変える
中庭には僕ひとりしかいなかった。新年になり授業が始まったばかりのこの季節に、中庭に座っている物好きな学生なんて僕しかいない。
寒空の下で深く吐いた息は、目の前でゆらゆらと彷徨っていたかと思えばすぐに消えていく。冬特有の張り詰めたような空気感と僕は一体になって座っている。
寒くて身を縮こませているけれど、ここにいればカオル君に会えるはずだった。授業をサボらない彼は、必ず中庭を通るはずだった。休憩時間に待っていれば、彼のとっている授業が分からなくても日に一度はこの中庭を通るはずであった。
昼休みに購入した二本の缶コーヒーは、もうすっかりと冷たくなっていた。もうすぐ三限が始まる鐘が鳴るはずだ。
三限の授業は取っていないのか。
僕が諦めるように立ち上がろうとしたとき、遠くから亜麻色の髪をした青年がこちらに歩いてくる。彼の腕にはいつか見たスケッチブックが挟まれていた。
彼はだんだんと近づいてきた。ベンチに座る僕には目もくれず、僕の目と鼻の先を通り過ぎていった。微かに白い薔薇の香りが漂い、クリスマスイブの夜が思い浮かんでくる。
黒い何かが広がり始め、僕の心はギュッと握られたように縮こまる。それは止まることなくゆらゆらと広がり、次第に濃くなり陰影がはっきりとしてきた。手は悴んでいるが、額に汗が滲む。全てが包み込まれようとしたとき、どこからか聴こえてきたのは音色だった。その音色は頭の中を流れるだけで僕の中を温める。自然と奥歯を噛み締める。
僕は肩に掛けた鞄に手を触れ、彼の背中に声をかけた。
「カオル君、君に話したいことがあるんだ」
大きな声はでなかった。けれども、彼の歩みを止めるには十分な大きさだった。
「僕は何も話すことはないよ」
振り向いた彼の顔からは表情が抜け落ちていた。夢で会う彼と同じだ。犬のようであった彼はもういなかった。
彼はそう僕のことをシャットアウトするように言うと、また何事もなかったかのようにふらふらと歩き出す。
「待って、カオル君。君と話がしたいんだ」
彼の後を追いながら話を続けるけれど、彼は一向に止まろうとしない。薄水色のパーカーを来た彼の背中は細く、弱々しい。
「君は僕と話なんてしたくないだろ?」
彼の背中から微かに震えた声が聞こえる。集中していないと聞き漏らしてしまいそうなほどその声は小さい。
黒猫はまだくるりと体を丸くしたまま、微動だにしない。でも、僕達の会話に聞き耳を立てているかのように、眠らずに目を見開き僕のことを見つめている。
「カオル君、僕は君を傷つけてしまったことをずっと謝りたかったんだ。本当に、あのときはごめん」
「……何度も謝るタイミングはあったはずだよ」
カオル君の声は冷たく、僕を突き放すかのように鋭い。確かにあれから一年だ、今更と思うのもわかる。僕の方には目も向けず、その歩みも緩めようとしない。
「それは……僕が弱かったんだ。僕は真司や君のように強くない」
「俊太郎君。僕は弱いよ」
彼は急に立ち止まると、こちらを振り返る。彼はうっすらと涙が溜まった目でまっすぐ僕を見て話し出した。
「僕は何度も人に拒絶されてきたけど、拒絶されることに慣れたことはないよ。毎回地のどん底に落とされるんだ。這い上がっても這い上がっても、またどん底まで落ちちゃうんだ。普通に生きているだけなのに。こんなのただの体質なのにさ。みんなと何ら変わらないのにさ。皆気味が悪いと離れていく」
「体質……か」
「そうだよ。君が明日香さんを好きになることと、何も変わらないよ」
彼の言葉は微かに揺れ、その大きさも不安定であった。彼の過去にどんなことがあったのかわからないけれど、あの手首の痕を見ると幾分かは察することができる。
「あの夜拒絶されたことが悲しいんじゃない。友人として拒絶されたことが悲しいんだよ。君は離れていかないと信じていたのに……」
もう僕の頭に音色は響いていなかった。僕は頭を下げることしかできなかった。彼を傷つけてしまった事実を今更消し去ることなんてできるはずがない。
視線を下に下げ、目を瞑る。脳裏には早紀さんと肩を組む真司と、山吹色のマフラーを巻いた明日香さんが浮かんでいた。彼らは笑顔で、僕が自ら壊すのを待っている。僕が出てくるのを、待っている。
「カオル君、もう一度友達としてやり直してくれないか? 僕は君に救われたんだ。始まりは君なんだ。そんな大切ことも僕は忘れてしまっていた。僕が言える言葉じゃないけど、君とは繋がっていたいんだ」
声を振り絞り彼に伝えると、肩に掛けた鞄から薄水色のマフラーを取り出し、カオル君の小さな肩にそっとかけた。彼の肩は細かく震えているようにみえる。
「真司とカオル君と過ごした日々は楽しかった。僕にもこんな仲間ができるんだって驚いた。あの日常は壊したくなかった。君は悪くない。それを壊してしまったのは自分だってわかってる。僕の我儘だと思うけど、二人とはこれからも付き合っていきたい」
彼は何も言わず、ただ宙を見つめている。
「決して長くはなかったけど、僕は三人で過ごしていた日常が忘れられないんだ」
「カオル君は楽しくなかった?」
彼は目に涙を溜め、僕の足元に目をやる。微かに首を左右に振っている。
「カオル君、来週真司と食事をする約束をしているんだ。ここに日時と場所が書いてあるから、来てくれないか?」
彼は少しの間じっと動かずに悩んでいる様子だった。やがて手紙を受け取り、すぐにポケットの中に入れた。すると僕の方を見向きもせず、走り去っていった。
ようやく彼にボールを投げることができた。僕は中庭のベンチに腰掛け、空を見上げて深く息を吐いた。息は白く、海月のようにゆらゆらと立ち昇る。雲ひとつない青空に重なると、僕が描いた一枚の絵であるかのように感じた。




