010:……幸先の悪い出だしだ
ああ、セーフルームが恋しい。
迷宮へと一歩足を踏み出した俺は、早々にあの真っ白な小部屋へと帰りたい気持ちでいっぱいになった。
セーフルームは床、壁、天井と、全てが白色に覆われた無機質な小部屋だ。温かみはなく、決して居心地の良い空間とは言えない。
それでも、ここよりはマシだ。
ダンジョンに足を踏み入れたことで痛感した。音がない世界というものは孤独だ。静寂さがこの身を重く押しつぶす。ダンジョンの通路は画一的で個性がない。それが却って不気味さと不穏な雰囲気を醸し出している。
……酷く重苦しい空気だ。
緊張と気持ちの高ぶりで鼓動が一段と早くなっていた。呼吸もし辛い。セーフルームを出てすぐはいつも身体が強張ってしまう。
だからこそなのかもしれない。
俺が最初にすべきことはこれしか思いつかなかった。
「……相棒! あのときは見捨てて悪かった。ごめんなっ」
その一本の棒は迷宮の通路の端っこで異質物として存在感を放ちながらぽつんと落ちていた。俺はすぐさま相棒を拾い上げて謝罪の言葉を贈った。俺のそんな気持ちに答えてくれたのか相棒の握り具合いは最高だった。
相棒を両手で握り、スっと正面に構える。
軽く振り上げてから真っ直ぐに空を切る。
相棒を振り下ろす度にブン、ヒュンと小気味良く風切り音が鳴った。それは俺の調子の良さを物語っている。上から叩いて良し、引き絞ってから真っ直ぐに突いて良し、横に払って良しだ。
いつものように一通りの所作を終えたが、まだ俺は相棒を振り続けた。
『僕を使え』
何やらそんな幻聴すら聞こえてきそうな程に俺は相棒を自在に使いこなせる気がした。……というか実際に聞こえた。
『さあ、僕を存分に活用し――』
「……カレン、遊ぶな。……こっちは真面目にやってるんだからな?」
声を落としつつ真剣な面持ちで俺はカレンを嗜めた。
『……うぐぅ、ごめんなさーい』
カレンの謝罪を受け入れつつ、身体の強張りをほぐす作業を続ける。
ふと、カレンも俺が始めた小芝居に乗っかって俺の緊張をほぐそうとしてくれたのかもしれないと気づいた。俺も自分の緊張をほぐすためにわざとやったことだ。だから、もしカレンにそんな気遣いがあったとすれば怒ったことを少しだけ申し訳なく思う。
少しピリピリしすぎただろうか。
中型イヌモドキがこの先の角にいる可能性も視野に入れて、すぐにでも全力で動けるように身体を温める必要があった。セーフルームで予めストレッチ等をして身体に熱を入れていたにも関わらず、ダンジョンに入った途端にこのザマだ。
ステータスの恩恵を身に感じつつも、やはりダンジョンの中は恐ろしく、身構えてしまう。
俺はこのままセーフルームの前で入念に肉体の状態をチェックし続けた。しばらくすると、前方の曲がり角のあたりにイヌモドキの気配を感じ取る。
実はこいつを待っていた。
例のごとくL時型の角からそいつはぬるりと現れた。俺を視認した途端に「グルルッ」と唸り声をあげる。
ノーマル型のイヌモドキだ。今後は一番小さいサイズのモドキは全てノーマル型と呼ぶことに決めた。新種の二回りほど大きなサイズのモドキは中型とする。
それにしても、イヌモドキか。本当のところ、このネーミングも変えるべきかどうかで迷っていた。奴らをイヌとして認識したくないのだ。かといって今さらイヌというワードを外しても手遅れな気もした。
今まで散々イヌの形をした生物を殺してきているわけだしな。俺がよくお犬様と茶化した言い方をするのも精神を保つための自己防衛本能なのかもしれない。
あらためて動物好きの俺に彼らと同じ姿形をしたバケモノを殺生させるカレンを酷い奴だよと愚痴りつつ、俺は跳び掛かってきたイヌモドキの横っ面に上段の回し蹴りを打ち込んだ。
ノーマル型の跳ねるタイミングは既に身体で覚えてしまった。
そろそろ相棒に頼るだけでなく、自分の肉体を上手く使って攻撃できるようになっておきたい。攻撃手段が増えれば、それだけこちらの選択肢が増える。選択肢が増えれば、より行動範囲が広がり生存率の向上に繋がるはずだ。
十分に手応え、いや足応えがあったので確実に殺したと思うが、念のためにイヌモドキの頭を相棒で打ち下ろして止めを刺した。しっかりと確認作業をするべきだとはわかっている。
頭ではわかっていても、身体は動かなかった。
