第199話 巨大鴉の背、名を名乗る影の男
バサッ――!
すぐ背後で、巨大な翼が空気を叩いた。
(近い……!)
反射的に振り返る。
巨大な鴉の背。
その背に低く身を構えた男が、無言のままリリナへ手を伸ばしていた。
迷いのない動き。
表情は読めない。
ただ――“捕まえる”という意志だけが、そこにあった。
「きゃああああ!!!!」
身体が、ふわりと浮き上がる。
気づけば。
リリナは、巨大鴉の背へと引き上げられていた。
男の片腕が、腰をしっかりと抱き留めている。
次の瞬間――
鴉は、急上昇した。
空気が叩きつけられる。
身体が傾き、思わず男にしがみつく。
怖い。
それなのに――
この世界で初めて触れた“生身の温もり”が、
混乱の中で、ほんのわずかな安堵を与えていた。
やがて飛行が安定する。
リリナは、そっと手を緩めた。
横目で、男を見る。
あの瞳。
さきほど空から見下ろしてきた、あの静かな色。
今は、逃げ場もなく――すぐ目の前にある。
耳たぶには、黒い鉱石のようなものが埋め込まれている。
皮膚を貫いているように見えるのに、
痛みを感じている様子はない。
(……装飾……?)
(でも、こんなふうに“埋め込む”なんて……見たことがない……)
“別の世界の人間”。
生まれも、文化も違うのに――
同じように、息をしている。
それが、どこか不思議で。
奇跡のようにすら感じられた。
――けれど。
腰に回された腕は、離れない。
(私は……どこへ連れていかれるの……?)
(生贄……? 捕食……?)
(この世界のことが、分からない……!)
不安が、胸を締めつけたそのとき――
男の視線が、こちらへ向いた。
吸い込まれそうな瞳。
息が、止まる。
「あ、あの……言葉は通じますか?」
恐る恐る問いかける。
男の視線が、リリナの口元をなぞるように動き――
低く、短く、答えた。
「……俺はヴァエル。」
突然の名乗り。
「バ、バエル……さん……?」
「ヴァ。エル。」
短く、訂正。
「ヴァ……エル……」
ヴァエル――どこか“ヴェイル”に似た響き。
お互いの口元を見ながら、発音を確かめ合う。
そして、目が合った。
「お前は?」
(わ、言い方が……荒い……!)
驚きながらも、必死に名乗る。
「わ、私は……リリナ・エル・セレフィアです!」
少しだけ、胸を張る。
「……名前が長い。」
即答。
「えっ……」
思わず固まる。
(この世界……姓がないの……?)
「あ、リリナで……!」
「……リリナ。」
ヴァエルは短く頷き、視線を前へ戻した。
風を切る音だけが、二人の間に流れる。
「どこへ向かっているんですか……?」
勇気を振り絞って問う。
――返事はない。
ヴァエルはただ、前方を見据えていた。
仕方なく、視線を落とす。
眼下に広がるアンダーヴェイルの街。
無数の灯りが、宝石のように散らばっている。
驚くほど――美しい。
しばらく見つめて――
思わず、言葉が零れた。
「……綺麗……」
その中心に。
黒い塔が、静かにそびえている。
さきほど鐘を鳴らしていた場所。
(ここから……上の世界へ音が届いている……?)
(じゃあ……どこかに“繋がる場所”が……)
目を凝らす。
だが――
それらしいものは、どこにも見当たらなかった。




