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黎光の継承―七つの魂と選ばれた少女―  作者: りこ。
第三章 水鏡の奥、影の真相
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第257話 静水夜 ― 湖に残る歌、姫に届く光

静水祭最終日――。


空気は一段と澄み、朝から湖畔に白い靄が薄く漂っていた。

黒月の影響で夜の催しはすべて中止となり、本来なら日没後に行われるはずだった「静水夜の儀」も、今日は昼前に執り行われることとなった。


けれど……それでも人々は集まっていた。


水の国アクエリシアにとって、静水夜は特別な日。

湖が一年で最も“静かに呼吸する”瞬間を迎える日だからだ。



湖へ続く参道には、薄い水色の布が風に揺れ、

人々は静かに歩きながら祈りの言葉を胸の中で唱えている。


(……去年は、どんな静水夜だったんだろう)


そんなことを思った瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。

ティアラ王女――エリオンの妹。

もうこの世にはいないけれど、民は今も彼女の歌を“水を澄ませる声”として語り継いでいると聞いた。


今や、その歌を継ぐのは、エリオン。



湖畔には白い石を積んで作られた祭壇があり、

周囲には青いルーメノアが静かに揺れていた。


リリナは、その美しさに思わず息を飲む。


(水が……こんなに、澄んでいる)


まるで鏡のように空を映し、

波ひとつ立たず、ただ光だけが揺れている。


やがて、司祭が前に立ち、手を掲げた。


「――静水の時、満ちました」


その声を合図に、人々のざわめきが止まる。


空気が、静かに、深く沈んだ。



そして。


ひとりの影が、静かに祭壇の前へと進み出た。


青銀の外套が光を受けて揺れる。


(……エリオン様)


リリナは息をのんだ。


すれ違いも、胸のざわめきも、この時だけは遠く感じた。

ただ、水のように澄んだ空気が、彼の周りに満ちていく。


エリオンは深く息を吸い――

そっと目を閉じる。


一瞬、すべての音が遠のいた。


そして、静かに歌い始めた。


──水は眠り

光は揺れ

いのちは 深く 帰りゆく

我らに宿る ひとしずくへと……


透き通った声が、湖の面を渡って広がっていく。


音が消えるのではなく、

水に吸い込まれて淡く響き続けるような、不思議な歌声だった。


(……綺麗……)


リリナの胸に、温かいものが広がった。


ティアラ王女が愛していた歌。

静水夜にだけ歌われる、湖への祈り。


歌に合わせて、湖面に小さな光がふっと灯り、

水の上を漂うように揺れた。


誰かの花が、水に応えたのだ。


やがて、他の花もひとつ、ひとつと光を帯び、

湖面を漂う光の帯がゆっくりと繋がっていく。


(……湖が、息をしてるみたい)


この景色は忘れられない――

リリナはそう思った。


エリオンの歌が湖面に溶けていったその瞬間だった。


風が止む。

音が消える。


(……え?)


リリナの胸がふっとざわめく。


湖面に漂っていた光が、

まるで何かに導かれるようにすうっと集まり始めた。


湖面は揺れていないのに、

水の奥だけが静かに“歪んだ”。


まるで、湖そのものが目を覚ましたように。


それは、ただの光の揺らぎではなかった。

水そのものが “呼吸” を変えたような——

深い、古い、静かな気配。


エリオンも気づいたらしい。

微かに肩を震わせ、湖へ視線を向けた。


次の瞬間――

湖底から、青白い光がふわりと昇りはじめた。


(光……?)


それは、ひとつではなかった。

幾重にも重なりながら、水の底からゆっくりと浮かびあがる。


——いや。


形を成している。


(……まさか)


薄い霧を押し分けるように、

巨大な影が、水面の直下を滑るように現れた。

湖の半分を覆うほどの影だった。


尾の先が光を散らし、

鱗が、氷のように光を返していた。


息を呑むほど静かで、

息を呑むほど美しい“影”。


「……セレーネ」


氷鱗の鯨——

アクエリシアの守護。

水鏡の神獣。


それが、確かに“そこ”にいた。


だが——


祭壇に並ぶ司祭たちも、

祈りを捧げる民衆も、

誰ひとりとして気づいていない。


見えているのは、

リリナとエリオンだけ。


セレーネの巨大な体が水面すれすれをゆっくりと滑る。

鱗が光を反射し、湖は星の海のように輝いた。


リリナの胸に、熱いものが込みあげる。


(……綺麗……こんな……)


セレーネはリリナの方へ、ゆっくりと顔を向けた。

瞳は深い青。

人の心の底まで見透かすような静かな光。


エリオンが小さく息をのむ。


セレーネの視線は優しく、

その瞳は、人を見るというより――

魂の奥を静かに覗き込むようだった。


一瞬だけ——

セレーネの額の紋が光り、

湖面に淡い波紋が広がる。


リリナの胸の中で、

何かがそっと触れたように温かく揺れた。


(水……声……?)


言葉にはならない。

けれど確かに、

“心で” 触れた気がした。


やがてセレーネはゆっくりと身を翻し、

静かに湖の深みへと帰っていき、

光が水の底へ吸い込まれるように消えていく。


その瞬間——

湖はふたたび、静水の“完全な静けさ”へ戻った。


風も止まり、

水音も消え、

ただ光だけが淡く揺れている。


誰も知らない。

いま、この場で“神獣が現れた”ことを。


リリナとエリオンだけが見た幻のような光景は、

まるで夢の断片のように胸へ残り続けた。


司祭が両手を合わせ、深く頭を下げる。


「今年も……静水夜の祈りは、湖に届きました」


その穏やかな声が、儀式の終わりを告げた。


民は静かに目を閉じ、祈りを捧げる。


リリナも胸の前で指を組み、そっと目を閉じた。


胸に触れた、あの温かい波紋。

セレーネの瞳に宿っていた静かな光。

エリオンの歌声と溶け合うように揺れた湖の息づかい。


——忘れない。


きっと――


心に刻む。


(どうか……

来年の静水夜は、誰も怯えず、

皆が安心して夜の湖を見られますように)


祈りは、静かに湖へ沈んでいった。

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