倒れ伏しているノーマルイヌモドキの遺体はあまり直視したり触れたりしたいモノでない。ただ、ドロップのこともある。触るのは無理だったが、できる限り直視することだけは心がけた。
「……良し、行くか」
イヌモドキの遺体が完全に消えたことを確認してから先に進む。ドロップ品はなかった。
まずは中型イヌモドキの存在を確認する。音を殺し、気配を殺してゆっくりと最初の角を曲がる。その場でまず耳を済ませたがモドキ特有の足音は聞こえなかった。
二つ目の角を曲がる前に立ち止まってもう一度、音と気配を探った。
「……いない」
そのまま慎重に進んでT字路に出た。
ここは非常に重要な場所である。このT字の床か壁にどうにかして目立つ目印を付けておきたいところだ。そのためだけに血は流したくないが、その価値はあると考えていた。
セーフルームの位置は俺にとって一番重要な情報だ。遠くからでも一目で判別できる目印は絶対的に必要なものである。
左右の通路からモドキが来ないかを警戒しつつ、俺はここに来て初めてつぶさに通路の壁面や床、天井付近を観察した。
灰色の壁がどこまでも続く。模様や柄のようなものもなく、特徴や目印になりそうなものは見当たらない。白色に近い灰色の床は、側面の壁と区別が付くように若干色が濃い。壁同様に無機質で特徴的なものはなかった。
「……天井は白に近い黄色か。薄っすらと光を放っているように見えるな。通路の見通しが良いのもこのおかげか」
ダメだ。まったく特徴となるものがない。
相棒が壊れない程度にガツガツ、ゴリゴリと壁や床を叩いたり削ってみたりしても傷一つ付かなかった。無音の中、作業音はかなり響いたが仕方がない。経験則として探索始めは単独行動のモドキと遭遇するケースが多いので、確認するのなら今しかなかったのだ。
これは本格的に脳内マッピングに頼る必要があるかもしれない。ゲームによくあるオートマッピング機能の有り難さが身に染みるね。あと画面端に小さなマップが表示されるやつな。
あれを最初に考えた人は天才だ。
血を流すためのナイフもない。迷宮の地図を描くための紙とペンも持ち込み不可だ。ないものねだりをしても始まらない。このまま探索を続けるしかなかった。
当初の目的通り、今回は最東端を目指す。
迷宮の全体像を把握しなければクリア目標の設定すらままならない。
だが一応、予想している候補は三つある。
1.ある地点に到達すること。
2.ある地点にいる敵を排除すること。
3.ある地点にある物をセーフルームに持ち帰ること。
他にも考えられるかもしれないが、現時点ではこれが精一杯だ。
ともかく、クリア目標が何であろうとダンジョンの全体像はいち早く掴んでおきたい。マッピングするときもマップの隅から塗りつぶしていくのが基本だ。
ただ東に真っ直ぐ進めばいい、というわけにも流石にいかなかった。
途中、T字路や曲がり角などのせいで方向転換を余儀なくされる。自分がいま向いている方角やセーフルームとの位置関係を常に頭の片隅に置いておかなければならない。でなければすぐに迷ってしまう。
東側の領域を侵食するにつれてノーマル型のネコモドキと遭遇する機会が増えてきた。遭遇するのは単独行動のネコモドキばかりで戦闘にはまだ余裕がある。
ちなみに中型のモドキが出現するまではいちいちノーマル型のと頭につけて呼称するのは控えることに決めた。自分で設定しておいて言うのも難だが、いちいち『ノーマル型の』と付けるのが面倒くさい。
必要になったら呼ぶ。面倒臭さとは即ち精神的な疲労に繋がる。極力避けるべきだろう。ここでもしっかりと必要性を学んでいく。
セーフルームを出発してから直線距離的にはそんなに遠くへは来ていない。セーフルームを中心とした中央エリア付近は経験上、単独行動をしているモドキが多い。もちろんそれは絶対ではない。確率や傾向の話だ。
唯一、例外的な事例はセーフルームに帰還する直前に出現したあの三匹のイヌモドキ共だ。奴らはカレンが俺に用意した最後の障壁だと確信している。迷宮を無事に帰還したいのであれば、あいつらを倒す余力だけは残しておかなければならない。
迷宮探索にある程度の余裕が生まれたことで、かえって余計なことを色々と考えてしまう。今は探索に集中しよう。
そう気を引き締めて早々に。
「……シャァッ」「……フゥーッ」
