第237話 静めの儀、そよぐ水音と揺れる心
静水祭初日――“静めの儀”。
アクエリシアの朝は、いつも以上に静まり返っていた。
祈りの煙が細く立ちのぼり、湖上には淡い霧の道がかかる。
風さえも、息を潜めている。
リリナは、そっと胸に手を当てる。
(……昨日の、あの……)
エリオンの指先。
引き寄せられた温度。
触れた唇。
――そして、「好きでした」という告白。
胸が、ぎゅっと縮まる。
(どう顔を……見ればいいの……)
そのとき。
「リリナ姫様。静めの儀の装束をお持ちしました。」
衣装を整える侍女の声に、はっと現実へ引き戻される。
差し出されたのは、淡い湖色の衣。
光を受けるたび、水面のように揺らめく薄布。
腰には白銀の紐が結ばれ、祈りの花弁を入れる小袋が添えられている。
着替えを済ませても、心は落ち着かない。
(エリオン様は……どんなお顔で来られるんだろう……)
不安と期待が入り混じる中――
「姫様、準備は整いましたか?」
扉越しに、静かな声が響いた。
聞き慣れた、穏やかな声。
胸が、跳ねる。
リリナはゆっくりと扉を開けた。
そこに――エリオンが立っていた。
湖色の祝い装束。
胸元には騎士の青い紐帯。
昨日とは違う、凛とした表情。
けれど――
視線が触れた瞬間、
その眼差しが、ほんのわずかに揺れた。
(……エリオン様も、気まずいのかな……)
ふたりの間に、静かな空気が流れる。
「……おはようございます、リリナ姫様。」
いつも通りの声。
けれど、ほんの少しだけ“間”が長い。
「おはようございます……エリオン様。」
視線が合う。
すぐに逸れる。
昨日まで当たり前だった笑顔が、今日はうまく作れない。
エリオンは胸元の紐帯を整え――
そして、いつものように手を差し出した。
けれど。
一瞬だけ、躊躇う。
ほんの、わずかな間。
(……触れてしまえば、昨日を思い出すから……?)
それでも。
その手は、差し出された。
「……行きましょう。静めの儀が始まります。」
リリナも、ほんの一瞬だけ呼吸を止め――
そっと、その手に触れた。
触れた瞬間。
ふたりの呼吸が、わずかに揺れる。
繋いだ手だけが、
この静かな朝の中で、確かに熱を帯びていた。
⸻
ふたりは、聖水広場へと向かう。
湖畔には白布が張られ、
水上には装飾を載せた小舟が静かに並んでいた。
祈り手たちはすでに集い、
青い霊煙が空へ細く昇っている。
広場の中央では、アクエリシア王が儀式の準備を整えていた。
「お越しになりましたね、リリナ姫。」
優しい声に頭を下げながらも、胸の奥はまだ落ち着かない。
エリオンは王の隣へ進み、
役目としての立ち位置へと収まる。
その横顔は――
昨日の熱を覆い隠すように、静かな水面のようだった。
(……昨日のことには、触れないつもりなのかな)
そう理解した瞬間。
安堵と、わずかな寂しさが胸に広がる。
やがて王が両手を掲げ、
静めの祈りが湖へと響き渡った。
そして――
「リリナ姫。“光の花弁”の奉納を。」
一斉に、視線が集まる。
胸が、小さく跳ねた。
そのとき。
エリオンが、わずかに頷く。
「……大丈夫です。ゆっくり。」
その言葉は、昨日とは違う温度で――
静かに、支える強さを持っていた。
リリナは小袋に手を入れ、
ひとひらの光の花弁を取り出す。
風が止む。
水音だけが、世界に残る。
ゆっくりと、両手で捧げる。
花弁は光を受けて輝き――
湖面へ落ち、静かに溶けていった。
誰もが、息をのむ。
その静寂の中で――
エリオンの横顔が、わずかに微笑んだ。
誇らしげに。
(……昨日のことは、今は置いておいて)
(今日の私は――この国のために祈る)
胸の奥で、静かに決意する。
静水祭の初日が、
静かに、幕を開けた。




