決意の宮﨑
真司からのメールの内容は、新年になったら早紀さんと子供を連れて東京に来るというものだった。その時にメシでも食おう、と。メールの最後にはできたらカオルを誘っておいてくれ、と書いてあった。最後の一言で、胸の中の黒猫はまるで今自分の名前を呼ばれたかのように首を上げ、こちらを見つめている。
夏休みに宮崎へ行ったとき、真司にはカオル君のことを全て話していた。
アルバイト生活でお金に余裕ができた僕は、バイト以外やることのない夏休みに宮崎へ行くことにした。長期で行くこともできたけれど、あまり長くいてもと思ったので二泊だけすることにした。真司に伝えると、部屋が余ってるからと実家に泊めてくれることになった。
僕はなるべく安く行くため、飛行機は使わずに新幹線で宮崎へと向かった。真司の家の最寄駅である青島駅まで約十時間という長い道のりを経て、ようやく辿り着いた。帰りも同じように帰らなければならないと思うと気が重かったけれど、節約のためだと割り切るしかなかった。
真司達は青島駅まで車で迎えに来てくれた。助手席にはお腹の大きな早紀さんが乗っており、久しぶり、と人差し指で頬を掻き照れ臭そうに挨拶をしてくれた。
車で十分ほど走ると、窓を開けた車内には潮の香りが充満した。窓に顔を寄せると、車内いっぱいに香りを運んできた風が僕の顔に吹きかかる。僕は一年前の江ノ島の海を思い出さずにはいられなかった。あれから一年、という感覚は、時が経つのが早いのか遅いのか、よくわからなかった。
車内のスピーカーから、ふと聴き慣れた歌声が聞こえてきた。とても柔らかな質感と、張りのある声質、透明感。この歌声は、音色だった。
「早紀。ちょっと音楽変えようか」
「あ。そうね……じゃあ夏だしTUBEにでもしようかな」
早紀さんはスマホに触れる。
「いや、このままで大丈夫ですよ」
僕は精一杯明るい声を返した。早紀さんは少し躊躇していたけれど、真司の顔をチラリと確認し、結局そのまま流すことにした。車内には音楽とタイヤの擦れる音だけが響く。
僕は窓の隙間から潮の香りを感じていた。気を抜くと、苺のような甘い香りに飲み込まれてしまいそうだった。
「明日香さん、すごいですね。大物ミュージシャンプロデュース!期待の新星!ですからね」地元出身のスターを語るように、僕は言った。
「最近よくネットニュースで見るもんな。バンドじゃなくてソロデビューだったのが意外だったけど」
真司が眩しそうに目を細めたのがバックミラー越しに見えた。
「そういえばそうだね。明日香さんって確か高校の同級生と組んでいたんじゃなかったでしたっけ?」
早紀さんに向けて声をかけると、彼女は何も言わずに顎を一度大きく引いた。
「まぁ……明日香さんらしい選択ですね」
車内にはまた音楽と車の走る音だけが響き渡る。彼女の歌声から何かしらの変化を感じ取ろうとしたけれど、あの頃河川敷で聴いた歌声と何ら変わりはないように思えた。あの頃と変わった、と思うのはこちら側の傲慢なのかもしれない。
真司にカオル君の話をしたのは宮崎に来て二日目の昼だった。昨晩は真司の両親と酒を呑み交わし、若干今朝起きてからも酒が抜けていなかった。九州男児は酒豪が多いという話は本当だった。
真司の父は、僕が思っていたよりも優しい人で、性格も外見も真司そっくりだった。血が繋がっているだけあって、話は終わらずに遅くまで飲んでしまったけれど、気のいいおじさんといった感じで悪い気はしなかった。
昼前に起きると、僕はズキズキと痛む頭を無理矢理起こし、海沿いに来たのだからと真司を誘って二人で砂浜を歩くことにした。
「昨晩は悪かったな。付き合わせちまってよ」
「泊めてもらってるんだから、あれぐらい大丈夫だよ。歓迎されてるようで嬉しかったし」
そう言っている今も、体中の穴という穴からアルコールが放出されているような気がしている。体は自分のものではないかのように重く、砂浜に置いていきたいぐらいだった。
「あのお父さんだから、真司みたいな人間が育ったんだね」
「褒め言葉として受け取っておくよ」真司は照れ臭そうに頭を掻いた。
雲一つない快晴と際限なく広がる海は同色だった。まるで一体であるかのように見える。遠く彼方で二つは交わり、同じ世界を生きている。穏やかな波は心を洗い流すようにゆっくりと砂浜に手を伸ばしている。
僕が友達と二人で砂浜にいると思うと、なんだか不思議な気持ちだった。僕達は少し砂浜に座って休むことにした。
