第207話 黒月の養分、黒胎の正体
黒胎の上空を、ヴァルゼアがゆっくりと旋回していた。
赤黒い塊は、呼吸するように揺れ、
その表面の膜が、ぬめるように波打っている。
その奥で――
膜の内側から、何かが突き出す。
「……ひ、人の顔が……見える……」
リリナは息を呑んだ。
毛も、瞳もない。
ただ“皮膚の立体”だけが、赤黒い膜に押しつけられるように浮かび上がっている。
まるで――内側から、押し出されているように。
思わず、ヴァエルの服を掴む手に力がこもる。
ヴァエルは、短く頷いた。
「……一つじゃない。」
低く、呟く。
「繋がってる。
伸びて、別の場所に根を作る。」
「じゃあ……最初は、もっと小さかったの……?」
「ああ。」
わずかに声が低くなる。
「仲間が、誤って触れたことがある。」
リリナの喉が、ごくりと鳴った。
「その瞬間――黒胎は、そいつを引きずり込もうとした。
喰うつもりだった。」
背筋が、ぞくりと冷える。
そのとき。
またひとつ、膜の向こうで“顔”が押し出された。
目はない。
口もない。
それでも――
助けを求めているように、見えた。
膜が膨らむ。
今にも、破れそうに――
「っ……!」
反射的に、リリナは顔をヴァエルの胸へ埋めた。
ヴァルゼアが大きく羽ばたく。
黒胎から、距離が離れる。
やがて。
恐る恐る顔を上げると、
黒胎は遠くへ退き、その脈動だけが闇の中に滲んでいた。
リリナは、浅く息を吐く。
――そのとき。
「……あれが、何を喰って育ってると思う?」
ヴァエルの声。
「え……?」
問いに、言葉が出ない。
(近くにいた人を……?)
(そんな……まさか……)
想像するだけで、怖い。
黙り込むリリナを見て、
ヴァエルは顎で空を示した。
リリナも、つられるように視線を上げる。
そこにあったのは――
闇を縁取り、血のような光を帯びる異形の月。
「――黒月だ。」
その瞬間。
風が、ぞくりと肌を撫でた。
黒胎の脈動が、黒月の光を吸い込むように震える。
その変化は、目では追えない。
だが確実に――
何かが、育っている。
まるで――
影の世界そのものを、喰らっているようだった。




