第228話 祈りの小径、揺れる面影
応接間を後にしたふたりは、
湖の気配が差し込む回廊へと歩き出した。
「たくさんの帽子……ありがとうございます」
リリナが振り返ると、エリオンは帽子箱を抱えたまま、柔らかく微笑む。
「せっかくです。ひとつ選んで、外に出てみませんか?」
「……はい!」
弾むような返事に、エリオンは箱を開けた。
中から取り出したのは、つば広のキャペリン。
「こちらを。……今日の空に似合いそうです」
差し出されたそれを、リリナは頬を染めながら受け取る。
そっと被った、その瞬間——
開け放たれた回廊から入り込む風が、
ふわりと髪を撫でた。
キャペリンのリボンが、やさしく揺れる。
⸻
エリオンと並び、小さな階段を降りる。
石畳を踏むたび、湖面の光が近づいてくる。
ふたりの影が、寄り添うように伸びていた。
向かう先は、湖畔に沿って細く続く小道——
“祈りの小径”。
歩くほどに城の気配は遠ざかり、
水の匂いと風の音だけが静かに満ちていく。
「この道は、朝と夕に“耳を澄ます”ための場所なんです」
「耳を……澄ます?」
リリナが首をかしげると、エリオンは穏やかに頷いた。
「アクエリシアでは霊性を重んじますから。
朝露の気配と、陽が沈む前の水の音——
そのふたつに、感謝を捧げるのです」
「……素敵ですね」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
やがて、湖畔にせり出すように作られた石の腰掛けへ辿り着いた。
風がよく抜け、湖を一望できる場所。
エリオンはそこで足を止め、湖面へ視線を落とす。
「……妹も、よくここに座っていました」
その声は、光に溶けるように静かだった。
リリナも隣に腰を下ろし、ためらいながら問いかける。
「……ティアラ王女は、どんな方だったのですか?」
エリオンの横顔が、わずかに揺れる。
けれどすぐに、受け止めるように湖へ視線を戻した。
「……妹とは、五つ違いでした」
その言葉に、リリナの胸が小さくざわめく。
(……)
ほんの一瞬、視線が揺れた。
視線に気づいたのか、エリオンが小さく笑った。
「僕の年が、気になりますか?」
リリナは慌てて首を振る。
……けれど、頬は赤い。
「リリナ姫様とは四つ違いです。
……レンセリオンも、僕と同い年ですよ」
(……そうだったんだ)
知らなかった距離が、少しだけ近づいた気がした。
エリオンは再び湖を見つめる。
「妹は、よく笑う子でした。
でも、生まれつき体が弱くて……外には、ほとんど出られませんでした」
風が水面を揺らす。
「だから、この小径が……妹にとっての“外の世界”だったんです」
静かな言葉。
リリナは胸の奥が痛くなり、そっと手を握った。
「以前……レヴィアン様とお話しした時に、
エリオン様は“あの子に称号を贈りたかった”と……」
エリオンは少しだけ目を伏せる。
「……言いましたね。ええ。ティアラにあげました」
その一言で、すべてが繋がる。
(……私、ずっと……勘違いしていたんだ)
胸が、きゅっと締めつけられる。
ずっと心に引っかかっていた“誰か”は——
妹のことだったのだ。
エリオンは、懐かしむように続けた。
「三年に一度、剣技大会があって……
ある年、優勝した女性剣士が、とても強かったんです」
口元に、かすかな笑み。
「僕は剣が得意ではありませんでしたが……
妹の前で、真似をしてみせたことがありました」
そして。
「——『お兄様、かっこいい! 優勝できるよ!』と」
その声が、今もすぐそばにあるように感じた。
「……だから、強くなろうと思ったんです」
静かに、けれど確かな決意。
「妹の夢が、嘘にならないように。
守れるように」
リリナの胸が、熱くなる。
「エリオン様は……ちゃんと叶えたんですね」
そっと言葉を紡ぐ。
「ティアラ王女……きっと、すごく喜ばれていたと思います」
エリオンは目を閉じ、風を受けた。
「……見せたかったですね。
あの子が信じてくれた“未来の僕”を」
一拍。
「……本当に」
静かな後悔が、やさしく滲む。
リリナは湖を見つめながら言った。
「エリオン様は……とても優しくて、強いお兄様です」
言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「その優しさが、ティアラ王女を支えて……
きっと今も、この国を支えているんだと思います」
エリオンの瞳が、わずかに揺れた。
湖の光を映しながら、深く静かに。
リリナも目を閉じる。
水の音。
風の気配。
遠くの、誰かの笑い声。
すべてが胸の奥に届き、やさしく波紋を広げていく。
「……湖の音って、やさしいんですね」
エリオンは微笑んだ。
「水は、すべてを受け止めてくれますから。
怒りも、悲しみも、喜びも」
静かな声。
「耳を澄ませば……心の波も、やがて静まります」
「……はい。わかる気がします」
再び、風がふたりの間を通り抜けた。
祈りの小径に流れるその風は——
ふたりの間に生まれた静かな温度を、
そっと撫でていった。




