第206話 黒胎の脈動、影の空をゆく
生まれて初めて口にしたアルコールが、
じんわりと脳を刺激し、胸をふわりと高揚させていた。
あの異様な月の下――空を飛ぶ。
巨大鴉ヴァルゼアの背。
その“特等席”に、リリナは座っていた。
「気持ちいい……!」
風が髪を撫で、頬をくすぐる。
そのすぐ後ろで――
ヴァエルは、リリナの長い髪が顔に当たるたび、
鬱陶しそうに手で払っていた。
「……髪が邪魔だ。」
「え?」
振り返る。
風に負けない、満面の笑み。
音はすべて、風に溶けていく。
次の瞬間――
ヴァエルは、リリナのスカートの装飾についていたリボンを、
ひょいとつまみ上げた。
迷いなく、引き抜く。
「あっ……! そのリボン、可愛いのに!」
「お前の服のセンスは最悪だ。」
言い捨てながらも、
器用に髪をまとめ、リボンで結ぶ。
きゅっと。
(言い方は乱暴なのに……)
(やってることは、マルナみたい……)
思わず、くすりと笑みがこぼれた。
ヴァエルはわずかに目線を逸らしたが、何も言わなかった。
――
やがて。
街灯の光が途切れ、闇が広がる。
眼下には――
息を潜めたような森。
だが。
よく見ると、木々はすべて枯れていた。
「森が……死んでる……」
胸が、ひどく痛む。
生命の気配がない。
(これも……影の異変……?)
そのとき。
「あの場所だ。」
ヴァエルの声。
リリナは顔を上げた。
空の先――
赤黒く脈動する“何か”が、そこにあった。
まるで、巨大な臓器。
丘ほどの大きさで、赤黒い光が心臓のように脈打っている。
「え……なに……あれ……」
「黒胎と、俺たちは呼んでいる。」
「……黒胎……」
言葉が、重く胸に沈む。
「近づくぞ。振り落とされるな。」
ヴァエルは迷いなく、リリナの腰へ腕を回した。
ぐっと引き寄せる。
リリナも反射的に、ヴァエルの腰へ腕を回す。
(……鼓動……近い……)
黒胎へ近づくにつれ――
空気が、変わる。
重く、熱を帯びる。
影の鼓動。
ここで――
“本来あるべきでないもの”が、生まれている。
リリナは、初めて目にする異様な光景に、
息をすることすら、忘れていた。




