第212話 目覚めの腕、揺れる現実
「……さま……」
遠くで、誰かが呼んでいる。
水の底から浮かび上がるように、意識が揺れた。
(……この声……エリオン様……?)
霞がかった思考が、ゆっくりと現実を思い出していく。
「リリナ姫様っ!」
強い声が、世界に色を戻した。
はっと目を開く。
――すぐ目の前に、エリオンがいた。
必死な表情で、こちらを覗き込んでいる。
(……腕の中……?)
気づけば、抱き上げられていた。
リリナは反射的に、エリオンの袖を掴む。
「エリオン様……」
その瞬間――
エリオンは、強く抱きしめた。
大きな手が、震えている。
その温もりに包まれた途端――
アウルの言葉。
アンダーヴェイルの黒い街。
ヴァエルの腕。
黒月。黒胎。
すべてが、一気に胸へ押し寄せた。
(……夢……?)
ここは――黎光の書庫。
倒れていたのだろうか。
「……良かった……本当に……」
耳元で、エリオンの息が震える。
その声に、胸が締めつけられる。
リリナの反応が薄いことに気づき、
エリオンはゆっくりと顔を離した。
再び、視線が合う。
揺れる瞳。
まだ、夢と現実の境目に立っているような感覚。
「……ひとまず、衛兵と医務官を呼びます。」
その冷静な声が、逆に不安を煽った。
「え……衛兵……医務官……?」
リリナは慌てて身体を起こす。
その拍子に――
襟元がずり落ち、胸の輪郭が浮かんだ。
「っ……!」
咄嗟に手で押さえる。
「あ、あの、これは……っ」
言葉が追いつかない。
だがエリオンは、驚いた様子も見せず、
静かに自分のガウンを肩へ掛けた。
「……ありがとうございます……」
リリナは俯いたまま、布を握りしめる。
――そのとき。
(……ネックレスが、ない……!)
胸元を探る指が、震えた。
ヴァエルの手。
黒い月。
奪われた感触が、はっきりと残っている。
「まだ周囲に潜んでいる可能性があります。」
エリオンの声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
そのまま、すっと立ち上がる。
静かな動きなのに――
背中からは“護る者”の緊張が溢れている。
リリナの胸がざわついた。
(違う……!)
(襲われたんじゃない……!)
(でも……説明できない……!)
混乱のまま、リリナも立ち上がり――
エリオンの腕を掴む。
必死な瞳。
エリオンはわずかに眉を寄せ、
そして――
リリナの頭を、そっと撫でた。
優しく。
確かめるように。
(……髪……)
指先が触れる。
ヴァエルが結んでくれたはずの髪はほどけ、
足元には淡い装飾のリボンが落ちていた。
(……解けたんだ……)
「今……何時ですか……?」
顔を上げる。
エリオンの視線は、心配で揺れたまま絡みついていた。
「……深夜です。」
「深夜……? 日付は……変わりました?」
一拍。
「北西の山域には……?」
エリオンの呼吸が止まる。
そして、静かに首を振った。
次の瞬間――
身体がふわりと浮く。
「きゃっ……!」
エリオンが迷いなく、リリナを抱き上げていた。
安定した腕。
拒む間もない。
「えっ、あの……!」
書庫を出ると同時に、エリオンは短く命じる。
「外部からの侵入の可能性がある。捜索を。
姫様には医務官を――部屋へ。」
衛兵たちが一斉に動き出す。
(ち、違う……!)
(誤解されてる……!)
焦るリリナをよそに、
エリオンは迷いなく歩き出した。
リリナを抱えたまま。
――その歩幅は、いつもより速い。
まるで何かから遠ざけるように。