二匹のネコモドキがまるで威嚇し合うような鳴き声が聞こえた。この先の十字路にいるのは確かだ。ただ、左右のどちら側にいるのかはまだわからない。姿もまだ見えなかった。
モドキ同士で敵対する場面には今まで遭遇したことはない。俺の知らないところで喧嘩ばかりしているのだろうか。モドキの生態がちょっぴり気になる。
しばらく立ち止まって様子を見ると、威嚇し合う鳴き声が途絶えた。
そして左側の通路から二匹のネコモドキが連なって姿を現した。そのままこちらに気づかず、前進して通り過ぎることを期待したがそう都合良くはいかなかった。
二匹のネコモドキは何かを捉えたのかそろって顔をこちらに向けた。俺の姿をその2対の瞳に収めるのと同時に「フゥーッ」「シャァッ」と威嚇して敵意と殺意を剥き出しにする。
まず直感的に頭をよぎったのは合流という言葉だ。単独行動をしていたネコモドキ同士がかち合い、何らかの意思表示があって共に行動することを決めた。でなければ、あの鳴き声の意味が説明つかない。
ネコモドキは単独行動でも変則的な動きが多い厄介な相手だ。それが複数匹ともなれば行動パターンは複雑怪奇となる。
息を合わせるように連携して襲いかかってくることもあれば、片方のみが攻撃、もう片方は様子見というパターンもある。そして厄介なのはどこを狙ってくるのかがギリギリまでわからない点だ。
こちらの顔や首元、手の先や腕周り、足先や太ももといった具合に狙ってくる箇所が多くて判別がしにくい。一匹だけならまだ慎重に見極めることで対処できるが、複数匹なら怪我を覚悟する必要があった。
今回も様子見をするネコモドキがいた。
それを目端で捉えつつも、どうしても意識は襲いかかってくるネコモドキに集中してしまう。どうやら狙いは俺の右腕らしい。猛スピードで動いているはずなのに、ネコモドキの視線を感じ取る。
わかりやすく引き付けるために、あえて右腕を突き出して左手に持つ相棒を引き絞った。俺の右腕に噛みつかんと飛び跳ねたところを、相棒で一突きにする。
「ふぅ……ぐっ!」
と呼吸をする暇もなく、いつの間にかもう一匹のネコモドキが直ぐ側まで来ていた。相棒を突き出したままの状態で右足に衝撃と痛みが走った。
「――っ痛」
鋭い爪による斬撃を右足に受けた。ネコモドキは勢いのまま俺の背後へと走り去った。
右ふくらはぎの肉がえぐれている感覚がある。とは言え、立ったままでいられるということは即ち重傷ではないはずだ。傷口を確認したい衝動に駆られるがそんな暇はない。
俺は右足に力を込めた。ズキっとした痛みはあるが動かすことに支障はない。すぐさま身体を反転させて相棒を構える。
ネコモドキは既に体勢を整え終えていた。再び攻撃する構えを見せている。次は何処に来る。何処を狙う。よく見ろ。前足の動き、顔の向き。
狙うべき場所へとその瞳が動く。
「また足かっ!」
狙われる場所が分かれば話は簡単だ。
俺の左足を狙うべく飛びかかるネコモドキを幻視する。跳ねるタイミングと位置は既にわかっている。であるならば、ネコモドキが通る宙空の軌跡に俺の足を据え置くだけだ。
ネコモドキが跳ねたタイミングに合わせて右足を一歩前へと踏み出した。
軸足として使う。
踏ん張りを入れたせいで血がぷしゅっと吹き出した。
仕方ない。物凄く痛いが十分耐えられる。
……やけに時間がゆっくりと動く。
ネコモドキが伸ばした鋭い爪とすれ違うように左足で蹴りを放った。
サッカーボールを遠くへ蹴り飛ばすようなローキックだ。血まみれとなった右足を軸に、つま先は吸い込まれるようにネコモドキの顔面へと到達し、その首をへし折った。
ネコモドキは回転しながら勢いよく壁まで吹っ飛んでいった。壁にぶち当たって跳ね返るとそのまま床に倒れ伏した。
……ピクリとも動かない。
「フゥーっ……痛っ」
俺は大きく息を吐いて呼吸を整えた。
ジクジクとした熱い痛みに耐えながらもまずは周囲を警戒する。近くにモドキの気配がないことをしっかりと確認してから右足の状態をおそるおそる覗き込んだ。
ズボンの足首あたりが血で真っ赤に染まっている。
右側面にはネコモドキの爪痕がくっきりと残っていた。
靴下や運動シューズも血で赤黒く彩られ、血液を吸ったせいか少し重い。ボロボロとなったズボンの裾をゆっくりめくり上げると。
「……うぇ」
ふくらはぎの右側面に4本の爪痕が走り、傷口から赤い肉が見えた。
……幸先の悪い出だしだ。




