第256話 揺れる月影、すれ違う心の温度
夕食を終えたあと――
リリナとレヴィアンは、バルコニーに佇んでいた。
昼間、セラフィンがここから見下ろしていた庭園。
迷路のように見えた低木の道も、
高い位置から見れば、水紋のような曲線を描き――
ひとつの美しい模様のように広がっている。
静かな風が、頬を撫でた。
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そのとき。
背後から、足音が近づく。
ふたりが振り返ると――
そこには、エリオンが立っていた。
日没と同時に帰還したらしい。
昨夜の混乱を受け、
彼の率いる警護隊は、民へ声かけを続けていたという。
「お疲れ様でした」
レヴィアンが穏やかに声をかける。
リリナも、小さく口を開いた。
「……おかえりなさい」
エリオンの視線が、ゆっくりとリリナへ向く。
ふたりの目が――静かに重なった。
胸が、ふっと揺れる。
昨夜のぬくもりと、
今日、セラフィンから聞いた“幼き日の姿”。
そのすべてが重なり――
リリナの心は、わずかに迷っていた。
エリオンは微笑む。
けれどその笑みは――
どこか、確かめるような温度を帯びていた。
リリナも微笑み返す。
……けれど。
胸の奥では、答えの出ないざわめきが続いている。
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「夕食を済まされたのでしたら、
少しお休みになられては?」
レヴィアンのやわらかな声が、空気を整える。
「私たちは、ただ月を待っているだけですので」
「月……ですか?」
エリオンは夜空を見上げる。
だが、まだ月は姿を見せていなかった。
「リリナ姫が、黒月への変化を気にされていて」
その言葉に、リリナは少しだけ恥ずかしそうに微笑む。
気づけば――
リリナとレヴィアンは、自然に肩を並べていた。
そこへ。
エリオンが歩み寄る。
そして――
リリナの隣に、静かに立った。
(え……近い……)
心臓が、大きく跳ねる。
左右をふたりに挟まれ、
逃げ場のない距離。
エリオンの体温が、触れそうで――
リリナの視線が、落ち着かなく揺れた。
「……あ、あの……」
声が、わずかに震える。
「レヴィアン様がおっしゃるように……
その、少し休まれたほうが……」
一瞬、言葉が詰まる。
「……朝から、働き通しですよね」
それは、気遣いの言葉。
けれど同時に――
距離を取ろうとする、戸惑いでもあった。
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沈黙。
空気が、わずかに冷える。
「……そうですか」
ほんの一瞬だけ、間があった。
わずかに視線が揺れる。
「分かりました」
その響きが――
胸に、ひりつくように刺さる。
(え……怒らせた……?)
(そんなつもりじゃ……)
(違うのに……)
エリオンは、レヴィアンにだけ穏やかな表情を向ける。
軽く挨拶を交わし――
そのまま、静かにバルコニーを去っていった。
残されたのは――
リリナと、レヴィアン。
風の音だけが、やけに大きく感じられる。
リリナは、エリオンが消えた通路を――
しばらく、動けずに見つめていた。
ふと、視線を感じる。
振り返ると――
レヴィアンは、一瞬だけ目をそらし、
何事もなかったように微笑んだ。
そして、夜空を仰ぐ。
リリナも、何かを飲み込むように前を向き――
月を探した。
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しばらく、沈黙。
ふたりで、夜空を見つめる。
そのとき――
胸の奥がいっぱいになり、
思わず、小さなため息がこぼれた。
「……はは」
レヴィアンが、かすかに笑う。
驚いて見上げると――
彼の手が、そっと伸びてきた。
ぽん、ぽん――
やさしく、頭に触れる。
その距離の近さと、ぬくもりに――
リリナの頬が、わずかに緩んだ。
「……ごめんなさい」
小さく笑う。
「ため息なんて……ついてしまって」
レヴィアンは、静かに首を振る。
何も言わず――ただ、受け止めるように。
(……優しい人だな)
その温度が、胸に広がった。
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やがて――
雲の切れ間から、月が姿を現す。
白い光が、バルコニーに降り注いだ。
「……今日、満月でしょうか?」
リリナが首を傾げる。
レヴィアンも、同じように空を見上げた。
「ユリウス殿がいれば、
きっと詳しく教えてくださるのでしょうね」
リリナは、じっと月を見つめる。
「……満月に見えますけど……」
少しだけ、目を細めた。
「下の方が……少し影になっているような……」
レヴィアンも、視線を凝らす。
「確かに……満ち欠けにしては、少し不自然ですね」
ふたりは並んで、夜空を見上げた。
月は、美しい。
けれど――
その輪郭に、
ごく薄い“何か”がまとわりついているようにも見える。
「……綺麗ではありますけど」
リリナの言葉に、
レヴィアンは静かに頷いた。
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バルコニーを渡る風は、ひんやりと澄んでいて。
その空気の奥に――
言葉にならない“予感”だけが、残っていた。