まだ五月だというのにお尻は十分温かい。陽の光もあって、二日酔いの体からは常にアルコールが放出されていく。東京を包むどんよりとした空気とは違い、宮崎の空気は乾いており軽く感じた。あのお父さんの影響だけでなく、この土地で育つと真司のような人間が育つんだな、と刑事のような視点でものを考える。
僕は真司に、カオル君の話をすることにした。
その話をするために宮崎に来たわけではなかった。でも、この宮崎の空気が僕をそうさせたのかもしれない。それに彼には、いつか言わなければならないと思っていた。
真司は珍しく、僕の話を途中で遮ることはなかった。途中何度か顎を微かに引き、頷くようにゆっくりと瞬きをしていた。彼は全て聞いたあとにひとり深く息を吐いた。
「俊太郎の気持ちはわからなくもないが、カオルは傷ついただろうな」
真司は噛みしめるようにゆっくりと、僕に語りかける。彼は僕を非難するのではなく、自身で悟らせるように言葉を繋ぐ。
「カオルは食堂に行くのを悩んだはずだ」僕は無言で頷く。
「きっと足取りは重かったと思うよ。でもおまえなら大丈夫と思った」
「そしてその日来たんだ」
真司は微かに揺れる大きな背中を僕に向け、砂浜を指でいじる。砂浜にはケースに入った色鉛筆のように様々な色合いの貝殻が落ちている。形も千差万別だ。けれどもそれらはすべて、同じ砂浜に広がっている。渚から伸びる手が、いつ自分達を戻してくれるのか、彼らは今か今かと待ち侘びている。
真司は立ち上がり、そうだったのかぁ、と小さく息を吐くと、もうカオル君の話はしなかった。
翌日、東京へ戻る僕を駅まで見送りに来た真司は、また三人で馬鹿話したいな、と僕の背中に声をかけた。後ろを振り向かずに親指を上に向け、真司に見えるように手を上げた。
僕には似合わないキザな仕草だったけれど、そんなことをしている自分に笑えてきたことを覚えている。真司に大見えを切ったけれど、まだ僕は、カオル君に話しかけられないでいた。
真司からのメールには、真司と早紀さん、生まれたばかりの子供が写る写真も添付されていた。そこに写る二人の笑顔は僕には眩し過ぎて、つい目を細めてしまう。
早紀さんと共に笑顔で写真に映る真司は、本物の真司だった。別の誰でもない、僕の大切な友人である真司だった。
僕は早紀さんには悪いが、真司と明日香さんが逆の決断をしていたら良かったのに、と思っていた。
そんなことを思う自分が嫌になる。でも、利己的な考えをするのであればそう思わずにはいられなかった。
真司が公認会計士の夢を諦めずに大学に残り、早紀さんには子供を堕してもらう。そしてもう二人は会わないようにする。一方明日香さんはバンドで世に出る夢を諦め、僕と河川敷を歩き続けてもらう。
二人がもしこの選択をしていたら、僕はひとりではなかった。
けれども、もし彼らがこの選択をしていたら。
もうそれは彼らではない別の人間だ。
早紀さんとの幸せよりも夢をとった真司はもはや真司ではない。音楽を諦めた明日香さんは僕の好きな明日香さんではない。歌を歌わなくなった彼女も魅力的だとは思う。けれどもやはり僕は歌を歌う彼女が好きなのだ。
ようやく、僕は今までのことが体中に染み込んだ。すべてが自分のものとなり、自分を形成していく。
これで良かったと思うことができた。二人のした選択は必然だ。彼らはこの選択をする人間だからこそ、僕は惹かれたのだ。
でも、できることであれば、彼らの選択に自分も関わっていたかった。もう少し僕が真司に踏み込むことができていたら、違った決断もあったのかもしれない。明日香さんに早く思いを告げていれば、彼女との付き合い方は変わったかもしれない。
僕は真司に一度も早紀さんとのことを自分から聞いたことはない。明日香さんにモヒカンさんのことや、恋人関係のことを一度も聞いたこともない。彼女に告白すら、していない。
カオル君はあれから不安定な状態でいるかもしれない。しかもそれは他の誰でもない、僕のせいである。彼が自分自身のことを傷つけてしまう前に、僕は自分から彼の円の中に踏み込んでいきたい。
もう手遅れな思いは、したくなかった。
真司からのメールに短く返信すると、部屋の窓から外を眺める。冬の澄んだ空気の中で光が伸びるようにアスファルトを照らしている。雀の鳴き声がする方に目を向けると、三羽の雀が集まり井戸端会議を開いているところだった。




