままじゃ……共鳴なんて、できない)
セレーネは、きっと待っている。
けれど、その前に――
エリオンが、遠い。
気づけば足は、彼の部屋の前で止まっていた。
(……いるかな)
扉を見つめる。
鼓動が、少しずつ速くなる。
「出なかったら戻る。それで終わり……」
自分に言い聞かせて――
リリナは控えめに、ほとんど“音にもならない”ノックをした。
……反応はない。
ほんの少し、胸の奥が緩む。
会いたいのに、怖い。
矛盾した感情が、静かにざわめく。
(……戻ろう)
そう思って、踵を返した――その瞬間。
⸻
背後の空気が、ふっと動いた。
誰かの気配。
振り向くより先に――
静かに沈んだ灰青の瞳が、目の前に現れる。
「……っ!」
悲鳴がこぼれかけた口を、
すばやくエリオンの手が塞いだ。
「声を……抑えてください」
低く、落ち着いた声。
すぐそばで、息遣いがかすかに触れる。
入浴のあとだったのだろう。
濡れた髪が頬にかかり、
いつもと違う前髪が、その瞳に影を落としていた。
その姿に――
胸が、どくんと跳ねる。
息を飲むと、
エリオンはそっと手を離した。
⸻
静かな廊下に、ふたりの呼吸だけが残る。
「……部屋に、入りますか?」
意外なほど、やわらかな声だった。
驚きと安堵が混ざる。
リリナは、小さく頷いた。
エリオンは扉に手をかけ、静かに開く。
そして――
「どうぞ」
わずかに、微笑んだ。
その瞬間。
心臓が、きゅうっと締めつけられるように鳴る。
リリナは、吸い寄せられるように――
扉の向こうへ足を踏み入れた。




