第223話 湖へ至る道、揺れる面影
馬車の車輪が、石畳をゆっくりと進んでいく。
いくつかの街道を越え、
太陽が高く昇ったころには、景色もすっかり変わっていた。
窓の外には、陽光を受けてきらめく草原が広がっていた。
濃い緑の中を風が駆け抜け、白い花が小さく揺れる。
湖からの冷たい気配が、ひんやりと頬を撫でた。
その車内で、リリナは静かに息を整えていた。
向かいの席にはエリオン。
窓の外を眺めているようで――
どこか、リリナの気配を追っているようだった。
揺れに身を任せるうちに、瞼がゆっくりと重くなっていく。
「リリナ姫様」
ふいに呼ばれ、リリナははっと目を開いた。
エリオンが隣の席を軽く指で叩いている。
“こちらへ”と、静かに誘うように。
リリナは少し照れながらも頷き、席を移した。
腰を下ろした瞬間、
エリオンがそっと手を添え、頭を支えてくれる。
そのまま、やわらかく肩へと導かれた。
自然で、優しくて――
心がほどけていく。
「……私、寝てしまうかもしれません」
「ええ。構いませんよ。」
水面のように穏やかな声。
その温度に包まれ、
リリナは力を抜いた。
ふと、胸の奥に、あの話がよぎる。
ティアラ王女も、きっと――
こうして寄り添っていたのだろうか。
あの優しい眼差しを、
独り占めしていたのだろうか。
(妹として寄り添うくらい……
ティアラ王女も、きっと怒らないよね……)
ささやかな祈りを胸に、そっと瞳を閉じた。
⸻
「着きましたよ、リリナ姫様。」
エリオンの声が、水音のように静かに届く。
リリナはゆっくりと顔を上げた。
そのまま馬車が高台を越えた瞬間――
視界が、一気に開ける。
「……っ」
広がっていたのは――
巨大な湖、セレナス湖。
陽光を受け、無数の光が弾ける。
鏡のように澄んだ水面が、果てしなく広がっていた。
湖畔には白銀の塔が立ち並び、
淡い霧が天へと昇るようにたなびいている。
街は、水と氷で編まれた彫刻のようで――
透きとおる冷気が、聖域の静けさをまとわせていた。
これが――アクエリシア。
リリナは、息を呑む。
(……西翼館の、あの絵……)
幼い頃から見ていた壁画。
母がよく眺めていた、セレナス湖の風景。
その色が、今、目の前にある。
「……とても、綺麗な国ですね」
こぼれた言葉に、エリオンは微笑んだ。
「ええ。」
静かに頷く。
風が湖面を渡り、霧がかすかに揺れる。
絵でしか知らなかった母の故郷。
それなのに――
なぜか、懐かしい。
(……お母様の故郷に、私……来たんだ)
その実感が、胸をやわらかく満たした。
リリナは水面を見つめ、小さく息を吸う。
清らかな風が吹き抜け、
湖の光が大きく揺れた。
夏の風が、水の香りを運びながら
静かに頬を撫でていった。




